ised議事録

10-084. 倫理研第6回:共同討議第1部(1)

はじめに

東:

 今日で倫理研の開催は6回目です。

東浩紀
東浩紀

  まずこれまでの流れを復習しておきたいと思います。第1回では鈴木謙介さんから、サイバーリバタリアニズムサイバー保守主義の対立軸が提起されました。情報社会をデザインするといっても、そこにはいろいろな立場がある。そのなかで主要な軸は、価値を打ち出す立場と価値を無視する立場である。新しい情報社会を作り出すうえで、そのどちらもありうる考え方だということが示されました。

 第2回では、白田さんからサイバー保守主義の立場から問題提起がなされました。情報社会においては、新しい価値をつくりだす必要がある。そして、その価値を埋め込んだ新しいアーキテクチャと法制度をデザインする必要がある。それが法学者の新しい役割である、という報告でした。

 しかし第3回で北田さんは、本当に価値は生み出せるのだろうかと問いました。情報社会、北田さんの言葉を使えばCMCの空間は、そもそもその技術的な特性上、価値を共有するのに向いていない。なぜならCMC上は、マスメディアの時代に明確に分別されていた公/私の区別を曖昧にし、「繋がりの社会性」を加速する側面をもつからです。この発表で、情報社会において、公共性あるいは公共圏を実現することの原理的な困難が示されました。その結果、情報社会倫理を考えるためには、公的空間の確立ではなく、むしろ公的/私的の区別の再構築、具体的には私的空間の確立のほうを話題にしたほうがいいのではないか、という認識に我々は至りました。

 続けて第4回加野瀬さんは、日本のネットコミュニティを具体的にモデル化してくれました。加野瀬さんの考えは、常識と異なり、2ちゃんねるの時代とブログの時代を比べてみると、むしろ2ちゃんねるのほうに公共性と呼べるものがあったというものです。しかし、ブログが導入されたせいで、いまでは小さな「炎上」や「コメントスクラム」が増えてしまい、ますますネットはアナーキーになっていると言います。そこで加野瀬さんが提案した解決策は、アクセス・コントロールを導入し、各々のブロガーが私的空間を確保すればよいのではないか、というものでした。ちなみにそこで、高木さんからきわめてクリティカルな質問もなされています。それは、そもそも前提としてみなが繋がりの社会性を求めているというのであれば、日本のユーザーは安全で私的な空間よりも、危険でも公的な空間へのメッセージの投稿を望むはずだ。したがって、アクセス・コントロールの導入は意味がない、というものでした。

 第5回の高木さんの講演は、以上の問題を、インターネット上のコミュニケーションだけでなく、ユビキタス社会の事象一般に開くものでした。ウェブの無断リンクにおいてもRFIDタグにおいても、問題になっているのは、自分の情報の領域へ強制的にリンクが張られてしまうこと、強制的に個人情報が剥奪されてしまうことです。つまり、あらゆる領域が公共空間化してしまうということです。そこに抵抗して新しいプライバシーを考えるするためには「存在の匿名性」を考える必要があるのではないか、という問題提起がなされました。

 それに対して第5回の共同討議では、僕と白田さんから、情報社会では認知限界の問題が大きくなり、それを拡大するものとして個人情報の活用による情報サービス業が活発化している。この現実がある以上、もはや存在の匿名性は擁護できないのではないか、という問いが投げられました。「存在の匿名性」は実は僕が「情報自由論」で使ったタームなので、これはある意味で自己批判です(笑)。そして白田さんは、あらためて、むしろこれまでの国家と憲法の関係との比較で考えると、いま私たちが向かっているような人間的な相互監視社会=リトルブラザー型社会よりも、巨大な非人間的な個人情報管理装置に身を委ねる社会=ビッグブラザー型社会のほうがましかもしれない、と挑発的な問題提起を行いました。というわけで、議論はますます白熱してここまで来たわけですね。

東浩紀
東浩紀

 さて、今日はこのような議論を受けて、辻さんのほうから、それでも存在の匿名性を擁護するとすればどういう論理が考えられるか、という問題意識で講演が行われました。講演は3部構成でしたが、最後にビッグイット(Big It)ではなく、ユビキタスイッツ(Ubiquitous Its)が問題なのではないかという新しい問題を提起されていたので、全体は4部構成になっていたと思います。

 簡単にまとめますと、まず第1部では、ビッグイットは人間の行動を完全予測することが不可能なので、暴走する可能性がある、という主張が行われました。次の第2部ではとても重要な問題提起が行われました。それは、プライバシーあるいは存在の匿名性を、責任のインフレーション、北田さんの言葉を使えば「コンテクスト闘争の全面化」を制限する装置として捉え返したらどうか、というものでした。たとえばブログでなにか発言したとき、その発言がまったく別のコンテクストで引用され、その発言がまた次々と転送されることで、まったく予想もつかない結果を生み出してしまう。加野瀬さんも指摘されているように、これは実際に頻繁に起きていることです。そこで辻さんは、どこまでが責任を取れる範囲なのか前もって設定することは難しくても、少なくとも、みなが他者の発言を自分のコンテクストで勝手に解釈し、勝手に他人を攻撃するような無秩序な状態を回避するための「常識」が必要であろう、と述べられている。あるいは、なにか行動を取ったときに、その行動がどこまで別の結果に因果関係で繋がっているのか、かなり明確に追跡可能になったとして、その因果関係のインフレーションを制限するための「常識」が必要になるだろう、と述べている。存在の匿名性は、その常識回復のための鍵概念になるのではないか、というわけです。これはとても重要かつ具体的な問題提起だと思います。

 そして続く第3部でも重要な指摘が行われました。結局のところ、重要なのは信頼を醸成することである。私たちの目標は、ある共同体において、ナッシュ均衡ではない協力型の均衡を実現することにある、と辻さんは問題を再設定されたわけです。そして、PICSYの例を引きながら、その実現のために環境管理型権力の導入は止むをえないとしても、それは必ずしも全面的な顕名化を意味しない、と結論づけていました。つまりは、存在の匿名性によってさまざまな制限を設定したうえでのローカルな監視社会化=ユビキタスイッツの整備は、むしろ擁護できるという結論になったわけです。

 そして最後に四点目として、もし私たちが、ビッグイットではなくユビキタスイッツを採用したとして、それでもユビキタスイッツの相互連動、すなわち新しいビッグイットの自己生成の問題は残る。これはどうするのか、という問題提起をオープンのまま残されました。いずれもとても重要な問題ばかりでしたので、共同討議が楽しみです。

 討議を始める前に、一点だけ注意を述べておきたいと思います。ルーマンの概念「ダブル・コンティンジェンシー」は、一般に「二重の偶有性」と訳されています。今日の講演でも何回かその言葉が出てきますが、しかし、これは日本語では「二重の不確定性」と訳したほうが理解したすいと思います。ここで述べられているのは、コミュニケーションにおいて相手も自分の偶然で動いているということではなく、相手の行動が確定していないがゆえに自分の行動も確定しない、という現象です。

 それでは、共同討議の第1部をはじめたいと思います。まず、簡単な質問や用語の確認を受け付け、そのあと北田さんと鈴木健さんからコメントをいただきます。

高木:

 では、用語の確認をさせてください。個人情報という用語が出てきましたが、これには実はふたつの意味が存在します。ひとつは、個人情報保護法のいう個人情報です。こちらは氏名や住所によって、「誰だ」ということが特定されている場合にのみ個人情報として扱うとされています*1。情報的にいえば、検索キーと属性があるデータベースを考えたときに、キーが絶対に存在しなければいけないということです。属性はまったく存在しない、つまり住所や氏名だけで、他の属性とは一切結びついていない検索キーのみからなるものでさえ、個人情報と呼んでいるのです。これは一部で「そんなものを守る必要があるのか」といわれることもあるわけですね。

高木浩光
高木浩光
 一方、いまの辻さんのお話は、このような個人情報とは限らないようにお聞きしました。おそらく、属性がデータ化されたものを指しているように聞こえたわけです。今回のお話では、キーが特定されている個人と結びついている場合の話なのか、それともある匿名のIDで結びつけられた属性の話なのかは、論点に挙げていなかったように思います。いま述べたような区別を意識すると、前者の個人情報保護法における個人情報とは異なる定義と考えてよろしいのでしょうか?

辻:

 そうですね。いまの区別を踏まえていいますと、今回はビッグイットによる行動予測に関しては基本的に匿名のIDでも成り立つ議論をしてきました。さらに識別子にあたるようなものが入ってきてしまうと、よりいっそうまずい事態になるだろうと思います。

鈴木:

鈴木健
鈴木健
 ビッグイットという言葉が指すものは具体的に何なのでしょうか。スライドの4ページでは「国家が管理するコンピュータ」という意味で使われている。しかし28ページのほうでは「インターネットというアーキテクチャ」という意味になっている。この使い分けはどういう意図なのでしょうか。

辻:

辻大介
辻大介
 基本的に、ビッグイットを国家が管理する、あるいは国家の下に置くという意味は、4ページのほうでもありません。確かにそのように読めてしまいますが、そのことに私が気づいていなかっただけで、必ずしも国家が管理しなくてはならないということはない。むしろ国家とは別の第三者機関が管理してもいい。

加野瀬

 たとえば映倫のようなものと考えてもいいんですか?

辻:

 ええ、ああいうかたちでもいいと思います。しかしそれでも、やはりまずい事態になるだろうと思いますが。

鈴木:

 そうすると、ビッグイットの定義というのは?

辻:

 個人の振る舞いに関する情報を、すべて網羅的、包括的、一元集約的に管理・活用するシステム、という程度の意味合いで使っています。

東:

 ハイパー住基ネットのようなものを考えればいいわけですか。

辻:

 そうですね。

鈴木:

 Amazonは入らないわけですよね。

辻:

 ええ、私の定義でいくとAmazonはビッグイットまではいかないことになります。

加野瀬

 そしてAmazonはビッグイットに情報を渡す、と。

辻:

 そういうかたちでビッグイットのシステムは組んでいけると思います。

鈴木:

 つまり、具体的なシステムが想定されているというよりは、抽象的な概念として考えればよいということですか?

辻:

 はい。そういうことになります。

鈴木:

鈴木健
鈴木健
 もうひとつだけ質問させてください。辻さんのお話は、3つのメインパートに分かれていました。主に第1部ではビッグイットについて、第2部ではリトルブラザーズ(Little Brothers)について触れられていいます。これは、同じ存在の匿名性についての議論だとしても、根本的に違うものだと考えるべきでしょうか。それとも、インターネットというアーキテクチャ上では、リトルブラザーズが結局のところビッグイットと同義であるという話なのか。

辻:

辻大介
辻大介
 第1部でビッグイットはまずいということを考察したうえで、第2部以降は、リトルイッツ(Little Its)でもリトルブラザーズでも呼び方は構いませんが、小さな規模に分断していくべきではないか、という流れで理解していただければと思います。リトルイッツにしたほうがいい、という議論です。

東:

 リトルイッツにすべきというのは、つまり責任のインフレを制限する装置を入れたうえで、ビッグイットの内容性を失わない状態でリトルイッツにするべきだ、ということですね。すると、ビッグイットの問題が第1部で、リトルイッツの問題が第2部で扱われたとして、最後の第3部はどういう関係になるのでしょうか。リトルイッツにしなければならない理由をさらに補足されたということでしょうか。

辻:

 第3部は、そのリトルイッツをうまく活用し、ポジティブな管理方法を考えられないかを考えたわけです。環境管理型の社会によって、閉じた社会だけではなく、開かれた社会に持っていくこともできる、と論じたかった。

東:

 まとめると、第1部はビッグイットがダメである。第2部はビッグイットからリトルイッツに行くべきである。第3部は、リトルイッツは開かれた社会に向けて運用できる。しかし最後に、それでもまずいかもしれない、と留保されたということですね。

辻:

 そうです。

東:

 わかりました。それでは、まずは北田さんからコメントをいただきたいと思います。

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