ised議事録

11-125. 設計研第6回:共同討議第1部(2)

「内的なコミュニケーション・ゲーム」を回転させ、インフラビジネスを維持するという二層構造

東:

 いまのお話なんですが、経済的な指標としてはともあれ、内的なゲームかどうかは区別できると直感的に思うんです。僕はオタク的なものに対して好意的な人間ですが、こんな話には懐疑的です。たとえばコミックマーケットでは数万のブースがあって、みんなが数万を売り上げる。そこだけ見ると、数億、数十億という金が動いていることになる。そういうわけで最近「アキバ」系が経済紙を賑わしているわけですが、僕から見ると、オタクたちは同人誌を売って得たお金をかなり同人誌で使っちゃってるんです(笑)。オタク市場では売り手と買い手、生産者と消費者の距離がきわめて近い。それは、オタク市場の内側でかなりのお金が回っていることを意味します。それでは誰が儲けているのか。間違いなく言えるのは印刷所です。つまり、紙を刷っているところにお金が落ちている。記号消費の経済はぐるぐる回転しているだけで、それを支えるインフラに金が落ちているわけですよ。

 iTunesの話もそれに似ている。こういう話もできます。Winnyの普及で儲かったのは実はハードディスク・メーカーである。数ギガバイトのハードディスクがボンボン飛ぶように売れているのは、明らかにWinnyのせいです。コミュニケーションの層では豊かな経済が回っているように見えるけれども、実は内部でぐるぐるやり取りしているだけで、本当に金が落ちる先はモノをつくるハードウェアです。これはITに限らず、結構以前からある問題じゃないかと思うんですよ。

 ゲームの内部で閉じる経済と外側にある程度お金が流れていく経済を、なにか指標をつくって区別できないか。そうすれば、インターネットやPCの革命が、実は閉じた経済しか作り出していないと言えるのかもしれない。経済学の専門の方に教えていただきたい話ですね。

鈴木:

鈴木健
鈴木健
 ただ貿易をしていない限り、あらゆる経済圏は内部で閉じるんです。だからそれは規模の問題ではないか。

東:

 僕の言葉の使い方がよくないのかもしれません。僕がイメージしているのは、同じタイプのモノがぐるぐる回っているような感じです。国民経済が閉じているといっても、靴を作る人が野菜を買い、野菜を作るひとは不動産を買うように、つねに別のタイプの財と取引が成立しているわけです。そうではなくて、みんなが靴を作ってそれを売った金で靴を買うイメージというか。ブログとかの増殖を見ていると、靴ばかり増えていく経済が成立している感じがする。

鈴木:

 それはコミケのマーケットに非対称性があるかどうかですね。買ってばかりの人が多いと、その人は借金するわけですからどこかでアルバイトしなくてはいけない。つまり、買ってばかりの人はお金を外から持ってきているわけです。そして売ってばかりの人、つまり儲かる人もいる。こういう非対称性が市場の内部にあれば、実は外部からの現金の輸入と外部への流出は起きている。そうではなくて、非対称性なく、ほぼフラットに取引をしているとすれば、それはその市場の内部で本当にぐるぐるお金を回しているだけになる。いいかえれば貧富の差があるかどうかが重要なんです。

近藤:

近藤淳也
近藤淳也
 講演を聞いて思ったのは、物自体にプラスして何の値段が付いているんでしょう。たとえば水とプラスチック容器のモノとしての純粋な値段があって、それよりも大きい値段がついていればサービス的なものになるということなのか。

村上:

 微妙な例としてあるのが、かつてのプレイステーションのビジネスモデルです。プレステのハード本体は、世に言われているところでは利益の出ない値段で売られている。その分ソフトを売るわけです。しかもソフトはかつて任天堂が8千円から1万円で売っていたのに対し、最初から5千円前後と決めた。そしてプレステが立ち上がったとき、コマーシャル戦略を組みつつ「ファイナル・ファンタジー」を出し、その後も「みんなのゴルフ」などを出し、消費者はあの空間を消費させてくれる記号としてプレステの側についていった。もちろん「ソフトだってモノじゃないか」という話もあるかもしれないですが、ゲームをする時間を売りに行ったという意味ではサービス志向だったわけですよ。ところがプレステ2からプレステ3へ移ってなにが起きたのかというと、機械としての性能の方向へ向かってしまったんです。モノを売りながらも限りなくサービス志向に近い売り方をしていたときのプレイステーションと、それがもう一度モノ自慢に戻ったプレイステーション3というケースも、一つの志向性の違いの問題として見えてくるのではないかと思います。結果として、それが値段に反映されてくる場合ももちろんあると思いますけれど。

東:

 しかし、サービスが求められるという話には懐疑がある。さきほどコミケの話をしましたが、もしコミケを印刷所が仕掛けていたらと考えてみましょう。これは竹熊健太郎氏が指摘していたことですが、コミックマーケットはオフセット印刷機が安く使えるようになった1970年代に出てきた*1。したがって、ハードウェアの進化と密接な関係がある。そこで、もし1970年代のはじめに町の印刷業者が会議を開いて、「ここらへんで一発自費出版の祭りを演出すると、みんな自分で本をつくることの喜びに目覚めるかもしれない。そうするとわれわれ儲かるんじゃないか」と結論を出して、コミケを仕掛けていたとしたらどうか。仮にこう歴史を読み替えてみると、新しいサービスが生まれてきた、だから万歳ともいえない。繰り返し言いますが、人々の欲望は簡単に捏造可能なのです。そのことに自覚的でないと、議論が現状肯定にしかならないと思う。

鈴木:

 でもそれは普通の話ですよ。ネットオークションだってそうです。そもそもビジネスモデルをつくる、マーケットをつくるというのはそういうことでしょう。事業者はそれを設計しているわけで、ビジネスに関わっていれば出てこざるを得ない議論です。

東:

 それはそうですけど、それでいいんですか。内部で循環するマーケットを一回立ち上げてしまえば、そのインフラというか、プラットフォームを運営する企業には莫大な利益が転がり込んでくる。だから新しいマーケットを作るのが重要だ。それはいいけど、そんな話だけして面白いんでしょうか。

鈴木:

 それは究極の議論で、「そもそも外部は存在するのか」という話になってしまう。外部目的や大きな物語があるのか、という話でしょう。

八田:

 こういうことですかね。たとえば印刷所がまったく存在しない世界があったとして、そこで我々はコミケの話をしている。コミケをつくって同人誌を一杯売れるといいよね、という話をしている。しかしそれは話しているだけでは実際に印刷できないのであって、ビジネスとしては実現しないよね、と。

東:

 いや、そうではないんですよ。ビジネスとしては立ち上がるのはいい。ただ、その上に乗っかっているのはどういうタイプの市場なのか。僕は経済学や経営学の用語を知らないので、うまくいえないのですが。

村上:

 こうですか。結果としてブツが売れているってところに文句をいう気はない。ただサービスとしての発展性が見込めないものに投資をしても、しょうがないだろう、と。

鈴木:

 あるいは、コミケから発生したものがコミケ以外で売れればいい、という話ですか?

東:

 実際のコミックマーケットはそういう効果をあるていど持っているので、相対的な問題ですね。

 以前こういう議論をしました*2繋がりの社会性というニーズを惹起すれば、ブログやSNSのユーザー数は伸びる。人々はそれを求めているといえば求めている。しかし、つい十数年前までは誰もそんなものは求めていなかった。ここでは新しい欲望がつくられている。もちろん日記を書いて繋がるのは豊かなことかもしれない。それに意義を唱えるつもりはない。ただ、コミケでもSNSでも、そういった飽和したコミュニケーションの場を立ち上げることで新しい経済循環が生まれる、というのはどうも未来がない気がしてしかたがない。これをいったいどこまでやり続ける気なのか。単純に疑問なんです。

鈴木:

 それは市場主義が導入されて以来、ずっと言われ続けてきたことですよね。

東:

 そこまで抽象化する必要もないんじゃないですか。

 村上さんが「内的なゲーム」とおっしゃったのは、いまのような話だと僕は理解したんですね。内的なゲームを発展させればITビジネスは生き残っていけるかもしれないが、内的なゲームの市場ばかり増やしても先が見えないのではないか。

鈴木:

 むしろ内的ゲームを増やしたほうが環境にやさしいのであって、僕はそれでいいのではないかと思いますが。

井庭:

 コミケで漫画をつくって売り、それを読んでそれぞれ楽しんでいる。このサイクルそれ自体は問題ないのではないですか。経済的には意味はないにせよ、経済システムの外部にはなにかしらあるわけです。もしもの話ですが、まったく同じ漫画を貨幣と交換してグルグル回っているのなら、それはおかしな話です。しかしそこで取引されている具体物、モノやサービスが違うからこそ、同じ貨幣で交換する意味が出てくる。それによって新しい創作を行う、創作物を享受するということが生まれているのであって、それがうまく回って価値があるならいいと思います。

鈴木:

鈴木健
鈴木健
 いま東さんが指摘したことは、非常に社会学的な分析ですね。宇宙人が地球という経済空間を見たとき、「いったいこいつらはなにをやっているのだ」という話なんですよ(笑)。単にぐるぐる回っているだけじゃないかという話は、コミケの例題に当てはめることもできるし、このisedの7人でなにを議論しているんだという議論にもできる。地球人全体にも適用できる。これは分析手法をどこに当てはめるかという問題なんですね。

 むしろ宇宙人の視点から価値というものを見てしまうのではなくて、内側で主体的に「価値がある」と思い込んでいればいいわけです。それ以上のことを言いうるのか。言えるというのが「大きな物語」ということですよね。大きな物語とは、価値というものはあって、みんながそれを持たないといけないという話であって、東さんはむしろその存在を否定する立場ではないですか。

東:

 まあ、そのとおりなんですが(笑)。うーん。

鈴木:

 それでは、僕のコメントのほうに移りたいと思います。



*1:註:コミケの発足は1975年だが、70年代に簡易オフセット印刷が普及を始めた。それまで個人が利用できる安価な印刷技術として、いわゆるガリ版が主流であったが、これは図版を載せることが困難であった。竹熊健太郎はこのコミケと印刷技術革新の関係について『見る阿呆の一生』(TINAMIX Vol. 2.10, http://www.tinami.com/x/takekuma/06/, 公開終了。)で指摘している。

*2:註:設計研第3回: 共同討議 第2部(2): 「繋がりの社会性」の全面化――消費社会の末期的段階としての情報社会

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