ised議事録

11-122. 設計研第6回:村上敬亮講演(2)

題目:「縦の社会を横につなげる~なめらかな国家の『設計』を目指して~」

設計研第6回:縦の社会を横につなげる~なめらかな国家の『設計』を目指して~

1-3. 課題:日本の再設計――これまでの議論の私的整理

 言い換えを多用して恐縮ですが、EAの活用と情報家電市場の動きというふたつの動きから、縦割り問題の結果起きていることを別の言葉で表現すると、社会設計のレベルでオブジェクト志向の動きが強まっているとも言えるのではないでしょうか。

 従来の社会設計は、ソフトウェア開発用語で言うウォーターフォール型で、上から産業構造を決め、次にその下のレベルの産業構造を決め、通商産業省経済産業省は80年代ビジョンなどを通じてその流れを編集する役割を担ってきた。いま経済産業省では「新産業創造戦略」を打ち出していますが、ある意味、このタイトルは、現在進んでいるヨコ志向とは論理矛盾している面があるといえる。むしろ、「脱『(縦割り)産業』戦略」といった方が含意に忠実ではないかという気もする。

 企業経営においても同じです。従来は、上から経営目標を決め、事業計画を決め、それを各事業部単位の事業計画や営業目標にブレークダウンしていくという、ウォーターフォール型の意志決定方法がとられていた。でも、そういうタテのガバナンスだけでは、顧客の声に迅速に対応することが出来ない。「現場力」ということがクローズアップされてくるわけです。つまり「現場」単位のオブジェクトの動きをまず優先するということですよね。そして、「現場力とIT」といった議論も出てくる。

 現実に、社会設計のオブジェクト化は着々と進行しています。この研究会で紹介された一番強烈な事例は、楠さんも紹介してくれた「ボットネット」の話です。社会開発のオブジェクト化が進行すると、オープンソース型よろしく、モチベーション・ドリブンでボットネットという、他人様のコンピュータまで悪用した仮想ネットワークがいつの間にか組まれ、その上でスパイウェアがどんどん配られる仕組みが自生的にできてしまう。ちょっとでも警察に見つかる気配があれば、また別のコンピュータを使って仮想ネットワークを組み直し、引き続きどんどんスパイウェアを配信する、という事態が発生する。従来であれば、ボットネット対応の縦割りの警察組織をつくって、ちゃんと対策本部を置いて対抗する、というやり方がとられるでしょう。しかしこれはもう立ち行かない。ボットネットの動きに対して、従来的な縦割り権力的な制度で対応しようとしても、権威ある縦割り制度を構築している間にボットネットの方がどんどん進化してしまっていって、その上で発達するスパイウェアのスピードにとてもついていけない。たとえば、米国は、圧倒的な武力が案外ゲリラ的な動きに苦戦した湾岸戦争の反省を活かして、イラク戦争の際には、武器そのものではなく指揮命令系統にネットワーク・セントリックなコマンダーシップを展開し成功を収めました。同じように、ボットネットをサポートする人たちのやり方に対抗するには、彼らと同じやり方で対抗しないと負けてしまう。そういえば、「踊る大捜査線」の映画版でも似たようなモチーフが展開されていましたよね。

 いまの日本は、従来の企業組織のような縦割り的なガバナンスで管理できる局面にまだいるのか、それともオープンソース・ソフトウェアのようにモチベーション・ドリブンでスピード重視の社会制度設計をしないと太刀打ちできない局面にいるのか、その分水嶺に既にさしかかっているのではないか。これまで設計研で我々がオープンソースを議論の題材にとりあげ続けてきたのも、その分水嶺にさしかかっているという意識が既に広く共有されているからではないかと思うんです。

 第2回設計研で坪田さんが仰っておられたのですが、昔は巨大な権力を握っていた独占権力が「あなたはここにいてもいい、あなたはここに手を出してもいい、あなたはここで設計してもいい」と指図していた。しかし知識経済においては、生産のモチベーションは面白さの方向に向かっていく。いくらお金を出してアサインしても、働かないやつは働かない。逆に作るやつは勝手に作ってしまう。こういうときに経済的なエンジンをどこに置くのか。この問題を考え直さざるを得なくなっているから、社会設計の方法論をやることが面白いわけです。また、このことが、社会開発のオブジェクト指向化を強めている原因でもあるでしょう。

オープンソース組織論設計研第2回)

 では、その分水嶺を超えていくための鍵はどこにあるのか。それは、いかに面白いというインセンティブを寄せ集めて、ネットワーク・セントリックに人の動きを起こすことにあるのではないかと、僕は考えています。また、第2回設計研で議論されたように、オープンソース・コミュニティはこの面での先生といえるのではないでしょうか。八田さんが紹介されたアルフィ・コーンの議論も、金銭的な報酬ではないほうがむしろいい仕事をする、という話の例です。ただ現場だけにすべてを任せていてもうまくいきません。そこで経営側は各部門のミッションを決めた上で、あとはモチベーションを高めつつ具体的な舵取りは現場にまかせる、という二重構造が重要になってくる。

 井庭さんが議論されていたのは、「オープンソースにおけるソフトウェアの自律的連鎖のダイナミズムを決めているのは、経済的な要因によるものではない。それはあくまで外部要因でしかない。そうだとするならば、ビジネスの現場という経済的動機付けありきの場の内側で、そもそもそうした連鎖は可能なのかが論点になる」ということでした。そうした連鎖、つまり消費者とモチベーション・ドリブンでつながっていくという現象を、ビジネスとして組織化することはできるのか。全体を可視化する中で見つけることはできないか。これが論点になったわけです。

 さらに近藤さんから、「人文的ハッカー」というお話がありました。はてなには規約上グレーな部分がたくさんあって、それに気がついたユーザーのほうから、「こういうキーワードを作ってみるのは違反ですか」と言ってくる。近藤さんはこれを規約の違反者ではなく、デバッグしてくれている人なんだとポジティブに考えておられる。これはある種、ビジネスの現場と外側の消費者がつながって回っている例です。だからこそ、はてなのビジネスモデルというのは我々が見ていて勉強になるし、すごく面白いと思うわけです。

ネットワーク・セントリックと設計的コミュニケーション(設計研第3回)

 ここで出てきている要素とはなんでしょうか。ひとつは、「よくわからないけれども、これに乗っておいたほうが得そうだ」と人々に思わせることです。たとえば、この課金認証の方法はデファクトになりそうだから乗っておこう。GREEとかmixiは、面白い人がたくさんいそうだから乗っておこう。そう思わせる原因というのは、演出の問題かもしれないし、機能の問題かもしれないし、プロパガンダの問題なのかもしれません。ともあれそこで共通しているのは、そのプラットフォームが積極的に外部に開放されていて、外部性を積極的に内部化する仕組みを持っていること。別の言い方をすれば、ある種の潜在的な貸し借り関係の連鎖を自ら広げていこうとする仕組みを持っていることです。これを結果から見ると、デファクト争いとか標準化競争として見ることができるのかもしれませんが、それは動的なものを静的に見るからそう見えるだけであって、本当は標準を競争しているということではない。むしろある種の連鎖関係を糾合しながら、人文的ハッカー達の貢献によってダイナミックに新しいプロトコルやルールが生み出されていっている、そういうつながり方をしているのだと思います。

 そこで気にかかるのは、なぜ彼らがそこに積極的に乗りにいくのか、という動機付けの構造です。設計研第3回では、僕が情報家電政策について「消費者ドリヴン」と叫んだことに対して、東さんから、「多くの人の動機付けを支えられるような正統性を消費者が作れるのか? 少なくとも、消費者に『最初の一撃』となるようなインパクトのある正統性が作れるのか?」という反論がありました。そんなに凄い「賢い消費者」というのは本当に存在するのか。いまの消費者がやっているのは、流行っているものにしがみついて、自分の価値観を持たずに、「みんなが持っているから」といって横並びに続いているだけではないか、という話も他方で出てきました。

 ここで井庭さんのお話を引用します(図:設計的なコミュニケーションの連鎖)。井庭さんは、消費者ドリヴン・消費者基点というとき、消費者個人に起点の主体を置かないことを提案されている。僕自身も、情報社会に限らずかつて社会に設計者は存在しなかったと考えます。一個人が設計者というわけではないし、主体がすべての設計をコントロールしているのではない。むしろ設計者だと思われているその人は、過去から未来へと連続する設計的コミュニケーションのパスをつなぐ役割を果たしている。それは、サプライサイドが主導権を握った「仕切られた多元主義」の時代でも同じこと。誰か一人が全体を設計していたわけではありません。だから、絶対的なスーパー消費者が必要だということではない。

 

図:設計的なコミュニケーションの連鎖
図:設計的なコミュニケーションの連鎖


 ここでiPodの話を思い出してもらってもいい。いまこの瞬間のモノとしての性能はソニーのほうがよくても、サービスまで含めてトータルに欲しいものをつくるプロセスとして見ると、イケてる自分を演出してくれそうだという期待も含めて、どうもAppleのほうが信頼できそうだと思われている。携帯型プレイヤーとしての品質ではなく、Appleというブランドが提供するモノも含めたトータルなサービスの信頼性に人々がついていく、という競争が起きている。

 ここでは井庭さんもおっしゃっているように、「主体や物といった存在ではなくプロセスやコミュニケーションといったモノに社会性を捉える主軸が移っている」わけです。さらに井庭さんは「賢い消費者」を、主体ではなくコミュニケーション過程としてみなせるのではないかといいます。つまり日本の消費者は個々人が賢いのではなく、何かを評価するためのコミュニケーションがうまいぐあいにネットワーク化されているとみなせるのではないか。ただ、その場が2ちゃんねるだけでいいのかといえば、議論はあっというまに後退してしまうと留保されていますが。

 しかし、「設計的なコミュニケーションの連鎖」といってもイメージが湧きにくい。そこで、はてなが大変に面白いサンプルになる。はてなの近藤さんというのは、ある種の起点、あるいはファンクションになっているのではないかと考えられるわけです。一人一人が大きな力を持っていなくても、はてなキーワードはてな人力検索といった仕組みに集約していくと、はてなのネットワークは大きな力を持つ。近藤さんは設計研第1回で、はてなはコミュニケーションのオーナーシップとリーダーシップを両方持っているとコメントされていますが、まさにそれネットワーク・セントリックな人の動きの基点となるという機能を一言で表していると思います。

縦の正統性、横の正当性(設計研第3回)

 設計研第3回で、いまや縦割りの世界を勝手に横につなぐ役割がたくさん出てきて、しかもその上に乗らないとビジネスも生活も回らないという事態になったときに、従来までの縦型組織における正統性はどうでもよくなるのではないか、という話をしました。そのとき、むしろ横につながる上で必要な信頼感を醸成するためのジャスティフィケーション(正当性)が必要になります(図:横のジャスティフィケーション)。これに対して近藤さんは、「なにかひどいものが出現すれば、そのおかしさに気づくイノベーターが現れて、カウンターを起こすのではないかという期待感」があるとおっしゃっている。そういう期待感があるから、実際はひどいものが出てきたときの規制だけ考えておけば、あながちそんなに悪い世界にはならないのではないか、と近藤さんはおっしゃっている。これは先ほどの人文的ハッカーの話とつながっているわけです。

図:横のジャスティフィケーション
図:横のジャスティフィケーション

 さらに近藤さんは正当性/正統性の問題について、次のようにおっしゃっている。

ただ、ユーザーにとって幸せなことはなにかという議論をすると、1回覚えたものをずっと使えることの良さもあると思うんです。たとえばGoogleという検索エンジンを1年間苦労してやっと覚えたのに、翌年にはなくなってしまったらそれは不幸なことですよね。ずっと使い続けることができる権利はそのサービスの良し悪し自体とは別に存在していて、だからこそ続いているサービスもある。そのことで幸せを得ているユーザーもいる。こうしたことは無視できないと思うんです。

設計研第3回: 共同討議 第2部(2)

http://ised.glocom.jp/ised/06090409

 近藤さんは、はてなを今後発展させていくときに、上のような意味での正当性を大事にしたいという宣言をされていました。そしてこの変化し続けるプロセスを維持するということが、縦の産業を横にしていくときの重要な条件ではないか。縦としての正統性、つまり「技術としての品質を私は追いかけます」ということよりも、横の正当性、つまり「あなたが考える物やサービスに忠実に応えていきますよ」ということの重視ですね。後者は歴史的にレジティマシーを持っていないのかもしれないが、それを社会が認めてくれるというレベルでのジャスティフィケーションのロジックがついてくる。これが、縦を横に変えるときの重要なポイントになってくるのではないか。

規律訓練型権力/環境管理型権力

 規律訓練型か環境管理型かということも重要な議論のポイントになってきました。横の正当性といったときにキーワードになってくるのが、八田さんのおっしゃったメタレベルの「再定義可能性」という議論です。はたしてビジョンを一部の人が作るのではなく、みんなでつくるということが本当にできるのか。そこで第1回で井庭さんから、voice(抗議)とexit(退出)とloyalty(忠誠心)というハーシュマンの議論の紹介がありました。情報社会の横連携においては、脱社会的な存在が増えloyaltyは調達しがたくなる。そのとき、いかにしてloyaltyは確保できるのかという問題です。

 さらに第2回の講演で、八田さんはオープンソースというメタライセンスとしての性格に注目します。メタライセンスという緩い枠組みがあって、しかもそれが再定義可能な構造だとみんなが思っているからこそ、逆に厳しく正統性を突き詰めなくても、そこそこの正当性が見いだせれば、人々がついていく構造があると論じています。そのためには回復不可能なほどに対立していないことが大事なのではないか、ということをおっしゃっていました。

 こうした議論から考えるに、規律訓練型権力/環境管理型権力と二元論的に捉えなくても、ある程度ミッションの再定義可能性を構成員が信じられる程度に横の正当性があれば、そしてそのコミュニケーションの連鎖を可能とするプラットフォームが物理的に保障されていれば、情報社会オブジェクト指向的なコンポーネントの単位をつくっていけるのではないか。そのプラットフォームが企業になるのかボランタリーなNPOになるのかわかりませんが、ただ近藤さんを見ていると、そういうコンポーネントのベースを作り始めているように見える。逆にいえば、はてなが大きくなっていくときに、それが従来型の組織に制度化されてしまうのか、もしくはオブジェクト・ライクなまま、新しいコミュニケーションを吸収しつつダイナミックに変わり続け、はてなの労働ロジックを変えずにいられるのか。この点に横浜でやったときの設計研では関心が集まっていたのではないかと思います。

市場の正当性、政府の正統性設計研第3回)

 では、そういう正当性/正統性は一体どこから出てくるのか。東さんからは、「市場競争は正当性を持つのか」という問題提起が既に提出されています。換言すれば、「市場機能こそが、正当性を得て『つくるコミュニケーションの連鎖』を外在化させる契機を与えてくれる」、というのは本当か。もっと単純にいえば、競争を煽っていれば横につながるネタやルールが出てくるのか。僕の考えでは、いまの組織ルールと市場機能だけでは、情報社会が求めるプラットフォームを支える密度の濃い「メタレベルの定義可能性」はなかなか成立しない。いまの市場では、制度化されたイニシアチブ(規律訓練型の組織)でないと、アウトプットを外在化させることが難しい。家電市場といっているうちは、いまのままの松下やソニーが有利なわけです。他方、オープンソース・ソフトウェアはそのままの形では、やはりなかなかビックビジネスになりにくい。この構造を変えないまま新しいビジネス分野を作るだけであれば、トヨタがニューエリートになってサービス層まで提供して新たに大きな縦割りを作ってそれで終わり、ということになる。結局、大衆はそれについていくしかない。

 それでは情報社会を考えるときにつまらない。やはり消費者がついていくだけではない、消費者がもっとポジティブにイノベーションに貢献できるような産消逆転の構図はつくれないか。せっかくITでイノベーションのルールを変えていくのであれば、消費者がそのプロセスに組み込まれて横の秩序の中に入っていくような新しい秩序はつくれないものだろうか。こう考えていくと、さきほどの横の正当性、就中、その横のプロセス全体の密度や成熟度が、正当性を共有させるほど立ち上げ時に上げられるかが鍵を握ってくると思います。

 設計研第3回で、僕は政府による設計主義について次のように論じました。行政の役割は、かつては設計者としての権威・正統性を持っていたが、これからはギミックとしての政府の正統性を有効に活用しながら、新たな横の正当性を再編集する手段として活用すればいい、と。この議論も関連してくるところだと思います。そういう視点で割り切ってとらえ、厳しい政策評価を前提にすれば、政府が予算資源を使って行政をすること自体は、決して悪いことではない。実力もないのに予算の配賦を自らの縦割りの権威/正統性の根拠に使おうとする輩が政府の中にもいるから、ロクでもないことになる。ヨコ串を刺すきっかけとして、政府の看板をもっと上手く使ったらよいし、まだまだ使いでがあると、ICタグやスキル標準、EAなどの施策をやってきて僕自信は感じています。

企業組織の問題:制度化できない情報の流れをいかに制度化するか(設計研第5回)

 ここで別の切り口の話をします。では、そういう横のプロセスの仕組みを取り入れた企業経営というものは、なぜいま成り立たないのか。なぜいまの会社はそういうことができなくなったのか。

 この問題については第5回で、近藤さんがポスト株主資本主義議論について図を提示し、それを受けて議論しました。横のプロセスを動きにする場合でも、やはりタテの企業組織と同じように、ヒト・モノ・カネという生産要素は必要だということです。実際、従来の株式会社は、株主が投資をし、会社が資本家として生産手段のヒト・モノ・カネをうまくコントロールして商品をマーケットに出して、うまくやってきました。ところがどんどん社会の動きが早くなってきて、ヨコ串を刺す動きが入ってくる。すると、個々の生産要素の動きを制度化しきれないうちにカネもヒトも知識もバラバラに組織を出入りするようになる。それらの価値を株券という単一のルールではとても統一に管理できなくなってしまっている。こういう問題が起こっているのではないかと僕は考えています(図:ヒト・モノ・カネの流動化)。


図:ヒト・モノ・カネの流動化
図:ヒト・モノ・カネの流動化


 たとえば、阪神タイガースがいままでのやり方でビジネスをしようと思っていたら、「おたくの資産は、ヨコ展開を考えればこんなに資産価値があるのに無駄な経営をしている」といって、いきなり外部のファンド資金が入ってくる。ヒトの部分でも、「日本の電機メーカーにいても知見を活かしてもらえないから、週末、中国や韓国に行って自分を大切にしてくれる人に貢献する」といった方がどんどん出てくる。加えて、生産手段としてのモノ(生産設備)の役割が変わってきている。ディスプレイなどはまだ初期の設備投資が大事ですから、比較的旧来のロジックになじむんですけれど、今後は、生産そのものの外部委託が進む、場合によってライバル企業同士でもファウンダリーを共同で作るなど、企業活動のコアが、生産設備の維持・発展から知的資産の開発・管理に移行してくる。そういう局面に入ってくると、重要なのは設備投資よりも知的資産への投資となるが、その資産管理は、いままったく巧く回っていないという事態になっている。縦の発想で動かしてきたヒト・モノ・カネの管理が、知識社会の時代に入って、会社組織の内部でうまく回らなくなってきているわけです。

 こうした問題の本質は、会社という形態の問題にはありません。ヒト、カネ、知識の評価を決めていく情報の流通・管理の手法にこそ問題があるのではないかと感じています。いいかえれば、各企業の中で情報に対する「読み手の定義」ができていないということです。「制度化できない情報の流れをどう制度化するか」という点で、いまの企業は自己矛盾に陥っている。

 もう少し丁寧に解説しましょう。なぜ読み手の定義が問題なのか。モノ作りをしている大メーカーでも良く聞くんですが、社内で情報をオペレーションするためのコードが混乱している。全ての情報やアイディアは、「それってモノ作りの規格のことをいっているのか?」「営業のルールのことなのか?」「商品の値段の話?」「それとも新しいオプションを付けろという話?」「次世代の商品の企画の話?」というように解釈をされて振り分けられてしまう。逆に言えば、ある決められたフォーマットに落ちないと、組織として情報を吸収できないんですね。振り分けできない情報はサヨウナラ、となってしまうわけです。

 日本のモノ作り企業だって、新たなサービスや次世代のiTunesにつながるようなビジネスのネタになる情報は欲しい。そして、潜在的にそれに繋がる情報を持っている人は社内にもたくさんいる。それなのに、現在の経営管理と縦割りの事業部制の中では、そのネタとなる情報が受け取れないように組織が出来てしまっている。

 もっと簡単な例を出しましょう。たとえば、企業内のイントラネットでいろいろな話の過去ログを溜めたとします。または、社内で投書箱をつくってどんどん貴重な意見を溜めたとする。しかし、それをいったい誰が見るのか。それを見る権限を誰が持つか、といったときに、いまの大組織では思考が停止してしまう。「それは資源・燃料部の話なのか、電力・ガス事業部の話なのか、どこに落とすのかわからない」という話になる。現にそうなった瞬間、僕の所属する資源エネルギー庁でも、情報は止まってしまいます。その情報は営業部に行くのか? 企画に行くのか? 研究所に行くのか? いや、みんなで見られるようにすればいいじゃないか。しかしそうなると、いまの大企業・大組織では、趣味で誰でも読めるようなメーリングリストはあってもいいけれど、それはサークル活動にすぎないよね、となってしまう。それをビジネスとして制度化したときに、制度に乗ってこないわけです。

 したがって、情報の読み手をきちんと見つける文法を作らないと、大量のヒトやカネを動かす必要があるモノ作りやサービスにリンクさせることができない。大企業が面白い情報を持っていても、横に面白いことをやっている人がいても、それをビジネスにすることができない。そして非常にシンプルにいえば、富士通なりNECなり日立なりという会社にいて、面白いことをやっている社員の9割方が持っている不満として、「うちの会社ってどこを叩けば反応してくれるんだか、よくわからないんだよね」という声が聞こえてくるわけです。

現場と経営の二重構造

 このように、いまの日本の大企業・大組織は「制度化できない情報の流れをいかに制度化するか」というパラドックスを持ってしまっている。きちんと会社という枠組みの中で情報が管理できない。情報は入ってくるんだけれどもこぼれていってしまって、吸収できないという構図になっているわけです。その結果、ヒトも、カネも、ビジネスシーズも、組織として評価を間違える。

 これをソフトウェア開発モデルでいいかえれば、いままでの企業はウォーターフォール型だった。まず大計画があって小計画へと流れていき、成果物がつくられ、消費者に届く、という縦に流れるフローがあった。その中で、評価に必要な情報もしっかりと管理されていた。しかしこれからは、むしろ現場レベルで消費者を組み込むかたちでPDCAサイクルを走らせなければいけない。現場に対して、現場の情報が持つ意味をほぼ運命的に解釈できない大企業のマネジメント側は、もう細かいことに直接指示を出すことはできない。ただ、リソース管理とミッション・コントロールはする、というプログラム・マネジメントだけが経営管理側にある(図:大企業の二重構造化)。

図:大企業の二重構造化
図:大企業の二重構造化

 今後は、経営のプログラム・マネジメントと現場のプロジェクト・マネジメントの分離が必要になっているんです。経営というと、現場のプロジェクトを更にまた統括するプロジェクト・マネジメントみたいに思われる方も多いですが、実は、ある段階から、マネジメントとしてやるべきことの質がまったく変わっている。優れた大企業では、こうした経営管理の変化は、すでに起き始めていると僕は見ています。なぜEAによる全体可視化が必要なのかという話も、ここに繋がっていくんですね。

 さきほど井庭さんの「設計的コミュニケーションの連鎖」という議論を引き合いに出しましたが、むしろ経営と現場を切り離して、現場だけにして良ければ、消費者と濃密なコミュニケーションプロセスというのは案外リアルタイムで維持できる。現場レベルには、この消費者も含めたコミュニケーションの連鎖を積極的に作る能力がある。だから、現場には、自分のビジネスプロセスを自ら設計させ、その内容に経営管理側は口を出さない。しかも、その現場が組織内にヨコに動こうとすれば、経営側はそれを秩序に反するモノとして止めるのではなく、むしろ既存のタテとの調整に積極的にコミットしてあげる。このため、経営管理側は、直接各事業の管理にタッチしない。ただし、このプロセスのアウトプットの評価、ミッション・コントロールと資源配分だけはきちんと抑えるようにする。その際、仕事はタスクベースではなくミッションベースで配分すること。組織全体の動向を常に見えるように可視化しておくことの二点が非常に大切です。業務をタスクで定義したり、ヨコのビジネスが見えないような構図になっていると、ヨコ展開するときのタテの抵抗を、そもそも経営管理側で排除できなくなる。こんなことに気をつけながら、設計研第2回での言葉を使えば、「現場と経営の二重構造」としての企業組織がつくれないか、というわけです。

前半のまとめ

 それでは、これまでの議論を簡単にレビューします。縦割りを横にしていくということに対して、なにをすれば変化が起きるのか。これが問題になってきました。既存の縦の会社組織の仕組みでは対応できないほどに、横に流れる情報やストックオプションによって極めてヒトの流れが流動化し、そしてカネの流れも――村上ファンド的なものを想起していただければいいのですが――流動的になる。いまの会社は縦割りを横に増やしていく、すなわち新たな事業部を作ることはできても、それを横にぶち抜くことができない。ゴーンさんの改革あたりは、既存の大企業における数少ない実践例かもしれません。

 そういう目で見ていると、オープンソース・コミュニティのような動きはとてもうらやましいわけです。給料も払ってないのにどんどんモチベーションを持ってヒトが入ってくる。自生的に秩序も生まれてきている。ただし、それで実際に利益が上げられるかというと、まだ利益自体はあげられていない、という悩みも他方で抱えている。

 つまり、オープンソース・コミュニティからビジネスモデルを作る形で入ってくるアプローチも、大企業からその悪いところを修正しつつ入ってくるアプローチも、両方ありそうなんだけれども、その真ん中にはたしてどういう形態の組織があるのか。この点をめぐって、設計研では「ミッションが大事なんだ、可視化が大事なんだ、コミュニケーションが大事なんだ」とずっと議論してきたんだと思います。ところが、論点や問題意識はだいぶ擦り寄ってきたけれど、「でも一体、どうしようというの?」という目的意識の設定がないと、もはやこれ以上、具体的な中間モデルが描けない、そういう議論の段階に来ているというのが、設計研のいまの立ち位置なんじゃないかと思います。



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