ised議事録

11-124. 設計研第6回:共同討議第1部(1)

情報社会の庭師」――「自生的秩序」と環境最適化

東:

 今日で設計研も6回目を迎えました。

 設計研ではここまで、第1回は石橋さんからインターネットの設計の歴史について、第2回は八田さんからオープンソース第3回は楠さんからデファクト・スタンダード第4回は井庭さんからコラボレーション、そして第5回は近藤さんからはてな予測市場についての話をいただき、そのうえで議論してきました。そこで中心になってきたのは、ひとことで言えば、どのように組織を運営し、どのようにコミュニケーションのかたちを設計すべきか、という話題だったと思います。そのうえで今回は、村上さんから設計研の全体を振り返り、そのような新しい組織設計論を行政にいかに応用していくのか、という問題提起をいただいたわけですね。

 それでは司会の鈴木健さんにバトンタッチします。

鈴木健

 今日は経済産業省の村上さんに講演していただきました。現在村上さんは、経済産業省資源エネルギー庁総合政策課の課長補佐をされています。isedは一年ほど続いてきたわけですが、isedが始まったときには商務情報政策局の情報政策課におられて、行政の立場から情報政策の専門家としてさまざまな問題解決をされてきました。EAエンタープライズ・アーキテクチャ)や情報家電に関する政策を取りまとめ、情報家電についての経済産業省の中間報告書をブログで公開し、その上で議論をするという先進的な取り組みもなされています。

鈴木健
鈴木健
 今日の前半部分はいままでの議論をまとめていただき、それに加えて村上さんの視点から新たな提言をしていただくという構成でした。いままで私の司会力不足で、これまでの議論をちゃんとまとめてこなかったので、非常にありがたかったと思います。

 そして後半では、村上さんから3つの論点が出されました。

 一点目は、要するに働くことが楽しい社会にしようということですね。二点目はプラットフォーム論の展開でした。ただし、これが世によく言われるプラットフォーム論と違うところは、普通のプラットフォーム論はあくまで企業組織を縦に貫くためにあるけれども、村上さんはそうではなくて、組織間を横にぶち抜くための議論であるということです。いわば90度回転したプラットフォーム論という意味で新しかったのではないかと思います。三点目は、これからの産業化の出て行く先として、サービス化が起きていくのではないかということです。物品、サービス、内的ゲームのうち、どれがいいのかという問題に関して、村上さんは結論を留保されていました。しかし、村上さんはサービスをアウトプットとすることを支持されている。そのとき脱物質化、「地球に優しい」社会というヴィジョンという提案があったわけです。

 それでは討議の第1部を始めたいと思います。今日は僕と東さんから、長めのコメントをしたいと思いますが、その前に委員の皆さんから講演についての質問はありますか。

近藤:

近藤淳也
近藤淳也
 資料の26ページで、大企業においても小規模なPDCAサイクルを回す取り組みが始まっている、というご紹介がありました(図:スライド26ページ)。

図:大企業の二重構造化
図:大企業の二重構造化

 ここでの問題提起として、経営側は現場のミッション・コントロールをどう行うかとおっしゃっていましたが、そもそも企業的にはミッション・コントロールが必要なのは自明に語られていたと思うんです。それでは、左と右におけるミッション・コントロールの違いとはなんでしょうか。

村上:

 その違いは、数値目標をつくらざるを得なくなって気が付くパターンが多いようです。このスライドの例でいいますと、左側のウォータフォール的な発想を持っているうちは、数値目標とは絶対に達成しなければいけない売上目標になってしまいます。そのように数値目標を使っている企業は右側の二重構造のプロセスに移行できないんですね。

村上敬亮
村上敬亮
 英語でいえば右側のミッション・コントロールとは「アセスメント(assessment)」なのですが、これはいいかえれば「ベンチマーク(benchmark)」なんです。たとえばかつて日米通商摩擦で揉めていたときに、日本が数値目標反対といっていたときには、左側の数値目標だと思って反対していたんですよね。ところが最近、そのような数値目標に対してどう政府はいっているか。公務員の総人件費5年で5%削減というわけです。これはもちろん目標である以上、達成しなくてもいいというわけではないんですが、再来年はやっぱり3%といっているかもしれないんですよ。もしくは5%と言い切るけれども、もし達成できなかった場合にそれがなぜ達成しなかったのかをきちんと次の経営計画に反映させる。このことのためにも数値が大事だし、そうやって数字を一人歩きさせることが重要になる。これがベンチマークのポイントなんですが、個々の現場に対して「お前はああしろ、こうしろ」というよりも、「5年で5%だから」とベンチマークだけを言い放って、トップである小泉首相は政策を考えない。そのほうが結果として変化が早いという現実があるんですよ。

 そのことに気が付いてしまったプログラムマネージャーは、従来型の営業目標とアセスメントゴールとしての数値目標の違いをよく認識しないといけない。そういう形で、ミッション・コントロールのやり方が変わる。もちろんその数値目標はフィージブルでなくてはいけないし、絶対できないことをいってもいけない。加えて、そのミッションに対して、結果としてある程度達成しているようなリソースを配っておく必要がある。ですからこうした管理はとても難しいといえば難しいんです。それでも右側に移行できた企業の社長には、現場のモチベーションを高めるということと、適切なPDCAのアセスメントゴールを設定しておいて、あとは口出しをしないことが肝要である、という「気づき」があるみたいですね。

 この気づきのきっかけがどこにあるのか。それが質問のご趣旨なのかもしれませんが、正直僕もよく分かりません。ただ、いろいろな企業の事例をITの最適化という観点から聞いたのですが、ある論理で調査フォーマットに落として一回調べてみたことがあります。するとそういうかたちでの「気づき」をしている企業は、一部上場企業のなかでも大体15~7%程度です。面白かったのは、そのような企業の多くが内部告発を制度化していた。これはとても面白いなと思いました。これはまた別の話になってしまうので、止めておきますが。


鈴木:

 仕事の中身に口出しするかしないかが大きいのではないですか。

村上:

 それは必要条件として絶対に必要です。ただ、そのこと自体が目的ではないわけですね。このあたりをその人なりにどう理解するのかは難しいところです。それに、必要に応じて口を出す場合が絶対にないわけではない。

近藤:

 数値目標さえもなく勝手にやるとどうなるか、という事例はなにかあるのでしょうか。

村上:

 いまの世の中、八割方の産業活動は勝手にやっている状態だと思うんですよ。たとえば典型的なのが日本政府です。政府の行政サービスにはゴールがない。しかし、いま目の前にいるお客さんがとりあえず現状のサービスに満足するかと一生懸命聞いているわけですよ。他に選択肢がないんだからしょうがない、と。これがいまの日本政府の立っている典型的な構図です。

 近藤さんの質問は、言い換えると、「理不尽な管理による無管理、という現状をいいと思うか、悪いと思うか」という質問に置き換えることが出来そうに聞こえます。


楠:


図:メタコンテキストの設定
図:メタコンテキストの設定

 スライドの28ページに3つの大目標が出されています。ただ、ここでの大目的には二種類あると思うんです。これまでずっと議論をしてきた論点のうちから、この要素が設計の大目的として考えられるのではないか、というボトムアップ的に導かれたものがひとつ。逆にトップダウンで考えたときに、設計の目的は誰が設計するのかによって大きく変わってくると思うんです。たとえば戦後の通商産業省であれば、産業競争の問題は避けて通れないですよね。そう考えると、トップダウン式の大目的も村上さんの立場が反映されているはずだと思ったんです。

 一番目の目的であれば、経済が成熟していくなかで、いかにして働くモチベーションを再定義していくか。二番目というのは、縦割りのなかで競争力が失われているので、それをどうやって再構築してもう一度competitiveな状況にしていくか。三番目の「ものからプロセスへ」というのは、実際に産消逆転のなかでお客様がサービスを求めているなかで、モノで勝負していく限り本当に人件費の安い国に勝てるのかという問題。あるいは、一次資源のない日本という国が、どうやって付加価値をつけていくのか、それはサービスに寄ったほうが競争力を持つ可能性があるのではないか。こうした産業競争力というトップダウン式の大目的を念頭に置いて考えていらっしゃったのかな、と思ったんです。いかがですか。

村上:

 ご指摘のとおりです。今日の話も、それを模索するため、「タテをヨコにする」という命題は大目的になりうるのか、そのためにライフソリューション・サービスのようなものへと全体の意識を寄せていくのはどうだろう、その一つの試論だといっても良いです。

村上敬亮
村上敬亮
 最初に縦割り問題にどこで気がついたのかというと、Intelでしたね。最初にNECがPC98 シリーズが自社製のCPUであるV30をIntelにチップを変えた時の性能検査では、V30のほうが性能は良かったんです。しかし、やはりNECも86アーキテクチャに行った。これがある意味象徴的な出来事だったのでは何かと思うわけですが、その後、この構造が尽きつまった結果、実際には作る気のないものまでIntelが「今後つくるぞ」と叫ぶと、みんなそこはもう諦めてしまって手を出さなくなるようになってしまった。このような流れができてしまうと、いかにV30の性能を良くしようが、小さくしようが、速くしようが、もう次は見えないという構図ができてしまった。メモリーはその論理が働きにくかったのでまだ残せましたが、CPUからPCのアーキテクチャに至る部分では完璧に負けてしまった。これを見たときに、もうこれはだめだと思ったんです。縦の論理のなかで競争していても、単に金儲けの問題としてあきまへん、と。これが僕の気づきその1です。

 それから気づきその2は、オープンソースのコミュニティの方とお付き合いしていて、ないしは他の場面でもいろいろと見てきたんですが、やはりアルチザン的なものの強さに驚いたことですね。コンテンツの業界でもそうです。日本を追いかけている中国の方と話していても、彼らはこれに気が付いていると感じる。要するに、計画経済よりも、人々を楽しくやらせておいたほうが進歩は早いということです。これはさきほどの近藤さんの質問に戻ってみると、「目標は設定するけれどもそのほかはいわない」というところにも通じる。ただこのアプローチにおいても、規律や倫理を別途どうするのかという問題が別途出てくるので、それは捨象しておきます。ともあれ付加価値を生み出すスピードは、こちらのアルチザン的なメカニズムの方が速い。

鈴木:

 中国人が気付いた、というのはどういう話なんでしょうか?

村上:

 たとえば「勝手に自動車を造る」というのは、以前の中国政府にとって許せない事態だったんです。かつては、まず道路計画がある。そうすると所有させられる自動車の台数が見える。そこで計画通りに自動車を作らせる。そういう発想だった。ところが外資導入の流れと一緒に色々やらせてみると、「勝手に造らせたら、その横側でまたそれに乗せる部品を勝手に造る、その横でまた勝手に道路を造るようになる。逆にいえば、政府は道路だけを敷いておけば勝手に産業がでてくる。下手をすれば道路整備も勝手に加速化していく、こうした流れに乗せておいたほうが外貨が稼げる。」、そういう現象にあるとき気がついたんですね。同じ道路の設計計画をつくるにしても、「自動車を何台作れ」「道路はこのようにしろ」とやるよりも、決めないほうがいいということです。

鈴木:

 つまり自由主義経済でうまく回るということですね。

村上:

 そういうことです。

八田:

 村上さんの講演を聞いて、我々は結局、分野は全員違いますが同じ話を何度も何度もやってきたのだな、としみじみ思いました(笑)。これを非常に雑駁なキーワードとして理解すると、プレシジョン(precision 正確さ)からロバストネス(robustness 頑強性)という流れがあるのではないか。いままでの日本企業はプレシジョン、正確さを追求してきた。なぜここで正確という言葉を使っているのかというと、これは別にロバストネスが正確さを必要としないということではないんです。日本はある時点において決まっている正確さ、もしくはある時点においてできるだけ高みを目指す、というようなことを目指していた。しかし、これが村上さんの言葉でいえばプロセスの信頼へと移行した。ある時点ではベストではないかもしれないけれども、プロセス全体として見たとき、あるいは経時的に見たとき、ロバストなプロセスのほうを評価する。あるいは評価が高まっている、という事態が進行していると思ったんです。

八田真行
八田真行
 それがなぜかというと、おそらくここでキーになっているのは取引費用がかなり落ちている、いいかえればコミュニケーションのコストが落ちているということなんです。それが我々の議論の底流として流れているのではないのかな、という気がしました。

井庭:

 僕も「設計研は同じ話をしてきた」というのを非常に実感しています。キーワードはハイエクの「自生的秩序」*1だと思いました。たとえばさきほどの中国の話もそうですが、なにか「場をつくる」ということを僕らは議論してきたわけですね。たとえばコンピューターのOSをつくる。シミュレーションのプラットフォームをつくって、モデリングは各自がやる。企業がそれぞれ振舞えるようなアーキテクチャをつくる。オープンソースはてなもこうした場のひとつです。そういった場を設計し、その上で自生的に秩序が生まれるという構図について僕らは論じてきたわけです。社会の設計といったとき、具体的に「こうしなさい、ああしなさい」と命令する具体的設計ではなくて、「それぞれが活動できるような場をつくる」という意味での設計をしてきた。

井庭崇
井庭崇
 北大の橋本努さんがよく出す例に、庭師の話があります*2。庭師は庭を造るときに、庭のそれぞれの植木や芝の成長をコントロールすることはできない。けれども、それが育ちやすくする肥料だったり環境だったりをつくることはできる。そこで育つことを前提とした設計を行うんだ、と。しかもそこで植物が育つことに喜びを感じるのが庭師です。僕らはこの庭師のように楽しみながら、自生的秩序を育ちやすくする場やアーキテクチャプラットフォームを設計している。その意味で、僕らはそれぞれの分野における「情報社会の庭師」なんだなと改めて感じました。

東:

 意地悪な発言を挟みます。いまの井庭さんの話は、設計研の立ち位置を見事に表していると思います。そこで「庭師」という隠喩が出てきたのが徴候的です。庭師は誰かに雇われているわけです。設計の技術はもっているけれど、どういう庭を造りたいか、どんな花を咲かせたいかということは、庭師は決定しない。もちろん全部任される場合もあるでしょうけれども。

東浩紀
東浩紀
 後ほどコメントしますが、僕はこれが設計研の議論の特徴だと思っています。目的設定は他の誰かがやってくれる。誰かがポンとシーズ(種)を投げてくれる。設計研はそのうえで、その種が環境上でどう展開していくのかという環境設定の議論だけをする。

井庭:

 うーん、そこは反論したいのですが、東さんのコメントの後にしたいと思います。

近藤:

 最後に「モノ・サービス・内的ゲーム」というお話がありました。ただ、これらは境界が曖昧だと思うんです。さきほどiPodの例がありましたが、iTunesで売っているmp3ファイルはモノなのかサービスなのか。あるいは本を買うのはどちらなのか。それがpdfで読めるとどうか。これらはなにをもってサービスと線引きするのでしょうか。

村上

 ご指摘のとおり、厳密には分けられないと思います。iPodは微妙な例で、講演ではiTunesを通じてモノ売りからサービスに抜け出ている例として説明をしました。しかし、実際に儲かっているのはハードウェアの売り上げです。その意味で、まだiPodのプロセスというのは残念ながらモノに外在化していると評価すべきではないかとも思います。もちろんそのうちiTunesの売り上げのほうが上回るのでしょうし、そこでいろんな競争が起きれば、モノのほうは限界的なコストで売ることにして、できるだけコストをかけないようになっていくのではないか。そういう期待感はあります。

 たとえばお取り寄せネットの例も挙げました。これは限りなく内的なゲームにモチベーションは近いと思いますが、他方で実際にそれが田舎の実家にモノを送る、定期的に毎年親に何かを送るといったかたちで習慣化してくれば、やはりモノに外在化する世界として評価できると思います。この3つの区別は一定の志向性程度の問題として理解するしかないのかもしれません。ただ志向性の問題として、できるだけ狭い家のなかにモノを溜め込んで消費をするよりは、綺麗な風景を見に行ったり自分のスキルを磨く研修の機会がたくさんあったり、電子図書館で本を読んだりするといった方向で、人の生活をつくり、経済も回るようになればと思うんです。いまはiPodiTunesもモノの経済に過ぎませんが、少なくともそうした方向に情報社会の設計を引っ張っていく。そういう意味でのサービスの外在化について議論するのは意味があると思います。



*1:註:自生的秩序(spontaneous order)とは、経済学者フリードリヒ・A・ハイエク(1899-1992)の秩序概念。多数の人々の行為によって生み出されつつも、人間の意図や設計によって操作されるわけではなく創発する秩序のこと。「自然」でも「人工物」でもない中間的なもの、特に市場の性格を説明する際に用いられる。ハイエクは代表作『隷属への道』に見られるように、マルクス主義やケインズ主義といった経済学理論を批判する。それらは、理性によって秩序をコントロールできると考える「設計主義(constructivism)」であって、市場が自生的秩序であることを理解していないと批判する。このハイエクの自生的秩序の概念は、創発概念や複雑性概念とひきつけて理解されることも多い。

*2:註:橋本努「ポスト近代社会の進化論:社会の発展は自生化主義で見よ」(『理論戦線』no.80、2005 Summer、pp.124-145.)以下引用する。:『同時に、自生化主義の庭師は、土壌のもつ肥沃な可能性を高めたり、そこに生息する生命の適応度を高めたりすることに、関心をもつだろう。土壌の肥沃さは、潜在的に生成しうる生命の多様性を象徴する。また生命の適応度は、生命が多様な環境に適応するために、潜在的な変異の数を殖やすことであり、これは変異の多様性を意味する。そしていずれの多様性も、生命が「他でありえた可能性」において価値をもつということ、言いかえればデュナミスの美徳をもつことを表している。自生化主義の庭師は、「デュナミスの滋養」を企てる点において、たんなる「神の見えざる手」の信奉者とは区別される。庭師は社会のよき教育者であり、進化を条件づける起業者なのである。』

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