ised議事録

10-083. 倫理研第6回:辻大介講演(3)

題目:「開かれた社会へ向けて存在の匿名性を擁護する」

倫理研第6回:開かれた社会へ向けて存在の匿名性を擁護する


3. 開かれた情報社会へ向けて――リスク不安から存在の匿名性を擁護する

他者の不透明性がもたらすリスク不安

 それでは、環境管理型権力の有効な活用の仕方について考えてみたいと思います。まず検討したいのは、情報技術によってセキュリティ強化を行うことの動機付けについてです。冒頭でも申し上げたように、その背後にはリスク不安が挙げられます。東さんが情報自由論で述べていることを要約すれば、それはポストモダン化、いいかえれば大きな物語の衰退とともに常識の共有度(への期待値)というものが低下することが引き起こすものです*1。この社会の同質性の低下によって他者の不透明度が上昇し、行為の予測できない他者へのリスク不安が生じることになる。

 では、大きな物語を復権すればいいのでしょうか。しかし、それは困難です。かつて大きな物語は、飢えや死といった動物的な条件をテコにしていました。しかしその恐怖がすでに遠ざかってしまった豊かな社会では、大きな物語にしがみつく動機は極めて薄い。そこでリスク不安を鎮めるために、環境管理型権力によるセキュリティ保障、あるいは存在の顕名化への欲求が起こってくるのは、自然といえば自然な成り行きであるといえます。

 ただし、このリスク不安は、本当になにをするのか分からない他者が増えているから起こっているのかといえば、必ずしもそうではない。現在の日本社会において、若者・未成年という存在は、この不透明な他者とされている典型例ですが、実際のところはどうか。たとえば少年犯罪の殺人検挙数を見てみましょう(図:少年の殺人検挙者数)。ちなみに刑法犯罪全体の検挙率は低下しているのですが、いまでも殺人事件の検挙率は100%に近い値を保っています。少年の殺人検挙者数を人口比で比べてみますと、過去に比べると減少しています。決して急速な増加傾向にはありません。少年層に限らず、全年齢層でみた場合も、51年から55年頃がピークで、その後低下して落ち着いています。これは世界的に見ても低水準で推移している。つまり、私たちの社会は必ずしも実体に見合ったリスク不安に見舞われているのではなく、むしろリスク不安を掻き立てるような構造が私たちの社会のなかにある、と考えるべきではないかと思うのです。

図:少年の殺人検挙者数
図:少年の殺人検挙者数

他者の不透明性に対する戦略

 しかし、他者というのはそもそも定義からして不透明な存在です。完全に透明であれば、それは自己と変りはない。不透明な存在であることが、そもそも他者の定義の一部を成しています。それでは他者への不透明性にどう対処すればよいのでしょうか。

 ここでふたつの戦略を取り出してみたいと思います。1)まずひとつは、他者がなにをするのか絶えず監視する方法です。これは“surveillance”という強い意味での監視ではなく、単にとりあえずモニター(monitor)しておく、というくらいの意味合いなのですが、このモニタリングによって他者の透明性を向上するというものです。ただし、これを全他者に対して適用しようとしても、限定合理性を持つ私たちにとっては限界がある。後ほど述べますが、これを有効に実現するためには関係を持つ他者をある程度固定する必要があります。

 2)もうひとつは、これは戦略とはいいがたいのですが、不透明な他者をとりあえず無根拠に信頼するというものです。よくわからないが、こいつは変なことはしないだろう、ヤバイことはしないだろう、と信頼するわけです。ただし実際には、「こいつは信頼できそうだ」という情報をモニターするわけですから、1と2の戦略は截然と分離できるわけではありません。

 さて、第1部で紹介したダブル・コンティンジェンシーという状況を思い出してください。これは他者がいかなる出方をするかが予期できないという不透明性から生じるものでした。ルーマン自体は、この不透明な状況のなかから、信頼または不信頼が発生すると指摘しています(Luhmann[1984=1993:p.198])。この事態を理解するために、別の例になるのですが、ゲーム理論の「囚人のジレンマ*2と呼ばれるものについて考えてみたいと思います。

 まず初期状態として、AとBのふたりのアクターがいて、500円ずつ持っているものとします。そして、相手に投資をすれば、相手は500円の倍の1000円を得る、というルールを設定します。相手に投資するかしないかは、お互い自由に選択することができます。とりあえず300円だけ投資するという道は、この実験状況ではありえません。全額投資するか、全額手元に残しておくか、という選択肢しかない。また投資するか否かを決める前に、相手が自分に投資してくれるかどうかという情報は分からないとします。つまり、相手の出方を見た後に自分の出方を決める、ということができない状況です。

 この状況では、限られた手がかりを利用して、相手がどう出るかを予期し、さらに自分がどう出るかを相手が予期しているのか、ということを予期して……と、先ほども見たように決定不能に陥ることになります。そこで別のやり方をするとどうか。ゲーム理論ではおなじみの利得行列ですが、AとBがそれぞれ自己の利益の期待値を最大化しようと考えると、次のようになります(図:利得行列)。

図:利得行列
図:利得行列

 まずAの側から見ると、Bが500円自分に投資すると仮定した場合、自分も500円投資して消費するよりは、投資せずに500円をまるごと手元に残したほうが、総計での利得が大きくなります(1500円)。一方、Bが投資しないと仮定すると、この場合もAは投資しないほうが利得が大きくなります。0円になってしまうよりは、500円を手元に残したほうが得策です。この期待値を平均すると、Aが投資した場合に見込めるのは、1000円と0円の半分で500円になります。それに対して、投資しない場合は1000円の期待値がある。当然、そうするとAは投資しないという選択をするわけです。これはBにとっても同じことがいえますので、Bも投資しないという選択肢をとるはずです。そうすると、最終的にはAもBも投資をせず、500円を手元に持ち続けるという状態で均衡すると考えられます。これがいわゆるナッシュ均衡です。しかし、本来は両方とも投資をしあえば、相互に500円で均衡する解よりも、互いに1000円を得られるので利得は大きいわけです。AとBの相互にとってより望ましいだけでなく、社会全体としても2000円を得ることになり、しかもそれが平等に配分されている、非常に望ましい社会状態といえます。しかし、囚人のジレンマ的な状況では、それよりも望ましくない状態に陥ってしまうのです。

 ここで信頼という機能が活きてくるわけです。つまり、AもBも投資してくれるだろうと考えて、互いに投資できるようにするのが信頼の機能にあたります。Bが投資してくれるだろうと確証する術はないのですが、とりあえず信頼しておけば、1000円・1000円という解が実現する芽がでてきます。それでは、いかなる信頼戦略を考えればいいか。これは先述したとおり、ふたつの方法が考えられます。

 1)ひとつは、他者の振舞いをモニタリングし、裏切りそうにない相手を信頼していく戦略です。しかしそのためにはある程度関係を固定し、しかもその関係を広げることが難しい状態になる。つまり、非常に固定された関係のなかで暮らすことになります。ある種の島宇宙化といってもいいのかもしれません。すると結果的に、住まう島を異にする他者に対する不透明性は増えてしまう。いわゆる「不安のインフレスパイラル」*3が生まれかねない状況です。

 2)それに対して、とりあえずデフォルト値として、たいていの他人はあまり裏切らないものだと信頼する道があります。これを「一般的信頼」の戦略と呼びましょう。ただ、これを「信じることって、大事だよね」といったロマンティックなものとして捉えないでほしいのです。社会心理学者の山岸俊男さんは、信頼の機能としての「解き放ち理論」というものを唱えています(山岸[1998])*4。山岸さんは、戦略1の方向性、つまり固定したコミットメント関係を維持していくのは、社会的不確実性の大きな状況においても必ずしも有効とは限らないといいます。たしかに関係を限っていれば、得られる利益は大きくなるかもしれないが、それは機会費用を負担しつづけることになるからです。つまり長期的にみると、他の関係を結んでいれば得られたはずの利得を失うわけであって、結果的には損をする場合が十分ありうる。そこで見知らぬ他者への一般的な信頼を持つことは、関係性を解き放つことによって、社会的不確実性への有効な対処をもたらすだろう。大雑把な要約ですが、山岸さんはこのように論じています。

 またこれは私が考えたことですが、私たちは限定された合理性しか持ち合わせていないがゆえに、間違うことが多々あります。そこで閉ざされた関係を構築してしまうと、結ぶべき関係を間違えたときに、やり直すことが難しい。関係を開いていくことは、そのやり直しの機会を与えることにも繋がるのではないかと考えられます。

一般的信頼

 この一般的信頼には、はたして関係を開いていく機能があるのか。取引関係ではなく、友人関係についてなのですが、それをある程度支持するデータがあります(図:一般的信頼と友人数・関係拡大志向との関連)。

図:一般的信頼と友人数・関係拡大志向との関連
図:一般的信頼と友人数・関係拡大志向との関連

 このデータは2001年に行った全国調査を分析したものです*5。赤い折れ線が表しているのは、低信頼者よりも高信頼者のほうが友人数は多い傾向にあるということです。さらに棒グラフのほうは、友人をどんどん広げていきたいか、それとも現在の友人と仲良くしていきたいか、という二択において前者を選択した人の割合です。見た目には微妙ですが、統計学的には意味のある差として、高信頼者のほうが関係を広げる志向が強いことが確認できます。

図:一般的信頼を測るための設問(尺度)
図:一般的信頼を測るための設問(尺度)

 ふたたび山岸さんの議論に戻りますが、社会心理学のほうでは拍子抜けするくらい簡単な質問で一般的信頼の度合いを測定します。「ほとんどの人は信頼できる」とか、「人間は基本的に善良で親切である」といったものです(図:一般的信頼を測るための設問(尺度))。これがどのくらい尺度としてあてになるかということも確認されています。一般的信頼のスコアが高いほど、囚人のジレンマ状況で協力的な行動――さきほどの例でいえば相手への投資行為――を選択する率が高いことが確認されているのです。

 これらの質問を見る限り、これにYesを多く答える人というのは、ずいぶんと「間抜けなお人好し」とも思えてしまうかもしれません。しかし、高信頼者というのは必ずしも間抜けなのではないことも確認されています。というのは、一般的信頼と他者に対する用心深さは、因子分析をかけてみると別の軸になるのです。つまり、だいだいの人は信頼できるだろうと考えていても、「とはいえ気をつけておく必要はあるぞ」と用心深く風に考えることは、両立することが十分ありうるわけです。高信頼者は人物の信頼性に関する情報に敏感であることが、山岸さんの研究からも明らかになっています。つまり、一般的信頼というのは無根拠な信頼ではなく、「こういうことをやる人は信頼できそうだ」という情報に敏感であるということ、つまり人物の信頼性を見抜く「社会的知性」に対する自信ではないか。このような仮説を山岸さんは提出されているのですが、この話に踏み込むと長くなってしまうのでここでは止めておきます。

 この一般的信頼ですが、アメリカでは低下している兆候が見られます(Putnam[2000:p.140])*6(図:アメリカでは一般的信頼が低下)。特に1970年くらいから低下している。これは、ほとんどの人は信頼できる、あるいは人々と付き合うとき用心するに越したことはない、という選択肢があったときに、前者の「信頼できる」と答える人が減っているということです。参考までに、日本でも統計推理研究所が同じ設問を用いて調査を行っておりますので、青い点でプロットしておきます。実はアメリカと日本で一般的な信頼の度合いを比べた場合は、アメリカのほうが高いのですが、このプロットですと日本の場合、若干上がってきている傾向があるように見えるかもしれません。むしろこれは、アメリカのほうが下がって日本に近づいたというほうが、実体には近いと思われます。

図:アメリカでは一般的信頼が低下
図:アメリカでは一般的信頼が低下

環境管理型権力による一般的信頼の底上げ

 こうした調査も示唆するように、他者が不透明になってきて不信感が上昇していること、いいかえれば一般的信頼が低下していることが明らかになっています。この状況は避けがたいとすれば、それを補完するようなアーキテクチャの可能性は考えられないだろうか。不勉強で中身を詳細には把握しておらず、引き合いに出すのは申し訳ないのですけれども、ここで設計研鈴木健さんが提唱されている、伝播投資貨幣「PICSY」を例に出してみたいと思います。PICSYのウェブサイトでは、「医者は患者を薬漬けにすると儲かるという問題」をPICSYの導入によって解決されることが紹介されています(図:PICSYの効果 医師バージョン)。この漫画では悪徳医が薬漬けをするということですけれども、見知らぬ他者が裏切ることに対して、PICSYによる制裁可能性が見込まれている。PICSYの上では、裏切ることは自身の不利益にもなるわけですから、見知らぬ他者を信頼する動機付けを強めることが見込めます。

図:PICSYの効果 医師バージョン:PICSY イントロダクションより引用
図:PICSYの効果 医師バージョン:PICSY イントロダクションより引用

 PICSYというアーキテクチャの場合、従来であれば一度きりの取引関係で終わっていたものを、PICSYを介してその取引関係を継続させることになります。ここで当然、個人情報をPICSYの側で把握すること、つまりリンカビリティが必要になってくる。つまりある程度の存在の顕名化が必要になるということです。では、どこまで顕名化を許容するべきか、あるいは匿名で留めておくべきか。そのバランスが問題になると思います。

図:30人から成る下のような社会を考える。ここでの取引関係における協力/非協力はどう均衡するか?
図:30人から成る下のような社会を考える。ここでの取引関係における協力/非協力はどう均衡するか?

 そのバランスを探るために、次のような思考実験をしてみたいと思います(図:30人から成る下のような社会を考える。ここでの取引関係における協力/非協力はどう均衡するか?)。まず30人からなる社会、たとえば教室のような空間を考えてください。そして教室のなかで、さきほどの「投資ゲーム」をするとします。一番左からグラフを見ていきますと、周りの人は協力行動を取っていないけれども、自分だけは協力行動を取るというお人好しさんが1人いる状態です。そしてこの棒線グラフの横軸は、右にいくほど協力行動を取る人が増えていきます。そして縦軸というのは、仮に協力行動を取っている人が何人になれば、自分も協力行動を取るという人の数がどれだけ増えるかを表しています。たとえばお人好しさんが4人になったとしても、協力行動を取ってくれる人は1人で変わりません。これが5人になると、協力行動を取る人は2人に増えていきます。周りがたくさん協力行動を取っていれば、それをあてにして自分も協力行動を取ったほうが自分にとっても利益は上がります。一方協力行動を取っている人が周りに少ないとなると、自分はどんどん持ち出しばかりで、周りにフリーライドされる一方ですから、協力行動を取る人の数は減ります。ですので、この曲線は現実的にも自然なものではないかと考えられます。

 それではこの社会のなかで、協力行動あるいは非協力行動をとる人数は、どのように均衡していくのでしょうか。初期状態として、13人が協力行動を取っている状況を考えます。13人の場合、自分も協力しようと考える人は12人しかいません。ということは、結果的に1人脱落し、実際に協力行動をとる人は12人に減ります。そうすると、12人の場合に協力行動を取るという人は10人しかいませんので、さらに2人脱落します。このように、ある人数から下においては、協力行動を取る人の数は雪崩のように減っていきます。そして最終的には、1人しか協力行動をとらない社会で均衡することになります。一方、初期状態が15人であれば、結果はまったく変わってきます。15人協力しているのであれば、自分も協力行動を取るという人は17人にいますので、まず15人が17人に増える。これはどんどん上に上がっていって、最終的に協力行動を取る人は27人という状態で均衡します。このように微妙な初期状態の差によって、非協力で均衡するか、協力で均衡するかという結果は大きく変わってくるのです。

 仮に現在の私たちの社会において、協力行動を取る人が13人であると想定した場合、これは非協力型の均衡へ向かうことになります。ここでPICSYを導入するとどうなるか。PICSYを導入した場合、協力行動を取らなければ自分にとって不利益がもたらされるわけですから、協力行動を取ろうという人は若干増えるはずです(図:ここでPICSYを導入・・・)。つまり数人分の信頼を上増しすることによって、協力型の均衡状態に向かうことが望めるようになるわけです。

図:ここでPICSYを導入…
図:ここでPICSYを導入…

 この思考実験から得られる示唆は、アーキテクチャによって、これまで信頼が果たしてきた社会的機能を完全に代替する必要はないということです。人々をアーキテクチャによって完全に管理する必要もない。なぜなら数人分の協力行動を引き出せれば、協力型の均衡を望むことができるからです。ということは、この数人分の信頼の底上げを果たしうるに必要なだけの個人情報を、アーキテクチャの側に提供すればいいわけです。

 また任意のPICSYの共同体が、それでも非協力型の均衡に陥る可能性はあります。ですからそこから抜け出せる、他の共同体でやり直すための外部を設けておく必要がある。要するに単一のPICSYだけで運用するのではなく、複数のPICSYPICSY-s)を設けて、各PICSYのあいだは分断されていることが肝要です。これは第2部で述べたアンリカビリティに相当します。また、この複数のリトルブラザーズのあいだの調整は、非常に大雑把な示唆ですけれども、たとえば為替市場の原理に任せるようなやり方が考えられるのかもしれません。

4. まとめ

 それでは最後のまとめになります。今日私が論じてきたことは、存在の匿名性を全面放棄する必要はない、ということです。これは第1部で消極的な理由として、ビッグイットは人間のダブル・コンティンジェンシー的な状況を完全には予測できないということ。そして第2部ではより積極的な理由として、プライバシーの社会的機能とリトルブラザーズ(リトルイッツ)への分散化ということを議論しました。これはいいかえれば、環境管理型権力規律訓練型権力をアンリンクするということでもあります。まさにオーウェルが『1984年』で描いたのは、環境管理型権力規律訓練型権力が結びつくビッグブラザーの悪夢でしたが、今日の議論はこれを防ぐための予防線を張ったつもりです。

 ただし、重要なのは積み残した課題のほうです。まず今日の議論で扱わなかったのは、個人情報なしに作動する環境管理型権力という問題系です。環境管理によって、一般的信頼という人間的な位相では、開かれた社会を実現することができる。しかし動物的な位相では、人間的視点からは気付かれることなく管理することが可能です。いうなれば、開かれながら管理される社会、あるいは開かれた管理社会とでもいえばよいのでしょうか。これは私にはかなり気になる問題として残っています。

 それは「ビッグイット」的な問題系とは異なっているように思います。ビッグイットの暴走や危険性というのは、今日検討したように、それに歯止めをかけるようなストーリーを描くことができる。しかし単一のアーキテクチャというとき、それは常にリンクしてひとつのネットワークの単層を成している必要はありません。たとえばPICSYというアーキテクチャがあったとき、その上にそれぞれの経済共同体が乗ります。個人は複数のPICSYというものを利用していいわけですから、多元的にPICSYコミュニティに所属する。そして、あるコミュニティがまずくなれば乗り換えることができるように、ある種の開かれを確保していくことはできるでしょう。たしかにこれらは分断しているのですが、有効なシステムであるがゆえに、アーキテクチャとしては均質なものになる可能性があります。相互に連携はしていないけれども、均質な層の上に乗っているという状態。いいかえれば、これは単一のビッグイットというよりは、ユビキタスイッツ(Ubiquitous Its)とでも呼ぶべきものが出現している。このユビキタスイッツに問題はないのだろうか。ここがひっかかるのですが、私のなかではまだあまり明確に考えが固まっていません。ともあれ、今日のお話はここでひとまず終わらせていただきます。ありがとうございました。

参考文献


*1:註:波状言論>情報自由論>第13回より引用する:『現代の日本社会は、アメリカやヨーロッパと同じく「ポストモダン化」し、不透明で複雑な社会へと変貌を遂げている。社会全体を纏め上げる中心的な規範(大きな物語)は有効に機能せず、家族や隣人ですら何を考えているのかよく分からない。そのような変化のなか、動物的な不安に駆られた人々は、情報技術を利用し、監視を強化することで不安を追い払おうとやっきになっている。具体的には、身分証明書をICカード化し、監視カメラを無数に設置し、インターネットから匿名性を放逐し、バイオメトリクスユビキタスによりヒトとモノの動きを克明に把握する方向に社会全体が動き始めている(環境管理型社会の構築)。』

*2:註:ゲーム理論囚人のジレンマについては、囚人のジレンマ - Wikipediaや、ゲーム理論入門--ゲーム理論の成り立ち - 中山幹夫などを参照のこと。

*3:註:東浩紀「情報自由論 第13回」での表現。引用する。『不安から逃れるために情報技術で武装する。それは確かに効果がある。しかし、電子的監視の整備は、結果として、人々がばらまく断片的な個人情報(データ・シャドウ)の量を飛躍的に増加させてしまう。現代社会では、住基ネットを流れる氏名や生年月日、自宅入口の監視カメラが捉えた映像、Suicaに残った乗車履歴、レンタルビデオの利用履歴、Nシステムが記録したドライブの行程、携帯電話で撮影された(かもしれない)下着姿といった無数の情報が、断片化し、増殖して、物理的な身体を離れてネットワークのなかに拡がっている。現実にはそのようなことは起きていなくても、多くの人々はそう感じている。そして、この新たな感覚は、それらデータ・シャドウの行方をめぐる新たな不安を生み出してしまう。現実世界のセキュリティを確保し、不安を取り除くために導入された技術は、浸透すればするほど、仮想世界に向けられた別の不安を増殖させてしまうのだ。』

*4:註:山岸俊男『信頼の構造 こころと社会の進化ゲーム』(東京大学出版会、1998年 asin:4130111086 )書籍要約として、國領二郎研究室:山岸(1998)などを参照のこと。

*5:註:東京大学社会情報研究所2001年全国調査

*6:註:アメリカの政治学者ロバート・パットナムの『Bawling Alone(一人でボーリングする:未邦訳)』での指摘。ソーシャル・キャピタル論の文脈で知られる。以下参考のこと。→東一洋『なぜ今ソーシャル・キャピタルなのか -前編-:コラム「研究員のココロ」』(日本総研ウェブサイト)

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/10031008