ised議事録

10-0810. 倫理研第6回:共同討議第2部(2)

情報技術は人々の関係をなめらかにするのか――並行する排除と分断の強化

東:

 ありがとうございました。ではまず辻さんから、いまのコメントに対してなにかありますか。

辻:

 素晴らしい、ありがとうございますという言葉に尽きます。第1部について、『あるひとつのうまくいく例を出せばいい』というご指摘はそのとおりです。私のいちばんの問題意識は、鈴木さんも整理されているように、非人格的なビッグイットがビッグブラザー化するところでした。しかし共同討議第1部でも、リトルイットの並立でもビッグイットと同じような効果をあげることができるのではないか。そしてリトルイッツであれば、極端なビッグブラザーになる可能性はない。それでよいのではないか、という議論の方向性が見えたわけです。その点でいくと、飲酒運転の例にしてもタバコのRFIDの例にしても、これらはリトルイッツが充分有効に機能する状況ですから、これに関しては私の発表の延長線上であれば問題はないことになります。

辻大介
辻大介
 また信頼の解き放ち理論についてもそのとおりです。この辺りの話を含めると発表時間が長くなると思って省略したところだったのですが、きちんと捕捉して頂けたと思います。

鈴木健

 僕の今回のコメントですと、Web 4.0はリトルイッツではない、ということが重要なんです。

東:

 そのWeb 4.0のブログのライフログ化ということに関して質問したい。さきほどの議論で、表現のレベル・存在のレベルという話がありました。つまり検索キーと結びつけられた「鈴木健」の情報として発信するものと、そうではなくて、鈴木健が無自覚に意識している情報が属性情報として次々にRDB(リレーショナル・データベース)に蓄積、格納されるような確定記述的世界ですね。ライフログはどちらなのか。

鈴木健

鈴木健
鈴木健
 それはもちろん、後者の存在の匿名性のほうも溜まっていきます。どこまで公開すべきなのかは本人が設定するということです。

東:

 存在の匿名性ライフログのなかに溜まっていくということですね。たとえば僕が自分のIDカードを持っている。そのIDはとても長く、各企業で別々の IDを使っていても、それらは統合されてライフログ・サーバーにすべての情報は基本的に全部入っていく。つまり、個人情報をトータルに管理するサーバーを、各人がそれぞれ持っているという状態ですね。

鈴木健

 逆に、各企業は一切データを持たないということです。企業はわざわざその個人サーバーの情報にアクセスしにくるわけですね。テンポラリに、数日各企業側が持つぐらいはいいかもしれないのですが。

東:

 なるほど。

白田:

白田秀彰
白田秀彰
 それはXMLのように、前もって文法は統合的に見計らって定義されている、と。

鈴木健

 そうです。スキーマは揃っている。どうしてこのようなものが必要かというと、ユビキタス時代について考えるからです。ユビキタスというのは、複数のコンピューターがひとりの人間のために遍在して働くというものですね。そうなると、ソニーのデバイス、松下のデバイス、どこかの小さなベンチャーのデバイスなどがたくさんあって、一個一個のデバイスが取ってきたデータを各社のデータベース上に格納しても連携できないわけです。無理に連携しようとすると、セキュリティ上の問題が大量に発生します。それをやろうと頑張っている人たちもいるのですが、それよりも、そもそもその人に関する情報を一カ所に置き、各デバイスがそれを読みにいくほうが、ユビキタス時代においては合理的なわけです。

東:

 なるほど。プライバシーの侵害という問題はむしろなくなる。

高木:

高木浩光
高木浩光
 つまり、完全に個人情報を自分でコントロールする、ということですね。鈴木さんの話は、皆が賢い人だということを期待していて、そうしなければならないという話だと思いました。他の論点もそうだったと思います。たしかに信頼と安心の話は大変興味深い。ただ、こうも考えます。「RFIDをランドセルに付ける」という事例を前回紹介したのですが、最近もNHKの番組で、とある学校を取材していました。お母さんが「とっても安心します」というのですが、これは安心ですね。つまり私には、この人はとても高信頼者、つまり社会的知性を持っているとは感じないわけです。2ちゃんねるの実況スレを見ると、「大体こんなテレビに出ている時点で危ないだろう」といわれている(笑)。そりゃそうだ、と思うわけです。このお母さんは、まさに「不安と安心」というまさにステップで発想している。自分で判断できないことを自分で認識しているから、なにかよく分からないもので安心したいわけです。それでは、みんなが高信頼者になるには、みんな賢くなろうという話になるのでしょうか。

東:

 同じようなことを僕も思った。鈴木さんのコメントの最後のところで、「東さんのポストモダン」と「私のネクストモダン」という図を出していましたね(図:ステップ、フラット、なめらか)。ただ、これは縮尺がおかしいのではないか。僕のポストモダンの二層構造では、縦領域の四角はコミュニティです。つまり、そのなかに複数の人間が入っている。一方、鈴木さんのなめらかというのは、一人の人間がなめらかに世界に接しているということですよね。しかし、なめらかに世界に接している人達が、お互いに少しずつなめらかな領域を重ねながら沢山集まるとすれば、それは結局ステップのような世界になるのではないか。実際、それが多細胞生物というものの起源であると鈴木さんがよくおっしゃっている。個人がそれぞれにライフログのサーバーを持っていて、それぞれがなめらかに距離を設定できるとしても、そのような人間が5千人、1万人と集まってくると、そこに自然とステップな領域が生まれてくるのではないですか。

図:ステップ、フラット、なめらか
図:ステップ、フラット、なめらか

鈴木:

 いえ、それはこの図で谷がひとつしかないのがおかしい、ということですよね。

東:

東浩紀
東浩紀
 いや、そうはならないはずです。鈴木さんもオートポイエーシスのシミュレーションで示していたように*1、細胞レベルでは内も外もないわけです。ミクロなレベルで見ればなめらかだけれども、それが集合として集まるといつのまにかステップな領域になってしまう、という問題がある。これは我々の世界の物理原則みたいなものだと思うんです。

鈴木健

 それはニュートンの法則のような物理法則では絶対にない。そうならないようなアーキテクチャを設計するのがポイントなんですね。PICSYはそのためにやっている。アーキテクチャにどんどん手を入れていけば、その原理を変えることは可能なのではないかと思います。

東:

 いえ、僕は高木さんのコメントをいいかえたわけです。早い話が、自分の周りをなめらかなコミュニケーション空間でコントロールできる人というのは自律している人であって、そうではない人達は結局寄り添ってしまうわけですよ。それこそ「おまえはあいつにどれくらい設定している?」などと聞きあって(笑)、自分の設定を他人と同じようなものにするでしょう。するとダブル・コンティンジェンシー問題のようなもので、こうした行為が雪崩のように集積し、大変なことになる。実際問題、いじめなどはそのように生成しているわけでしょう。

加野瀬

 たしかに。

鈴木健

 つまり、アーキテクチャの外部の人間的コミュニケーションのレベルで、そのようなことが起きてくるということですか。

東:

 そうです。人間的なコミュニケーションのレベルでステップになるだろう、ということです。

鈴木健

 なるほど。

高木:

 そのような問題をアシストするようなアーキテクチャ設計ぐらいは考えられるだろうとは思いますが。

東:

 しかし、各人が自分で物事を多様に決められるようにエンパワーメントされるほど、人はむしろ寄り添って他者を排除するようになるのではないか。

鈴木健

鈴木健
鈴木健
 でも、完全に刺激を認めないわけではないと思うんです。完全に同じ環境だと、人間は飽きてしまうからすこしは刺激を求めますよね。どんな村の人でも東京のテレビを観るわけです。完全に閉じた世界に住まうよりは、外から刺激を与えられれば人間というのは反応する。日本も鎖国をしていたし、未開の社会があったとしても、資本主義や産業がやってくれば反応する。新しいものや自分と違うものに対して、閉じてしまうことはないと思うのです。

小倉:

 しかし、そうすることでまったりしている人はたくさんいるわけです。鈴木さんはそうではないにせよ。

東:

 そうです。スポーツ・チャンネルでサッカーしか観ない人に、新しい刺激を求めてみたらといって、相撲を勧めても無理でしょう(笑)。

鈴木健

 いや、明治時代に近代社会がやってきたとき、拒否反応を示した人もいたかもしれない。しかし、それはある程度アーキテクチャで強制的に下支えすることもできるのではないか。

東:

 それは結局、キャス・サンスティーンの主張と同じですね。つまり、自分の意見と正反対の意見のブログに強制的にリンクを張っておけば、なにか刺激を受けるかもしれない、という倫理的な基準*2のようなものに近くなってきている。つまり、自分の趣味の世界に閉じないで、もっと外をみたほうがいい、ということを高級に表現しているだけではないか。

加野瀬

 たとえばある意見を持っている人に、強制的に反対意見も見せるようにするアーキテクチャをつくる、といったものですね。

白田:

 ただ、リンクされても読まないということもありうる。頭のはたらきの悪い人は、内と外をきっちりと分けて安心したがる傾向があるわけですよ。

加野瀬

 ああっ、はっきり言ってしまった(笑)。

東:

 結局のところ、この問題は簡単なんですよ。機械を使うのは人間で、人間は昔からたいして変わらない。そして、人間の変わらない本質はなにか。馬鹿は集まって他者を排除する。これは昔からそうです。これはどうしようもなくそうなのです。これは日本社会がどうという問題ではない。基本的に情報技術による個人のエンパワーメントは、あらゆることに対してニュートラルに働くわけだから、当然他者の排除もより精緻な方向に持っていきますよ。それが僕の言いたいことです。

辻:

辻大介
辻大介
 ただ現状が馬鹿の多い社会だとすれば、「馬鹿だらけ」の方向に動いてしまうわけですよ。協力的均衡か非協力的均衡のどちらかに動くというとき、アーキテクチャで底上げしてやれば協力的均衡に動かせるわけです。

東:

 それは人が賢くなるという話とは違いますね。

辻:

 違います。要するに、馬鹿は馬鹿のままであっても、知的レベルは同じであったとしても、全体的な均衡は動かせる。

鈴木健

 ちなみに山岸さんは、人は賢くなるという説を唱えています。どういうことかというと、高校3年生と大学1年生を比べると、一般的信頼の度合いが上がるんです。中学校3年と高校1年でも上がるらしい。なぜこうしたステップが生まれるのかというと、要するに大学に合格したという事実が自信になっているらしい。

東:

 そのデータそのものは違う解釈もできますね。つまり、同じ人たちを追跡調査しているデータではないんですよね。

鈴木健

 同じ人たちを追跡調査しているのは、大学1年生と2年生のデータです。これもまた一般的信頼度が上がるんです。大学は高校と比べて開かれているので、大学に入ることで鍛えられて、社会的知性が磨かれるのではないか。

東:

 うーん、どうもいきなりショボイ話になってきました(笑)。これは真面目な話なのですが、どうも本質的に設計研の議論に似てきていると思うんです。設計研には明確な路線があって、社会の設計ではなく組織の設計の議論になっている。つまり、コミュニティをつくっていかにして生産性を上げるか、という話ばかりを設計研はしていて、そのことに限界がある。そして、いまの辻さんの発想は、この設計研組織論に似ているのです。つまり馬鹿は多いが、馬鹿を使って、うまい具合に生産性を上げよう。そのとき、非協力的均衡になるか協力的均衡になるかは大きい。だから、PICSYで底上げさえすれば、みんな馬鹿でもいつのまにか協力的均衡になってくれる。これはすばらしい、という話ですよね。

鈴木健

 ただ僕は、生産性はもう上がらなくてもいいと思っています。生産性は、おそらく100年前からは1000倍くらいになっているはずです。それなのに、なぜ世の中にはこんなに問題が多いのか。これが僕の問題意識の出発点なんです。ITはよく生産性が上がるといいます。しかし、これは本当にむかつく話なんです。ITというのは生産性を上げるのではなくて、コミュニケーション・プロセスのアーキテクチャを変えるものではなかったか。そもそもコミュニケーションというのは、社会で構造的に発生していた問題の解決に使わなければいけない。生産性が上がって50円安くなりました、という議論は本当にどうでもいいのです。辻さんの話にしても、それはひとつの組織のなかで生産性が上がるという話ではなくて、社会全体でどうすれば協調的な関係を生んでいけるのか、という話になればいいと思うんです。

東:

 さらに僕が言いたいことをいいかえると、人間の行動をふたつのレベルで分けましょう、ということなんです。これは僕が繰り返し主張している*3ことで、自分で意識して行動している人間的なレベルと、いつのまにか行動してしまっている動物的なレベルですね。これは意識的・無意識的というものを別のバージョンで表現しているだけなのですが。

東浩紀
東浩紀
 そこで設計研が提案しているのは、無意識的協働に注目しましょうということなんです。創発性も同じことです。つまり、意識して人を協働させるのは非常に大変である。しかし、各人は自分の小さい世界で自分の限定合理性のなかで動いていたとしても、実はグローバルな協力関係ができてしまうような、部分最適型のシステム*4をつくればいいのではないか。というよりも、実はそれしかないのではないか。そう設計研は主張している気がするんです。これはつまり、下のインフラ層でみんなコミュニケーションがとれているから、意識レベルでは自分の世界しか見えていないとしても、実は無意識のうちに協力してしまっているというモデルですね。たとえばGoogleはそうです。各人は、自分の好きなホームページをつくって自分の好きなことを書いているだけで、いつのまにか世界規模のデータベースがつくられている。

 いいかえれば、人間的なレベルと動物的なレベルを分けて、人間的なレベルでは閉じこもっていても、動物的なレベルでは協力しているようなシステムは設計可能だということです。そのとき問題になるのは、結局人間というのはお互いのコミュニティのなかに閉じこもってしまうし、これからはむしろその状況というのは加速するかもしれない。そのとき、PICSYはそれを本当に開くことができるのか、ということだと思うんですよ。しかし、いまの話を聞いていると、そこで協力関係と言われる内実は、強い人であればその装置をうまく使えば開かれることができる、というだけのことではないか。

加野瀬

 PICSYを使っても、結局強い人のところに弱い人がぶらさがって、たくさん島ができるというイメージですかね。

東:

 まさにmixiのコミュニティのようなものですね。そういえば、PICSYmixiはなんか似ている(笑)。ただ、PICSYの話は大変にいいんです。そしてそれぞれの人間がライフログ、つまり自分の存在の匿名性に関わる情報をすべて手元のサーバーに置いて、アクセス権をその個人が決定する、という仕組みも面白いアイデアだと思う。しかし、表現の匿名性の話に置き換えると、それはmixiとあまり変わらないという気もしてくるわけです。つまりmixiでいまやられていることが精緻化しただけではないか。

鈴木健

 その方向性では精緻化したといってもいいと思います。mixiでは、「距離」といっても友人間のホップ数しか見ないわけですが。

東:

東浩紀
東浩紀
 つまり鈴木さんは、それをもっと多層化するといっている。たとえばGoogleページランクのようにお互い評価できるようなシステムを何層にも導入して、より洗練されたmixiをつくろう、というわけです。しかしそうだとすると、鈴木さんはコミュニティを閉じないためのオルタナティブだというけれども、はたしてどうか。

北田:

 むしろmixiが強化されるとすれば、分断化は進むでしょう。

鈴木健

 mixiはそれほど島化しているんでしょうか。

東:

 しているんじゃないでしょうか。mixi自体がインターネットのなかの島ですが、さらにmixi内部も島に分かれている。

加野瀬

 そうだと思います。mixiの内側がページランクのようなもので精緻化されるというのは、気持ち悪いと感じる。

*1:註:オートポイエーシスのセルオートマトン。詳細は、設計研第4回: 共同討議 第1部(1): 「なめらか」な社会――情報社会の執拗低音を参照のこと。

*2:註:キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』(朝日新聞社、2003年 asin:4620316601 p.183-)における、マスト・キャリー原理のこと。

*3:註:このふたつのレベルは、isedキーワード情報社会の二層構造」に顕著に表現されている。

*4:註:たとえばオープンソースはてなのモデルが、その例として挙げられている。設計研第1回:議事録における、組織論の「部分最適」モデルをめぐる議論を参照のこと。

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