ised議事録

10-085. 倫理研第6回:共同討議第1部(2)

ゆるい管理社会の擁護?――北田暁大からの応答

北田:

 内容を理解しきれたかどうか不安ですので、いま東さんにまとめていただいたことと重複しますが、まず全体の流れから確認させていただきたいと思います。第1部で「ビッグイットは無理である」と論じたうえで、第2部ではその理由を二点挙げられていました。ひとつは、実行したとしてもその有効性があまり定かではないということ。そしてもうひとつは、プライバシーというものが機能的に擁護されなければならないということ。このふたつの理由によって、存在の匿名性はやはり必要であると辻さんは論じている。そして第3部では、ある程度の信頼創出が可能になるレベルで、個人情報の差し出しや協力を動機づけるようなアーキテクチャの設計が必要である、と提唱されていました。

北田暁大
北田暁大
 そうしますと、これは荒い表現になってしまうのですが、辻さんの議論は存在の匿名性を擁護しているというよりは、むしろ「管理社会のゆるさ」を擁護しているのではないか。いいかえれば、「よりよい監視社会論」の流れのなかに位置づけられるのではないかと思うんです。前回の倫理研の最後では、「監視社会」をいかなる論理で対象化できるのかというとき、もはや批判を行うのはかなり困難な状況にあるので、「よりよさ」のほうを追求していこう、という流れになりかねない雰囲気だったと思います。これはあとで問題になってくると思うのですが、今日の辻さんのお話は、その流れを受けての議論と考えていいのでしょうか。それとも、もうすこし違うラインでお考えなのか。

辻:

 おっしゃるとおりです。私は存在の匿名性を全面的に擁護するつもりはありません。むしろ管理社会化というのがやむをえないものであるとすれば、それをリジッドなものにしてしまわずに、ゆるさを残しておく必要があると考えているんです。要するに「存在の匿名性を擁護する」というのは、存在の全面的な顕名化に、ある程度歯止めをかけておく必要があるのではないか、という意味での擁護です。これは裏返せば、たしかに「ゆるい管理社会の擁護」に繋がっていると思います。

辻大介
辻大介
 講演の最後の部分というのは、たしかによりよい管理社会へというストーリーは描けるけれども、そこでの問題はすべて払拭されて残っていないのか、まだ私も揺らいでいるということです。結局のところ、我々の動物的な欲求を管理する部分に関しては善後することができる。しかし、そもそもそこの部分を焦点化したとき、単に善後策を考えるだけで終わるのか。もっと大きな問題が隠れているような気もするし、実はそこにはなにもないのかもしれない、というところで私もまだ揺らいでいます。

北田:

 その問題とも関連してくると思いますが、第1部で辻さんは、ビッグイットのはらむ暴走可能性に対処するために、人間が介入する余地を残しておく必要があるが、それは結局ビッグブラザー化と同じになってしまうのではないか、と議論を展開されています。この危険なビッグブラザー化と、辻さんが第3部で想定されているような、信頼を醸成しつつ協力を動機づける、許容さるべき監視社会といったものは、どう違うのか。この違いが私にはよくわからなかったのですが、いかがでしょうか。

辻:

 さすがに痛いところを突かれたような気がします。たとえばビッグブラザーないしビッグイットが情報社会のあらゆるところをネットワークし、情報が一元的/集約的に管理され活用されるような状況では、なにか破綻をきたした場合に逃げ場がなくなってしまうのではないかと私は思うんですね。つまり、逃げ場をつくっておく必要はあるのではないか。そのためには、やはりビッグイットは分断しておかないとまずいのではないかと考えているのです。

北田:

 それが複数形で言い表される「リトルブラザーズ」ということですね。

辻:

 そのほうがまだしもマシなのではないか、と。

北田:

 なるほど、わかりました。今度はもうすこし細かいところを聞いていきたいと思います。さきほどの高木さんのお話とも関連してくると思うのですが、スライドの26ページに、「表現の匿名性」と「存在の匿名性」、それぞれの責任の関わりかたというお話がありました。それについてお聞きします(図:right to be let alone としての「存在の匿名性」)。

図:right to be let alone としての「存在の匿名性
図:right to be let alone としての「存在の匿名性」

 ここには、「どこでいつ何を買ったかという"振舞"が誰か(何か)に知られること自体は問題ではない」という記述があります。しかし私には、辻さんはこの部分、「知られること」をこそ問題とお考えなのではないか、という気がしているんです。たとえば、ベネフィットもありうる事例として、ラブホテルのアリバイ証明の例を出されています。しかし、自分の行為を事後的に正当化するための素材として技術を使う、という話は、自分の行為を事後的にではあれ、有責な行為、責任ある行為として認知する/される可能性を開いておくことということに他なりません。そうなると、辻さんは「それを“行為”として責任を問うこと」が問題だとおっしゃっているのですが、それは問題ではないと思えてしまう。むしろ辻さんは、知られること自体を問題とされたうえで、その後の議論を組み立てになられているのではないかと思いましたが、いかかでしょうか。

東:

 北田さんの質問は、「責任を問われること」と「知られること」のあいだは基本的に区別できないだろう、ということですね。

北田:

 そういうことです。

 また表現の匿名性存在の匿名性では、それぞれ責任の水準がすこし違うのではないだろうか、ということも聞いておきたいと思います。表現の匿名性について、「責任を問われるべき"行為"について、責任から免れる」というのはとても理解できます。しかし存在の匿名性について、「責任を問われざるべき"振舞"について、責任を問わない」というのが私にはすこし理解が難しいところがあります。存在の匿名性というものに関して、ここではどういうことが問われているのでしょうか。両者は、そもそも対照されるような同一のカテゴリー・タイプに属しているといえるでしょうか。

 次の質問はそれと関連するのですが、第1部で出されたダブル・コンティンジェンシー的状況と、第3部で出された囚人のジレンマ的な状況は、多少性質を違えているのではないでしょうか。囚人のジレンマ的なゲームでは、客観的に私たちが知りうるような利得表というのが存在しています。要するに、非合理な帰結、最適な選択とはどういう状態なのか、明らかになっているわけです。しかし、ダブル・コンティンジェンシーは意図の反射性があるだけです。つまり意図の意図の意図の意図……、あるいは予期の予期の予期の予期……といった無限遡行の状況ですね。ここでは、その意図や予期が無限に反射していくこと自体が「非合理」であるだけです。裏返していえば、いかなる状態が非合理なのかは、囚人のジレンマの利得表に出てくるようなかたちで明確に現れてくるものではない。ダブル・コンティンジェンシーをいいかえるとすると、それは相互的な意図を読み合うゲーム的な状況ということができます。これを件の表現と存在の二分法に沿った形で理解するならば、むしろ表現の次元に属する問題なのではないか。つまり「人間的」な意図(の反射性)と関係があるからこそ、辻さんは第3部で信頼という解決法が問題になってくる、という論法を取られているのだと思います。

北田暁大
北田暁大
 しかしそうなりますと、辻さんが本来問題にしたかったはずの存在の次元というのは、この「意図」というのがそれほど重要なファクターにはならないという気がするんです。辻さんは、ビッグイットは存在の次元で問題が生じてしまうからこそ、信頼によってそれを乗り越える必要である、と論じていますが、このあたりがうまく繋がっていないのではないかという不安感があります。

 これをもっと大きな議論に展開させていきたいと思います。辻さんの議論というのは、基本的に「合理的な愚か者」の論法だと思うんです。合理的な選択を突き詰めていくと、愚かな結果を導いてしまうという議論です*1アマルティア・センの議論でいえば、辻さんが持ち出された信頼とおそらく同じようなものがコミットメント*2という概念で提出されています。いうなれば、信頼への動機づけによって、ゲーム論的状況の解決を図る、ということになると思います。

 ただ、この合理的な愚か者にも二種類あると思うんです。ひとつは、辻さんやセンのいうように、一般的なゲーム論的状況で問題になる、合理的であるがゆえに非合理な帰結を生み出すプレイヤーです。そしてもうひとつは、徹底的に「合理的」であるプレイヤーです。つまり、自分の立てた格率に関して、その遵守がもたらす帰結のいかんに関わらず、格率=マキシムの実現を妥協の余地なく志向するという存在。これもまた「合理的」といえるわけです。isedの文脈でいえば、後者は脱社会的な存在に近いと思います。そして一番目の合理的な愚か者よりも、この二番目の合理的な愚か者こそが、この問題を考える際にやっかいな存在として立ち現れてくるのではないか。それは長期的な利害や道徳的な理由に動機づけられるような存在ではない。こうした存在をどう考えるかという問題系は、いわゆる辻=セン的な「合理的な愚か者論法」の外部にあるのではないかと考えられます。この点、いかがでしょうか。

東:

なんとなく聴衆の表情に不安を感じるので、北田さんの質問をごく簡単に要約させてください。

 北田さんがいまおっしゃったのは、僕の言葉を使えば、人間的合理性の領域と動物的合理性の領域というふたつの領域があるのではないか、ということですね。そしてビッグイットによって支配されているのは動物的合理性の領域なのだから、人間的合理性の領域において機能するはずのダブル・コンティンジェンシーや信頼の話をするのはおかしいのではないか、という質問です。北田さんは、その同じ質問を3パターンに分けて展開された。

北田:

 はい、まさにそういうことです(笑)。

辻:

辻大介
辻大介
 おっしゃるとおりだと思います。結果のいかんに関わらず決定的に動物的合理性を貫く存在を、脱社会的と呼ぶのか、あるいは北田さんの言葉でいうところの「制度の他者」*3と呼ぶのかはさておき、この存在を管理可能なのはおそらく環境管理型権力ではないかと思うんです。

 ただしこの部分はどうしても決断主義に陥ってしまうのではないかと思うのですが、私自身はもう「放っておこう」と考えているんです。つまり「制度の他者」がある意味頽落してくれて、「規範の他者」くらいになってくれれば、この議論のなかに組み込める。私は要するに、ダブル・コンティンジェンシーを起こしている、あるいは起こしかねない人間になってしまっている、という存在を念頭において議論を組み立てているんですね。

東:

 それに関連して、僕のほうでも、辻さんの講演にあったダブル・コンティンジェンシーと殺人の関係についてコメントしたいと思います。辻さんは、Amazonの消費行動ではダブル・コンティンジェンシーが発生しないが、殺人事件ではダブル・コンティンジェンシーが発生する。したがって殺人はビッグイットによって予測不可能である、とおっしゃった。しかし、はたしてそうでしょうか。

 たとえば、恋愛のような怨恨に基づく殺人事件は、きわめて複雑な予期や感情に基づいている。したがって予測不可能かもしれない。しかし、たとえば性犯罪者はどうか。彼らの行動は、むしろ動物的合理性に基づいている。言いかえれば、いま北田さんがおっしゃったような自分のなかの合理性に閉じている。だとすれば、ダブル・コンティンジェンシーは発生しない。性犯罪者の合理性は複雑な人間関係とは独立しており、十分な情報さえあれば、特定の人間が数年後に性犯罪を犯すことは十分に可能かもしれない。

 むしろ逆に考えれば、消費の問題、つまりAmazonの例のほうが予測不可能かもしれない。「友達が買っているから自分も買う」という心理は、ダブル・コンティンジェンシーそのものだからです*4。友達が買わないのであれば、自分は買わないわけですから。そう考えると、辻さんの講演からは、動物的合理性だけで閉じている人間については、今回議論されたような制限を適用する必要はないという結論が導き出せる。そしてそのきわめて具体的な帰結とは、たとえば、「とりあえず性犯罪者は管理しておく」という方向性だと思うのです。いかがでしょうか。

辻:

 いや、その通りだと思います。私の議論の帰結は、そういうことになるだろうと思います。つまり、動物的な条件反射で罪を犯す人間は、ある程度管理してもいい。その管理のために必要なだけの存在の匿名性は、引き渡してしまってもいいのではないか。

加野瀬

 それこそ精神病関係とかですよね……。ナチスを髣髴とさせます。

東:

 そうなんです。それで問題はないのか。

*1:註:アマルティア・セン『合理的な愚か者』(勁草書房、1989年 asin:4326152176 所収)。この「合理的」というのは、経済学的モデルの想定する、利己的に振舞う人間観(ホモ・エコノミクス)のこと。

*2:註:センは、共感とコミットメントを区別する。共感は、その他人の利益が自己の利益にも繋がるという意味で利己的であり、非-利己的なものをコミットメントと定義する。『コミットメントは、一つのやり方として、その人の手の届く他の選択肢よりも低いレベルの個人的厚生をもたらすということを、本人自身が分かっているような行為を選択する、ということによって定義しうる』(同掲書P.134より引用)

*3:註:『責任と正義』P.101-より引用:『自らの行為が(制度内的な)ルールに適うものか背くことであるかを判別する能力を欠く人物――それは、制度に内在する我々にとって、たんなる道徳的アナーキスト=悪人などではなく、もっと根源的な次元で理解しえない他者と映ることだろう。彼は、制度のルールに度々違背したり、ルールの妥当性にいちいちケチをつけてくる厄介者ではなく、制度への内在の仕方をまったく心得ていない(制度への内在を局所的にではなく全面的に懐疑する)≪制度の他者≫、ウィトゲンシュタインの用語をもじっていえば制度の制度性を容赦なく懐疑する制度盲なのである。』

*4:註:設計研第3回: 共同討議 第2部(2): 「繋がりの社会性」の全面化――消費社会の末期的段階としての情報社会

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/10051008