ised議事録

10-0812. 倫理研第6回:共同討議第2部(4)

配分的正義――情報社会リベラリズムの居場所

東:

 ただ、いま白田さんと鈴木さんがおっしゃたモデル、個人情報をライフログ・サーバーに入れて、その運用が人生全体の資産価値を決定していく世界は、リバタリアンの夢としてあると思いますね。

鈴木健

 金銭的なもの以外に、コミュニケーションの喜びというものに対する管理の仕方も変わってくるでしょう。

白田:

 それはそうだ。現在でもそうだよね。

鈴木健

 現在でもそうです。誰を友達に選ぶのか、どこのサークルに入るのか。全部そうですね。

東:

東浩紀
東浩紀
 だれを友だちにするのか、だれと付き合うのかが、すべて資産として判断される世界ですね。実はそれはいまでも現実なんだけど、僕たちは、その効果を本当に数字で判定し管理できるような技術を手に入れようとしている。

 ともあれ、鈴木健白田秀彰の連帯がいまこの研究会をひとつの方向性へと駆動してきたわけですが、そろそろ僕も司会の自覚を取り戻さねばなりません(笑)。さて、北田さんはいまの話を聞いてどう思いますか。彼らの勢いに対して、イデオロギー的に突っ込んでくれる人がいるとすれば、もはや北田さんしかいない(笑)。

北田:

 もうリベラリストはだめだな、と(笑)。もちろん冗談ですが。しかし悲観的にならざるをえない。「自由の侵害である・侵害ではない」、という区別――侵害である/ないという状況区分を、何らかの第三者的規準に基づき判断すること――は技術的に難しくなっていきますし、ライフログ的なものができるとすれば、どこに自由というものの〈根源〉があるのか、ということも分からなくなっていく。

東:

  ライフログの発想は、社会思想の言葉でいえば、ノージックの「権原理論」*1のスーパーハイパーバージョンですね。

北田:

 そのスーパーハイパーバージョンは、リバタリアンも突き抜けて、リベラリズム的な思考一般を否定する方向に向かう。

東:

東浩紀
東浩紀
 なるほど。

 そこでひとつ聞きたいのですが、もしそうだとすれば、リベラリズムのもうひとつの中核だった、ロールズ的な富の再配分の原理はどうでしょう。このあいだたまたま読んだ本のなかで(『One World』未邦訳 asin:0300103050)、ピーター・シンガーは、ロールズの原理に関して、それはグローバルな共同体を想定するとあまり意味がないと批判していました。ロールズの富の再配分は、国民国家という小さな単位のなかで、貧しいひとと富んでいるひとの関係を再構築しようという議論です。したがって、世界規模の共同体を想定すると適用できなくなる。ロールズは、「もっとも貧しい人間が豊かになるかぎりで貧富の格差は正当化できる」と述べたわけですが、そもそもいま地球上でだれがもっとも貧しいのか、だれにも分かりようがない。

 この批判は本質をついていると思います。問題は、富の再配分が共同体の境界を必要とするということです。しかし、いま話題になっていたような個人情報が資産運用される世界においては、誰が貧しく誰が金持ちなのかもわからなくなってしまうかもしれない。

鈴木健

 PICSYを国際通貨に使うと面白いことが起こると思うんです。そうすると、どれだけの人口に対して貢献したのかに比例して貢献度が決まる。いままで、物財が移動することの物価のギャップを使って為替相場ができたわけですが、そうではなくなる。

東:

 それはわかるんです。しかし、それが解決になるかどうかは疑わしい。そもそも、いまでもそういう貢献度はちゃんと金銭に反映されていると言えば言える。たとえば、ハリウッドに投資するのと日本映画に投資するのでは、ハリウッドのほうが投資効果が高い。なぜかといえばハリウッドはグローバルに観られるけれども、日本映画はそうではないからです。結局、それは範囲によって決定されている。そういえば、鈴木さんはPICSYの事例としてゴダールの例を挙げていましたね。あそこでは、PICSYを使うとハリウッド映画に影響を与えたのだからゴダールに一定の利益が戻ってくる、という例としてあげられてましたが、それはむしろ富を集中させているだけですね。

 問題は、マーケットはグローバルだけど、再配分のシステムはグローバルに機能しそうもないということです。北田さん、どうですか。

北田:

 個人情報が資産になったとき、はたしてその再配分とはなにか。……そのイメージが湧かないんですよ。

東:

 なるほど。そのこと自体が、問題の深刻さを表していると言えますね。

白田:

白田秀彰
白田秀彰
 そうならないためには、やはり個人情報は保護すべきかもしれない、というオチもありえますね。前回は、社会の複雑性の問題がある以上、存在の匿名性はもはや保護できない、という結論だった。今日はその問題を引き続き再検討した結果、そうなると勝ち組と負け組が分かれてしまって、再配分の方法もわからないし、そもそも再配分自体が不可能であることがわかった。となると、リベラル的にはお互いにわからない状況のほうがよい、という結論になる。これは前回の結論とは両極端になるわけです。

北田:

 ある程度わからなさを残しておくということですね。

東:

 ロールズの「無知のヴェール」*2の新しいバージョンですね。

 ただ、ここまでの議論で見えてきたものはあると思います。来るべき情報社会の問題を考えるうえで、自由という観点、公的/私的という観点はともにすり切れている。それが分かっただけでも、十分に意味がありますね。

 ところで、こういうふうには考えられないでしょうか。近代社会はフランス革命で「自由・平等・博愛」という有名な言葉を手に入れた。21世紀の社会では、自由はかなり実現できる。博愛もコミュニケーションの支援装置を使っていけるかもしれない。しかし平等の達成は難しそうだ。

北田:

北田暁大
北田暁大
 リベラリズムの根幹として、「自由」ではなく「再配分」的な志向のほうを据えれば、かろうじて残る可能性があるわけです。逆にいえば、ロールズ的な議論の一側面――第二原理のほう――しか残りようがないのであって、自由――第一原理――を先に立てると、リベラリズムは死ぬしかない、ということかもしれない*3

鈴木健

 近代社会はそもそも同じですよ。市場主義、資本主義がデフォルトになっていて、まず働け、稼げという。それがだめなら、社会保障政策がある。

東:

 しかしそれでいいの? 平等は考えなくていいのでしょうか。

鈴木健

 まったく平等だったら、そもそも働かないですからね。

東:

 僕たちはそれを共産主義の失敗から学んだわけです。これは意外とそういう話かもしれませんね。平等の原理は20世紀に壮大に失敗した、そこから出発しているから平等の観念が欠落した社会が来るのは当然だ、ということになるんでしょうか。

鈴木健

 つまり自由をデフォルトにして、平等をサブシステムにするというシステムがいま生き残っているわけです。

加野瀬

 セーフティネットをつくっておけばオッケー、ということですね。

鈴木健

 そうです。新しいパラダイムもあるかもしれませんが。それを考えましょう。

東:

東浩紀
東浩紀
 わかりました。

 後半は、司会の僕が鈴木さんと白田さんにいろいろと教えを聞く、という感じになってしまいましたね(笑)。とはいえ、今日は、いままでの倫理研の総まとめとも言うべき本質的な議論ができたのではないかと思います。最終回が、ますます楽しみになってきました。

 辻さん、最後にひとことお願いします。


辻:

 私が考えていたことを遥かに超えた議論が展開されて、大変に面白かったです。信頼をテコにして、たとえばアーキテクチャでその信頼機能を補完することによって、よりよい協力的均衡にいく、というのが私の提案した議論でした。これはいいかえれば、実は信頼それ自体が貨幣化してしまうと、富の再配分のシステムを全く新しく考え直す必要があるということですね。なるほど、と思いました。

東:

 ありがとうございます。個人的には、講演の第2部にあった、「存在の匿名性を責任のインフレーションを回避するために使ったらどうか」というアイデアについての議論ができなかったのが残念ですが、それはおそらく、小倉さんが講演される次回へと引き継がれる話題でしょう。

 それでは、質疑応答に入りたいと思います。



*1:註:「権限(entitlement)」とは、私的所有の理論的根拠のこと。ロバート・ノージックは、リバタリアニズム思想を論じた主著『アナーキー・国家・ユートピア』(木鐸社、1995年 asin:4833221705)で、正義の「権原理論」を展開する。これはロールズ的な格差原理、再配分の正義に対する批判として提出されており、財産獲得の正当性の根拠について、自己の労働と、他者からの双方の合意に基づく随意的な移転によってのみ行われる、とするもの。G. A. コーエンは、こうしたノージックの議論を、ロックのように身体と能力の私的所有に正当性の根拠を置く、「自己所有権」の立場とみなした。そして鈴木健の論じる「ライフログ」は、自己に関する情報をすべて自己が所有しコントロールするという発想であり、これはまさに「身体の自己所有」を超えたバージョンである。またこの権原(entitlement)は、ドゥルーズの管理権力論や、「資格付与カード」(entitlement card)などと比較できる。詳細は東浩紀情報自由論」を参照のこと。→「波状言論>情報自由論>第7回

*2:註:ロールズの『正義論』での著名な概念。東浩紀の「情報自由論」では、この無知のヴェールが失われること、つまり存在の匿名性が奪われることに情報社会の基本原理を見出される。→「波状言論>情報自由論>第7回」より引用:『米国の倫理学者ジョン・ロールズは、人間がたがいの基本的な自由を尊重し、正義と公正を確立するためには、彼らのあいだに「無知のヴェール」が下りていなければならないと論じた。人間は、たがいの財産や能力について十分な情報を持たないからこそ、自分にとって不利になるかもしれない原理に同意することができる。言い換えれば、ひとはたがいに匿名的な存在であるからこそ、たがいの自由を尊重しあうことができる。しかし、環境管理型社会の自由とは、本論でここまで論じてきたように、まさにその匿名性を放棄すること、「無知のヴェール」を自ら引き上げることで与えられるものだと言える。まず身分を明らかにせよ、そうすればこのポストモダン化され情報化された世界で存分に(あなたの資格に見合った範囲で)自由に振る舞って構わない、これが現代社会の基本原理である。』

*3:註:ロールズの『正義論』では、正義の第一原理として、すべての個人に対し平等に基本的諸自由を認めるべきとする。そして第二原理では、社会的・経済的な不平等が正当化される条件(再配分の正義)が示される。2-1)競争の機会を均等に与えた結果生じたものに限る。2-2)その社会で最も不利な状況にある人々の利益を最大化するに限る。

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