ised議事録

10-089. 倫理研第6回:共同討議第2部(1)

Web 4.0の未来とライフログ――鈴木健からの応答

東:

 第2部を始めます。まず鈴木さんからコメントを頂いて、その後フリー・ディスカッションという構成です。では鈴木さん、お願いします。

鈴木健

 全般的にいろいろとコメントしたいと思います。

 まず今日の辻さんのお話に触れる前に、倫理研で議論されている「認知限界」という概念スキーム自体に、異議を差し挟んでおこうと思います。倫理研の議論というのは、情報社会が訪れ、それが世の中をかき回しているというものです。認知限界が出てきて、情報技術はこの認知限界をサポートする必要性がある、という論法なのです*1。つまり、どこからか問題がやってきて、問題を解決しなければならない、というわけですね。しかし、であるならば、そもそも情報技術など使わなくていいのではないか、という話にすぎない。そうではなくて、情報技術を使うことの積極的な擁護というものがない限り、倫理について語る必要はない。この問題提起を倫理研に残して、去っていきたいと思います(笑)。

鈴木健
鈴木健
 まだコメントを始めたばかりなので去りませんが(笑)、そもそも認知限界は「訪れる」ものではないということなんです。我々は生命誕生以来、認知限界のなかにいます。つまり、一人称的な認知限界は常に存在するわけです。たとえば目の前にヴィジュアル・イメージがあるとき、そこから固有のオブジェクトを取り出すということは非常に難しい。そのようなさまざまな認知限界をクリアーしていった生命40億年の歴史を経て、我々はなにかを知覚することができるようになった。40億年の歴史は認知限界の歴史だったわけです。

 さて問題になっているのは、社会自体の複雑性が増大することによって、三人称的な社会の把握が困難になっていることです。社会はそもそも複雑になろうという傾向を持っています。その社会の複雑化する傾向に対して、技術力が制限になっていると考えられます。つまり、技術力が上がれば上がるほど制限は下がり、社会を複雑にできて三人称的な把握が困難になるわけです。この技術には国家という統治技術も含みますが、情報を含む技術が複雑性を縮減できる程度しか、社会は複雑化しません。なぜなら、社会秩序が存在しなければその社会は生き残れない、というホッブズ問題があるからです。複雑なままで放っておいてしまえば、その社会は淘汰されて生き残ることできません。ですから、個人情報を提供すればするほど、社会を複雑にできる余地ができる、という議論をするべきなのです。そもそも議論の前提として、情報技術による複雑性の縮減の支援など必要ないということです。

 それでは、複雑性という概念自体をそもそも見なおす必要がある。皆さんが複雑性という言葉を使っているのは、ルーマンの社会システム論を参照しているからですね。ルーマンによる複雑性という概念は、コミュニケーションという構成素が連鎖することで、自己言及的な社会システムができるということからきている*2。これは我々が日常的に持っている社会という概念のごく一部の特殊なケースを取り出してつくられたモデルにすぎません。つまり、我々が漠然としてイメージする社会は、ルーマンのいう社会システムだけでは議論できない。生命システムという全体から世界の複雑性を考えていくと、我々は最初から認知限界を持っていることに気づくわけです。

 つまり最初の問題提起に話を戻すと、そもそも社会自体が複雑化するということ自体がなぜ価値であらねばならないのか、ということを倫理として議論すべきではないか。それは自由の問題と関係してくると思います。

第1部へのコメント:ビッグイットを擁護する

 さて、ここからが辻さんの議論に対するコメントになります。講演は3つのパートに分かれていましたが、最初のパートでは、非人格的なビッグイットは効果的ではないと論じられていた。その論拠はふたつありました。ひとつは、正確な予測ができないということ。もうひとつは、確率的な予測は精度が低いということです。ただしこのロジックは、いくつかの例を出し、それがうまくいかないことを示すことで全体のテーゼを否定するというものです。つまり、逆にうまくいく例を出せば、この問題は逆のテーゼとして主張できる。実際さきほどの共同討議第1部では、白田さんからこのうまくいく事例として、行政の機械化の話が出されたわけです。

 さらに事例を追加してみます。たとえば飲酒運転をすれば必ず事故を起こすわけではないとはいえ、事故の理由の上位に飲酒運転があります。だとすれば、飲酒運転で免停中の人は車を自動的に運転できないようにする環境管理型権力は可能です。また副流煙を吸えば必ず肺癌になるわけではないとはいえ、副流煙を吸うと肺癌になる確率が何倍に上がるとされています。だとすれば、非喫煙者の前では自動的に煙草を吸えないようにするために、煙草にRFIDを付けておくアーキテクチャは可能です。

 このふたつの例は、要するにダブル・コンティンジェンシー的状況ではないけれども、確実に殺人を犯している例といえます。正確な予測が不可能であるから、あるいは確率的予測に不備があるという辻さんの論法は、完全にすべての政策に対して適用できるわけではないということになります。いいかえれば、あるひとつの属性があるかないかという比較倍率によって行為を禁止するロジックを、完全に否定することはできない。なぜなら我々の社会では、そのロジックはすでに行政レベルで非常に数多く実行されているからです。しかもそれは人間が行っています。人間が行っている禁止のやり方を機械に代行させるだけであれば、問題はないのです。

「個人情報利用アルゴリズム公開法」

 だからといって、すべてが機械によって自動実行してしまうやり方に問題が残らないとはいえません。そこで提案をしたいのが、「個人情報利用アルゴリズム公開法」というものです。この法律の目的は、国が個人情報を利用した法を自動実行する場合に、その適応の仕方に制限を与えねばならない、というものです。これはコンピューター的な暴走ではなく、人間が暴走しないために制定されます。

 現行の個人情報保護法とこれはなにが違うのか。個人情報保護法では、「個人情報取扱事業者」というものが定義されていて、これは簡単にいえば個人情報を扱う会社や企業にあたります。この個人情報取扱事業者に対しては、通知義務や目的の特定義務、本人への開示の義務、そして訂正削除の依頼があった場合それに応える義務などの規定があります。しかし、国や地方公共団体独立行政法人などに関しては、この規定は除外されているわけです。これらについては別の法律によって、それぞれ決めていこうという話なのだと思いますが、そうも言ってはいられない時期がいずれ来ると思います。

 そこでメタ法律を定める必要があるだろうという意味で、いかなる場合もこれは護らねばならない原理として考えたのが、「アルゴリズムは公開されていなければならない」というものです。法律が公開されているのは、法治国家の前提ですね。法律が公開されていない限り、それは人治的なものと変わりないからです。であるならば、アルゴリズムやソースコード自体が公開されているのは、機械が治める機治国家、つまりビッグイットの前提であるべきです。そのアルゴリズムを皆でチェックしたり、書き換えたりできるようにするのがこの法律の目的になります。そのうえで、さらにデータの種類によっては依頼があれば削除するというルールや、さきほど述べたように、一定時間後はデータが自動削除される、というールがあってもいい。これは法を自動実行する際のありうる制限のかたちを提案するものです。しかし、実際にはこうした議論をするよりも前に、民間が「契約の自動実行」というかたちで先行し、ノウハウが溜まっていくだろうと思います。この溜まっていくノウハウを国家に適応していけば、90%ぐらいはうまくいくのではないでしょうか。

第2部へのコメント:Web 4.0

 次に、講演第2部に対するコメントです。辻さんは、プライバシーを定義し直すことができる、と議論されていました。プライバシーはある程度擁護しなければならないが、ある程度それは外に出すことは許容されねばならない、という話ですね。しかし、ここで考えたいのは、そもそも稲葉さんやルーマンにおける人格概念や私的・公的をめぐる議論は、内と外を明確に分ける性格を持つという点です。つまり内側に対しては情報を護り、外側に対してはそうではない、として、内外を明確に分ける世界をつくって管理をするという議論なんですね。ただ設計研では、こうした境界を「なめらか」にすることをテーマにしています。そこで、そもそも「なめらかプライバシー」が可能ではないか、ということを考えたいと思います(図:なめらかプライバシー)。


図:なめらかプライバシー
図:なめらかなプライバシー

 そこで具体的に考えるために、いま僕が考えているWebの将来的な世界について紹介したいと思います。最近“Web 2.0”という議論が流行っていますが、これは1990年代のWebと最近のWebは違ってきているのではないか、もっと新しいアーキテクチャが生まれつつあるのではないか、というものです。僕はこのWeb 2.0 ではつまらないと思っていて、より拡大するかたちで「Web 4.0」*3までのシナリオを用意しています(図:4つのWebとデータの場所)。実はさらに4.1や4.2もあって、これはさきほど白田さんがおっしゃっていた話に近いのですが。

図:4つのWebとデータの場所
図:4つのWebとデータの場所

 まず1.0というのは、1995年頃にブレークした「みんな個人ホームページを作りましょう」という時代です。HTMLを書いて、ホームページを作って、リンクして楽しいな、という時代ですね。このときデータの場所はどうなっていたかというと、データはばらばらに分散していました。せいぜいハイパーリンクがあるぐらいで、相互のデータはそれほど連携されていないわけです。

 これが2000年頃になると、しばしばWeb 1.5と呼ばれることがあるのですが、Webアプリケーションの技術が発達してきます。具体的には、コミュニティーサイトやポータルサイトの掲示板に、大量の個人が書き込むようになってきたわけです。2ちゃんねるが勃興したのはちょうど2000年頃ですね。このとき、データは大小さまざまなサイトに分散されて入力されていくのですが、絶対量としてのデータは巨大なサイトに集積していきます。たとえばYahooなどですね。

 次にいまWeb 2.0と呼ばれているのは、明確な定義はないのですが、その重要なひとつに「機械が処理できる」というものがあります。これはXMLという技術によるところが非常に大きい。1.X台では、基本的にWebは人間しか見ないものでしたが、たとえばRSSのような機械も読むことができるデータ構造が、ブログやWebサービスの普及によって出てきました。ここでデータの場所は、ブログの登場によって、絶対量としてのデータは再度分散化し始めているといえます。この分散されたデータは機械によって処理できるので、相互に弱い連携をすることができます。これはある意味でリトルブラザーズが結合される状況が起き始めているといえます

 しかし、Web 2.0では弱い連携しかできません。個人情報やプライバシーや検索キーというものを、相互に連携させるのはなかなか難しい。それでも実際には実現しようとする人達がいます。たとえば“Liberty Alliance”は、IDをセキュアに裏側で流通させようと頑張っているグループです。しかし、これをもっと簡単に実現するには、そもそもデータ自体を一カ所に置いて、そこで誰もがアプリケーションを開発できる、実行もできるという環境があればいいわけです。たとえばGoogleには多くのデータが集中しますが、Googleに対しては意見をいうことはできても、そのプログラムを書き換えることはできません。それは誰もがそのサイトのプログラムを書き換えることができるサービスの出現を考えて、Web 3.0と名づけてみました。いうなれば、ASP(アプリケーション・サービス・プロバイダー)をサービスする、“ASP SP”ができるようになる。最近、“ning.com”というサービスが始まっていますが*4、まさにこれにあたります。マーク・アンドリーセンという、もともとMosaicNetscapeをつくった人が支援している会社なのですが、これはPHPというスクリプト言語で誰もがその場でアプリケーションを開発できるし、データも共有できるサービスなんです。

 これが実現すると、ネットワーク外部性によってデータが集中化します。それはYahooかGoogleかもしれないし、また別の新しい会社なのかもしれませんが、ともあれひとつの所にデータが集中化していく。多くとも2, 3個程度の、ごく少数のASPベンダーがデータを独占します。これは複数形が取れたリトルブラザー、あるいはリトルイットと呼ぶことができる。これが2010年ぐらいではないか。

Web4.0 とライフログ

鈴木健
鈴木健
 とはいえ、そこで黙っていないのが世の中のハッカーです。セキュリティの問題も考えて、Web 3.0におけるデータの集中状況を遍在させる環境は可能ではないか、と考えるはずです。ここからWeb 4.0の時代になるのですが、そこでのデータ・プラットフォームはおそらくブログになると考えられます。いまブログには文章だけでなく、ありとあらゆる自分の情報を投稿するようになっています。ブログは「ライフログ(Lifelog)」化していくのではないか、と僕は予想している。すべての生活情報・個人情報を記録するライフログは、各人のブログ上に分散化されて管理されます。ただし、自分でサーバーを管理していくのはさすがに難しいので、これを管理してくれるベンダーと契約するようになるでしょう。そしてライフログ同士が連携をすることによって、Web 3.0のときと同じサービスが提供できればいいわけです。

 そうなると、おそらく検索のアーキテクチャが全部変わることになります。これまでのRDB(リレーショナル・データベース)と同じようなやり方では、おそらく性能が出ない。そこで分散検索や分散与信のようなものができる。またブログに保存された個人情報に対して、自分でセキュリティ権限を設定して、公開範囲を設定すればいいわけです。「あるアプリケーションはアクセスできる/できない」「誰々は閲覧可能/不可能」というように設定すればいいということです。これを細かく設定するのは面倒くさいので、おそらく「適当に設定しておく」といったモードができて、便利になっていくことでしょう。このように、Web 4.0の時代には、「個人情報保護産業」のようなものがブログの上に乗っかってくると思われます。

 これによって、個人の内と外をデジタル化するのではなく、個人という単位をライフログに還元することで、個人の内外をアナログ的に繋ぐことはできないだろうか。このことによって、新しい「距離」が生まれるのではないか。いままで距離というとき、地理的・物理的な距離や、組織のメンバーシップ/非メンバーシップのような距離などを指していました。しかし、僕は新しい距離というものをネットの世界に生みだすように、アーキテクチャを考えるべきだと思っているのです。そのことによって、辻さんが第2部で指摘した、私的領域の干渉という問題を実質的に回避できると考えています。

 ただ、もちろんこのWeb 1.0/2.0/3.0/4.0というモデルは、どれかひとつにすぐ収束するわけではありません。おそらく4つの Webがしばらくは共存するでしょう。ここではひとつの概念フレームワークとして議論するために便利なのではないかと思います。

第3部へのコメント:安全と信頼

 続いて辻さんの第3部についてコメントします。これは山岸さんの「安心」と「信頼」の差異という議論を下敷きにされていました。この山岸さんの議論を捕捉しつつ、話を繋げていこうと思います。

 辻さんの講演では、一般的信頼をする人、高い信頼を持つ人は、必ずしも「間抜けなお人好し」ではない、と表現されていました。山岸さんが「信頼の解き放ち理論」ということで論じているのは、「社会的知性」の能力が高ければ高いほどデフォルトの信頼は高く、与えられた情報に敏感に反応している、ということです。つまり、相関があるということです。辻さんのスライドでは、『一般的信頼と用心深さ(「この社会では、気をつけていないと誰かに利用されてしまう」など)は別の因子を構成する』となっていますが、この両者には相関関係があるわけです。

図:山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』(講談社現代新書、1999年) P118の図4-2
図:山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』(講談社現代新書、1999年) P118の図4-2

 山岸さんの『安心社会から信頼社会へ』のなかで、キラーフィギュアはこれだと思います(図:山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』(講談社現代新書、1999年) P118の図4-2)。これは四角いプロットが、高い信頼をデフォルトでする人、つまり一般的に高信頼者といわれる人です。そして三角形が低信頼者です。このふたつの折れ線の違いは、まず情報が与えられていない中央では、高信頼者のほうが当然信頼が高いわけですね。ところがその人に対するポジティブな情報やネガティブな情報が与えられると、高信頼者は非常に敏感に反応します。ネガティブな情報が与えられると、むしろ信頼の度合いは逆転して、デフォルト時は高信頼である人のほうが信頼行動を取らなくなるのです。つまりデフォルトで高信頼者というのは、社会的知性が高い。つまり、この人は本当に信頼できるかどうかの情報を判断する能力が高い、というわけです。

 ここから山岸さんが分析しているのは、要するに安心と信頼は違う、ということです。低信頼者というのは、親しい関係性を囲い込むことで、普段自分が付き合う人に対して「安心」をしている。逆にその囲いの外側にいる人に対しては、不安になる。この安心と不安という関係性が、ものすごく「ステップ」*5になっている(図:信頼と安心の違い)。一方で一般的信頼は、「解き放ち理論」というぐらいですから開かれている。「フラット」な関係の上に、一般的な信頼が載っているというのが山岸さんの議論です。

図:信頼と安心の違い
図:信頼と安心の違い

 このふたつの構図に対して、辻さんが例に出してくださったPICSYが目指しているのは、「なめらか」な関係です。つまり、安心でもなく信頼でもないものを目指している。ひとつは辻さんが指摘されたことですが、デフォルトの信頼を底上げできるのではないか、ということです。つまりPICSYを使うコミュニティは、投資・被投資という取引ネットワークによって運命共同体になる。これによって一般的信頼の底上げを行うことができるのではないか、という辻さんの分析は大変面白かった。もうひとつが、社会的知性についての部分です。辻さんは、ほどほどの存在の顕名性をリトルイットに渡して情報を共有することで騙し合いを防げる、という指摘をされていました。これもその通りだと思いました。

 問題はその「ほどほど」の共有をどのレベルで設定するかです。PICSYでは、どの情報をどこまで出すかはシステム的にかなり制御ができます。しかし、どのバランスがいいのかはとても難しい。ただ、問題はPICSYだけでは済まないのです。PICSYがもたらす効果は、あくまで取引した後の話です。そうではなくて、取引自体のマッチングに関しては、PICSYの外部におそらく与信システムが必要になるでしょう。それがなめらかプライバシーや、なめらかな与信のようなものになると思います。これは現在研究中で、1月の僕の講演で話すことができればと思います。

 最後に、理念型の話をします(図:ステップ、フラット、なめらか)。近代社会というのは、大きな物語の上に様々な私的領域というのが小さく載っている、というモデルです。そしておそらく東さんのポストモダン論というのは、「情報社会の二層構造」で表現されるように、インフラ層の上に非常に分断されたコミュニティが出てくる、という話ですね。しかし僕はそうはさせないと考えていて、そのための設計を考えているんです。つまり、なめらかなメッセージングとでもいうべきものが必要ではないか、ということです。僕は以前も「アンチ・コミュニティ」だと表明したのですが、コミュニティを分断させていくのではなくて、コミュニティ自体がヴァーチャルなものでしかないということを露骨に指し示すことで、なめらかに繋いでいくことができるのではないかと思っています。というのも、倫理研では既にコミュニティが分断していく、という前提で議論されている気がするからです。僕としては、そうではない道を模索したい。ということで私のコメントとしたいと思います。


図:ステップ、フラット、なめらか
図:ステップ、フラット、なめらか



*1:註:倫理研第5回: 共同討議 第1部(4)以降の東の議論を参照のこと。

*2:註:isedキーワードオートポイエーシス」参照のこと。

*3:註:鈴木健のブログでWeb 4.0 について論じられている。→「PICSY blog: XMLの文体と新しい社会契約論(6):Web3.0」/「PICSY blog: XMLの文体と新しい社会契約論(7):構成的社会契約試論」をあわせて参照のこと。

*4:註:PICSY blog: Ningは次のgoogleか?

*5:註:「ステップ」は、内/外のように、切り立った二項対立的な関係を、「フラット」はそうした対立の一切ない関係を指す。詳細は、設計研第4回: 共同討議 第1部(1): 「なめらか」な社会――情報社会の執拗低音を参照のこと。

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/10091008