ised議事録

11-123. 設計研第6回:村上敬亮講演(3)

題目:「縦の社会を横につなげる~なめらかな国家の『設計』を目指して~」

設計研第6回:縦の社会を横につなげる~なめらかな国家の『設計』を目指して~

2. 情報社会の設計

 ここまで設計研の議論を振り返ってきたわけですが、ここから、後半の話に移りたいと思います。

大目的の模索

 組織設計に当たって、オープンソース的な方からアプローチするのがいいのか、大企業的な方からアプローチする方がいいのかという議論は、「目的とリソース」という外的な要因がなければ、解が出せない。「具体的にどうするの」と問われた瞬間に、「オブジェクト指向の時代ですから、現場次第ですよ」で議論が終わってしまう。これはある種、10年前の社会哲学が脱構造主義の次に行けずに止まったことと同じことを産業政策でやっているような気がします。

 では、我々は、情報社会をどういう社会にしたいのか。「官僚がけしからんから市場機能万歳っ」と言っているだけで何かが生まれるわけではない。だからといって、これまでの縦割りを維持していては、前には進めない。「規制緩和」とは、文字通り規制の緩和ではあるけれども、社会的な規制を全て放棄しろと言っていたわけではない。まさにこうした縦割りをヨコに解体するための入り口論を表象していたんだと思います。ただし、いま必要なことは、ただ縦割りの秩序を壊すことではない。社会的なネットワークの解体から創造的再構築へ。そのために、タテをヨコに貫く論理を社会設計に持ち込むための活動が求められている、そういう段階に社会設計論がいるのではないかと感じています。

 では、その切り口を探してみよう、ということで命題を3つ用意しました。最初の2つはこれまでの議論の中から拾ってきたもの。最後は、今日新たに付け足すものです。

 第一に、アルチザン的非アルチザンということ。働くことが楽しいと思える環境をもう一度作り直すという話。

 第二に、企業でも、コミュニティでもない、社会的共通資本としてのプラットフォームを再構築するということ。既存の企業社会を壊す基盤を作ろうという話。

 第三に、脱物質化とか共生経済といった社会命題が立てられないか、という文明論的な話。産業経済を支えてきた「ものの品質」の論理から、情報経済を支える「プロセスへの信頼」という論理へということ。

 それでは、それぞれの説明に入っていきます。

2-1. アルチザン的非アルチザン

 アルチザン的非アルチザンというのは、設計研第2回の鈴木謙介さんの議論から引用させていただいた言葉です。レオナルド・ダ・ヴィンチの時代のアルチザンは、結局産業革命を通じて資本家と労働者に分割されてしまったという背景があります。たとえば、『ダ・ヴィンチ・コード』を読んだ方であれば、ダ・ヴィンチは宗教からモノ作りから科学理論から全部やっていて、という話はなんとなくイメージが湧くかもしれません。ところが、産業革命を通じて発明から生産までのプロセスが制度化された結果、プロテスタンティズムの倫理の下に「あなたは労働という生産手段である」とされてしまい、アルチザンは労働者とアーティストに分解されてしまった。ここではモノを通じて世界に触れる楽しみはなく、「給料を払っているんだから文句を言うな」ということで片づけられてしまう。食べていくために都市に出てきて、給与をもらって生産手段として自分を提供するようになる。産業革命の中で、都市化が進み、この分化が進む。19世紀を通じてこういう論理を現代社会は作ってきた。

 それを突き詰めると、「とにかく商品の営業目標が大事。何のために売っているか問われると実はよくわかっていないのだけれども、その営業目標の達成に自分の人生を捧げる。」、そういう現代サラリーマン悲話が生まれる。そのベースは現在も変わらず生き続けているわけです。しかしアルフィ・コーンの議論の紹介にもあったとおり、これだけ物質的豊かさが進展してくると、給与プラスアルファといったときの「プラスアルファ」の部分がだんだん重要になってくる。食べていくだけであれば、コンビニの店員でいいという人だってたくさんいる。そうなると、「労働手段としてあなたを提供することで食べていけますよ」というだけでは社会のモチベーションが維持できない。これが、プラスアルファとは何かという議論が重要になるゆえんです。

 これまで縦の組織構造においては、組織が個人に対して生産手段としてのレジティマシー(正統性)を提供するかわりに、労働者にはロイヤリティ(忠誠心)を求めて、自分の目的論に忠実に動くよう命令する。こういう社会設計をしてきました。それは、規格化された製品やサービスを画一的に生産するのに非常に適した仕組みであった。それが情報社会の横の時代になってくると、少し違ってきます。さきほども議論したように、レジティマシー(正統性)ではなく、「なぜこのプラットフォーム的な活動に参加するのか」というジャスティフィケーション(正当性)のロジックを人々は求めるようになる。そのジャスティフィケーションをくれることで、代わりに僕のモチベーション、参加へのコミットメントを返してあげますよ、というわけです。こうしたゆるやかな個人とプラットフォームの関係が必要になる。

 いいかえれば、縦割りの時代には正統性と忠誠心が対応し、横割りの時代になると正当性と参加への動機付けが対応するようになる(図:アルチザン的非アルチザンの再来?)。

図:アルチザン的非アルチザンの再来?
図:アルチザン的非アルチザンの再来?

 ここでモチベーションというとき、給与のためだけではなくて会社への貢献でもいいし、あるいは狭義の企業・会社のためというだけでなくていい。もっと広い全体への貢献が見えていて、そこに貢献することで「自分が伸びることができそうだ」、あるいは「おもしろそうだ」という職場選択基準が作られつつある。モチベーションありきでアーティファクト(人工物)を生産し、社会に貢献する。こうした意味ではアルチザンの再来です。しかし、この仕組みを、大企業の中である分解された制度に落としていかなければならないとなると、非アルチザン的枠組みを導入しなくてはいけない、ということになる。このように、アルチザン的非アルチザンのようなものを再来させる社会設計はできないか。これが情報社会を語るときのひとつの命題になるという気がします。

 それでは、先ほど問うたプラスアルファとはなにか。たとえば伽藍とバザールという議論がありますが、マイクロソフトのように企業という伽藍の中でやるのがいいのか、オープンソース・ソフトウェアのように特段個人を縛る組織論理のないバザールで楽しくやるのがいいのか、その間にまったく別のアプローチがあるのか、よくわかっていない(図:社会工学の再設計――伽藍とバザール)。

図:社会工学の再設計――伽藍とバザール
図:社会工学の再設計――伽藍とバザール

 まじめにいいかえれば、参加へのモチベーションを再設計するための組織行動学が必要だろう。しかしそれだけでは、その瞬間でのモチベーションの横の設計しかできない。そこで加えて、「この場への参加は自分の能力アップに繋がりそうだ」といった時間軸に即したタテのモチベーションの設計が必要になる。そうすると、時間軸を背負って人材育成に貢献していく、タテの組織開発工学のようなものが必要になる。この両者の組み合わせによって社会工学や経営工学を再設計しないと、アルチザン的非アルチザンが楽しく暮らせる社会・企業は見えてこないのではないか。こうした問題の糸口になるようなものを、フィールドスタディーをしながら探していけないものだろうか。このような価値を巡る議論を、情報社会の設計論に持ってこれるのではないかと思います。

2-2. プラットフォームの再構築

 二点目はプラットフォームの再構築についてです。前半の話と酷似しますが、既存の社会および既存の企業をぶち壊せ、という議論ですね。

 さて、実はさきほどから議論している横と縦という視点で見直しますと、二個の台形を合わせた図は下のように横に倒す必要があります。

図:プラットフォームの再構築
図:プラットフォームの再構築

 たとえばGoogleが世界でなぜあれだけ話題になったのかを考えてみましょう。Googleが昨年IT業界最大の話題となったのは、Googleのビジネスモデルが持つポテンシャルというのは、実はソフトウェア・OSを飛び越えて、ハードの仕様、下手をしたら部品のアーキテクチャから、遠隔医療、遠隔教育といったサービスの領域までビジネスを縛りかねないインパクトを持っているからでした。マイクロソフトが80年代から90年代にかけて大手ベンダ縦割りのコンピュータ産業にアンバンドルをもたらし市場全体にWindowsの影響を強めたのと同じことが、今度は、Googleによって、ネットサービスから電気/電子部品まで含めたIT市場全体、場合によってはITを活用したビジネス全体に起きる可能性があるというわけです。

 しかし、日本の企業はGoogleを見てなにをするかというと、より性能のいい検索エンジンづくりに躍起になってしまう。検索エンジンをつくること自体はいいことなんです。検索エンジン自体がどうやって左側の情報機器や素材といったビジネスと戦略的展開を遂げていくのかという対抗戦略を持たなければ、意味がない。早い話、ただ検索エンジンとしての性能だけをGoogleと競っても意味がないんです。

 なぜGoogleがあれほど話題になって、Microsoftも必死なって次期Windowsに同じような検索エンジンをバンドルしようとしているのか、ということを考えてみてください。これはMicrosoftがGoogleと同じドメインに存在したい、検索エンジンの性能で勝利を収めたいということではない。業種を越えたヨコのコミュニケーション競争において、より信頼の高いプロセスを勝ち取る。その視点で見たときに、Googleという競争相手が大きな脅威に映ったからです。そういう焦りがあるから、Microsoftはすぐに対抗馬を出してくる。かつてMicrosoftが、インターネットの出現にあわせてInternet Explorerを無料でWindowsにバンドルし、Netscapeを潰しにいこうとしたのと同じ論理ですね。世界はこういう横の競争をしている。なぜこんな簡単なことに気が付かないで、「もっといい検索エンジンを探せ」という競争をしているのか。ましてや、ディスプレイの50型がいい、60型がいいというのは、ひとつの重要な要素にはなるけれども、そのこと自体の品質や性能で競争していても、横の論理で戦略的に迫ってくる相手に、最終的にはビジネスモデルとしてオーバーライドされていくと思うんです。

 それをよく意識した上で、大企業のような伽藍の解体と再構築にどうアプローチをしていくのか、あるいはオープンソースのようなバザールの構築に取り組むのか。最終的にはどちらでもいいけれども、ともあれプラットフォームとしてGoogleに乗ったほうが得か、Windows Vistaに乗ったほうが得か、はたまた、別のビジネスモデルを構築して日本流の知識産業を作り上げていくのか、そこでという競争をどうするのか。そのためにこそ、横のプロセスの編集とプラットフォームの構築という戦略を持たなければ、日本の産業社会に次はない。

 それが結果として、どういうビジネスモデルや法人形態をたどろうが、モチベーションさえ強力に維持できれば、それで構わない。ICタグを使った新ビジネスとして、流通業界と製造業界とコンビニ業界がLLP(LimITed LiabilITy Partnership 有限責任事業組合)を共同でつくる、ということになろうと、遠隔医療のプラットフォームを病院向けに提供するベンチャービジネスとして株式会社形態をとろうと、やる気が維持しやすい形になれば法人形態はどうでも構わないわけです。いま流行りのN-Lモデルによって、ボランタリーなコミュニティが、遠隔医療のためのレセプトを管理する新しい仕組みを作るということでもいいと思います。

 とにかく、そういうプラットフォーム構築に早く手を付けていかないと、いまの日本の経営者が事業計画のなかで意識するような固定された縦割り市場の中での売上至上主義、シェア至上主義を続けていくのでは、いつまでたっても横のビジネスをしてくる世界の競争相手になかなか勝てない。

 どのようにこのロジックを見せれば、既存企業の経営者がこの簡単な論理をわかってくれるのか。こうした議論に対するメッセージとして、情報社会の設計論をやったら面白いのではないか。これが二点目になります。このプラットフォーム論議に関しては、経済産業省審議会で議論した「情報経済・産業ビジョン」で詳細に議論しているので、こちらも併せて参照していただきたい。

2-3. 脱物質化社会・共生基盤の構築

 最後に三点目です。横のプロセスというとき、それがGoogleだろうが、「おとりよせネット」だろうが、僕は国家公務員という中立的な立場にいるので最終的にはどれを勝たせるかには関心がない。ただし、そのアウトプットに対する分類学的な関心は持っています。どういうことか。すなわち、新しい横のプロセスの出口が、1)モノの消費に出てくるのか、2)サービスの消費に出てくるのか、3)それともオタクなゲームとしてのオークションや、オタク趣味なフィギュアの売買のような内的なゲームに出てくるのか。その三つのいずれの動きを加速化させるのかに関しては、関心があるということです。

 いいかえれば、ネットが流行ってGoogle楽天が出てきた結果、新品の自動車がどんどん売れる方向に行くのか、それとも、観光といったモノを消費しないGDP活動に出てくるのか、それとも、オタクが内側の活動を活発化させて、外から見ると「あいかわらずIT業界はよくわからないね」といわれて終わるのか。物品か、サービスか、内的ゲームか、いったいどこに出てくるのかというところに興味があるんです(図:脱物質化社会・共生基盤の構築(1))。

図:脱物質化社会・共生基盤の構築(1)
図:脱物質化社会・共生基盤の構築(1)

 個人的には、今後はもっと資源を使わない、「地球に優しい」経済活動が必要だと思う。もっとも、「地球に優しい」という言葉自体は、偽善に満ちているので個人的には嫌いですが。せっかくネットによって横のプロセスが生まれ、新しいスピードの速い競争の論理をつくって、そこで新しいものがバンバン売れるという社会ができるのでは、結局、地球を擦り減らす方向へと社会が暴走していくのはほぼ間違いありません。競争を速くし、コミュニケーションを加速化させる者の責任として、ITで社会基盤を支える人間は、極力モノに外在化しない方向で社会の設計を考えるべきではないか。こう考えるわけです。ただし、それがオタクのネットゲームや、いまのオークションのような非実用品の売買に閉じている限りでは、やはり内的なゲームにとどまってしまいます。そういうところで経済活動として閉じるから、逆にいえば僕の父親や母親、祖父や祖母世代から見ればネットは馴染みにくい。しかし、オークションではなくおとりよせネットになれば、「そんなものが買えるのであれば私もやってみよう」という話になってくる。

 本当は、おとりよせネットが内的ゲームなのか物品で外在化しているのかは微妙なところですが、それ自体は別の問題なので、ここでは置いておきます。

 情報社会がどこに出て行くのかというとき、物品に戻るとやはり近代に帰るということになる。内的ゲームでいくと、現代のように自分探しゲームのなかにゴリゴリ落ちていくのだろう。逆に、サービスに出ていけば、未来があるのかもしれません。どこに行くのかは、正直なところ僕にもよくわかりませんし、ITを離れた価値観の問題になってくるんだろうと思います。(図:脱物質化社会・共生基盤の構築(2))。

図:脱物質化社会・共生基盤の構築(2)
図:脱物質化社会・共生基盤の構築(2)


 いくつかキーワードを挙げておけば、「共感と創発」、「『いき』の構造を現代的に再発掘する」、「共生的環境の再構築によって社会を作り直す」、「資源生産性の向上を目指す」といったところになります。資源生産性とは、一部では人口に膾炙していると思いますが、資本の生産性に対するもうひとつのテーゼです。会社にとって自らの資本の生産性がどうかは常に重要な課題ですが、社会や各企業が使う資源の生産性はどこまで向上しているのか、これを新たな目安として付け加えるべきだということを意味しています。これらの問題を追求していけば、たとえばアンチ都市化のパラダイムが出てくるし、アンチ・ボードリヤール的センスから見る消費社会の21世紀的再構築といった様々な課題にも入っていくでしょう。

 この手の話は昔からあるので、キーワードだけはいくらでも並べられると思います。この中から全体の動きを糾合しやすいキーワードを掲げて、「さあみんなでこっちに行こうぜ」という社会設計論を主張することができる。これについては、縦割り打破の動きに一定の志向性とスピードを持たせるための手段として、割り切ってどれかひとつのキーワードに絞ってもいい。こうしたヨコへの指向性を支える、大きなレベルでの「正当性」を作ることが、運動論としては重要だと思います。地球環境という言葉は嘘っぽいので好きではないけれども、どうしてもみんながそれがいいというのであれば、割り切ってもいい。そのほうが結果として速いイノベーションサイクルを日本が手にすることができるし、競争を速くしてモノのスピードを速める責任として、それをブツに寄せずにサービスに寄せるということにもつながってくるのではないか。

 ともあれ少なくとも、情報社会のアウトプットはどこに出していくべきなのかという問題について、情報社会の設計論として議論しておいたほうがいいのではないか。以上が、脱物質化のための共生基盤の構築という第三点目の切り口になります。

 これをどう締めくくっていくかが、設計研のこれからに課せられた課題であると思いますが、僕の今日の話としては、以上で終わります。どうもありがとうございました。


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