ised議事録

11-127. 設計研第6回:共同討議第1部(4)

サービス化、経験経済、洗脳社会?

井庭:

 ここでサービス化というのは、いわゆる「財とサービス」というときのサービスよりも広い意味になっていますよね。鈴木さんがいうサービスというのは、モノを売ったときに付随する体験も含めた、新しい意味になっている。体験とサービスを同一視すれば、モノを買っても体験を買うことを意味するので、それはサービスになってしまう。人が出てくると、モノを消費するにしてもそれを享受する体験が生まれてくるわけです。最近ですと「経験経済(experience economy)」*1という話がマーケティングの議論でもありますが、ここでの「サービス(=体験)」という概念は、いわゆる財とサービスという区別とはまた違う意味で使っている、という認識でしょうか。

鈴木:

 モノとサービスというとき、ふたつのレベルで考える必要があると思います。すなわちユーザーが実際に何を買っているのかと、何でお金を払わせているのかという二種類のレイヤーがあって、それがズレているということだと思うんですよ。いわゆる経済学での財とサービスというのは、後者の何によってお金を払わせているのかという話なんですね。そこでユーザーが実際に何を享受しているのかは、また別の話になる。

井庭:

井庭崇
井庭崇
 そしてこれは感想ですが、モノを買うとき、そこでは売り手と買い手の切り離しが行われますね。それに対して、レンタルの服飾屋や雑貨屋はずっと関係が続くわけです。伝播投資貨幣PICSYも含めて、鈴木さんは非常に粘着性の強い社会を望んでいるんだなということがよく分かりました(笑)。

鈴木

 まさしくそのとおりです(笑)。

東:

 僕はひとりの消費者としては鈴木さんの提案に大賛成です。

東浩紀
東浩紀
 そのうえで言いますけど、やはりおおきな疑問がある。価値を消費者のサービスや体験に還元するというのは、要はモノの価値は「消費者の気持ちの持ちよう」だという話ですね。たとえば「この壺を俺は10万円で買いたいんだ」と思って10万円を払ったら、払った時点でその人はたしかに10万円の体験をしたんだという話になる。これは自己言及的というか自己撞着的な話です。この論理では、消費者が騙されているという状態が定義上ありえなくなる。でもそれでいいのか。たとえば悪徳商法はどうか。鈴木さんの論理で行くと、悪徳商法がまずいのは払った人が後で後悔するからまずいだけであって、あとで後悔させないようにうまく練られた悪徳商法であればむしろいいということになる。たとえば、原価5000円の布団を50万円で売ったとしても、それで本人が「俺は50万円の布団に寝ているんだ」といって満足して寝ているのであれば、全然それは問題ないという話になってしまう。

鈴木:

 悪徳商法はどういうロジックで罰しているんですかね?

 それは僕も知らない。ただ、いくら僕たちが記号的で仮想的な消費社会に生きていると言っても、「モノを売る」という形式によって働いているチェック機能は断固としてあると思うんです。

鈴木:

 モノだと生産コストが有限なので、化粧品は合法でも悪徳商法は違法だ、というよく分からないロジックが成立するわけじゃないですか。情報財となって生産コストがゼロに近づいたとき、悪徳商法ってなに? という話になってしまう。

東:

 そうすると定義上悪徳商法はなくなる。しかし、それでは、かつて岡田斗司夫が書いたような「洗脳社会」論になる*2

鈴木:

 そうそう。

東:

 そうそうって、それはまずいでしょう(笑)。原価が安いものでも、購買そのもので1万円なり10万円なりの経験を得たと本人に思い込ませればいいんだ、という話が蔓延すれば、これは問題ですよ。「財からサービスへ」の移行が済んだあとは、今度は「それぞれの消費者にどうやって欲望させるか」という、まったく異なるレイヤーの闘いが起きるだけです。

鈴木:

 東さんはなにを恐れているんですか? みんな洗脳されているんですよ。東さんも洗脳されている。

東:

 うーん。

東浩紀
東浩紀
 正直に言いますとね、この設計研にずっと出ていて思っていることとして、ここの委員のみなさんは大変健康的な人たちではないかと思っているんですよ。人は本当にくだらないものにお金を使いたいと思ってしまうもので、その恐ろしさを皆さんは体感されていないのではないか。

鈴木:

 それは懐疑精神があるのか、という問題ですか。

東:

 違います。懐疑精神の問題ではない。体感の問題だと思う。これは僕がオタク的なことに関わっていることに起因するんだと思うだけど、僕は、オタクたちがどれほど騙されやすく、どれだけくだらないことに時間とお金を消費するかということを、肌で感じているんですよ。彼らを騙そうと思ったらいくらでも騙せる。そして、それに開き直るのがリアリストだとも思わない。

鈴木:

 たとえば僕もこの研究会にものすごい労力をかけていますが、この対価は何だろうということを考えると、ものすごく騙されている気がするんですが(笑)。

東:

 うーん、それはぜんぜん違うレベルの話だと思いますね。やはり分かられていない気がする……。

 別に例はオタクじゃなくてもいい。ある意味、いまやあらゆる消費者がオタク化しているわけです。サービス化が進むということは、欲望のインストール競争へのチェック機能をなくしてしまうことを意味する。ユーザーがお金を払っているということはその分サービスを買っているのだから問題ないでしょう、という倫理観が蔓延することになる。これは僕は疑問に思いますよ。

鈴木:

 でもその議論は結構ナイーブな議論だと思いますよ。

八田:

 確認していいですか。いま東さんが問題にしているのは消費者が満足している場合ですよね。満足していなければ問題ない、と?

東:

 そうです。満足している場合です。満足していなければ、普通に係争が起きるので問題ない。

 たとえば宗教という巨大な商売があるじゃないですか。カルトの信者の場合、出家するとき三千万円の家を売ることが幸せだったりするわけです。そういうひとをどうやって引き戻すのか。これは家族にとっては切実で、オウム真理教の例を出すまでもなく、現代社会全体で重要な問題ですよね。ところが鈴木さんの視点だと、「三千万円分の体験を買っているんだからいいのではないか」という話になってしまう。しかし、それは極端な議論でしかないですよ。

村上:

 半分東さんに賛成で、半分鈴木さんに賛成なんです。

村上敬亮
村上敬亮
 東さんの議論は突き詰めていくと、マーケットの競争のなかで時間のクオリティは正しく選択されるのか、という話になると思います。しかしどうも現状を見ていると、どうもそうは見えないという状況がある。それなのにサービス化へアクセルを踏んでしまって本当に大丈夫なのか。そう東さんは危惧されているように聞こえたんですね。

 それから鈴木さんの意見を積極的に支持する側からいうと、原体験にあるのは既存の経済学の枠組みが実態に合っていないという問題があると思う。マーケットでなぜ値段が決まるのかということを議論するとき、基本的にかかっているコストと量の問題で決まるという経済学の議論は、もう現実を説明できていない。原価では説明できない化粧品の対価について、なんらかの説明できる論理がいる。かつての制度学派がそうだったのかもしれませんが、その論理を見せてやらないと、コストをかけてディスプレイをいくらで出せばいいかという馬鹿みたいな競争から抜け出るきっかけがつかめない可能性がある。


東:

 情報財の価格決定について、数値的なモデリングは進んでいるのかもしれない。ただ僕が繰り返しているのは、消費社会論としてずっと議論されてきたことでもあるんです。人はモノではなく記号を買っているというのは延々といわれてきた。そこでの危うさというのは、さきほどからいうようにカルト的な問題です。モノから遊離したことで欲望が駆動されるのならば、その欲望を上手い具合にコントロールした人が勝つという話にしかならない。そうなると、広告を雨あられのごとく大量に流して、とりあえず買わせれば勝ちなのか。あるいはカルトに囲い込めば勝ちなのか。そんなんでいいのか。これは議論すべきことです*3

井庭:

 しかも現代はそういうことになっている。

東:

 なっています。そして鈴木さんは、その状況に対して「人間はこういう方向に行くんだ! それでいいんだ!」と主張されているわけです(笑)。それでいいのでしょうか。これはあたりまえの疑問です。常識的だと言っていい。もしそれが変な風に聞こえるとすれば、それはむしろ設計研の偏向を示していると思う。

鈴木:

 僕も最後に懐疑を出してはいるのですが、その辺は結構センシティブなところなんです。

東:

 サービス一元主義になると、「自分はこの壺を10万円で買ったんだから、10万円の体験をしています」という人に対して、「お前は騙されている」ということができない。むしろ、「いや騙されていない、最新の経済理論によるとですね……」と訳の分からない物言いになる(笑)。

鈴木:

 それに対しては、三千万円の壺をいきなり買わせてしまうよりかは、レンタルさせるほうが被害は少ないわけです(笑)。

東:

 そういうビジネスモデルの提案で来たか!(笑)

鈴木:

 物欲を喚起させるシステムというのは、実際には衝動買いシステムです。経済心理学の世界でもいろいろな実験があって、たとえば最初にモノを買いに行こうと思ってそのお店に入ると、実際に買ったものはかなり違うということが分かっている。つまりディスプレイの仕方やポップ広告などあらゆる手段を使って、その場で体験をさせているわけです。コンビニのレジの前でついお菓子を買ってしまうのが一例ですね。一回その場所に入ったら、その消費時間のなかでなんとか消費させようとしている。それに比べたら、僕はサービス化しているほうが健全なんじゃないかという気がするんですよ。

東:

 人間は消費する動物に過ぎないのであって、うまい具合に動物的に動線を工夫してやればいくらでもお金を落とす、という話ですね。それはそうでしょう。

 しかし、僕が問題にしているのは、一方では動物的なコントロールで金を落とさせながら、他方では「最終的にはあなたが選んだでしょ」というロジックも並行してあるところです。実際には動物的な管理をしつつ、仮に損をしたとしても「それはお前が人間的に選択したからでしょ」という二枚舌を使っている*4

 その結果、いまの社会は、バカな消費者が高い壺を買わされてすごく後悔しても、「お前はもともと選択する能力がなかったんだから買い戻してあげるよ」というふうには対応しないことになっている。「お前が選んでそれを3千万で購入したのだから、責任はお前がとりなさい」というふうな原則になっている。でも実際には、消費者が動物であることをみな知っているわけじゃない? こういう僕たちだって動物ですよ。だとすれば、やはり何らかのチェック機能が働かないとまずいんじゃないですかね。私たちの社会は、すべてが動物性で満たされて安定するようになっていないのだから。

楠:

 ただ悪徳商法が問題なのは、あとで気が付いて紛争が起こるから問題なんですよね。なにが言いたいのかというと、設計と倫理で分けないと思っているんです。この研究会もそうですが、設計にどこまで倫理を組み込むべきかという議論は非常に難しい。価値中立的な仕組みのなかで紛争が起こった場合、その処理のルールをどうするかはひょっとしたら設計の話なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。たとえば『プロ倫(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)』の議論にしても、実は設計の背景に倫理によって駆動されてきた社会的な関係性がある、という議論もできるのかもしれない。

東:

 設計と倫理の話を切り離すのはいい。しかし、繰り返しますが、僕が設計研の議論で気になるのは二重の論理です。一方に、人間=消費者は動物だという認識がある。人はすぐ騙されて、ポップ広告が一杯あってとりあえず店においておけばお金を落とすよね、という酷薄な現実がある。みなさんはその現実を知っているから、コミュニケーションを支援する技術的環境を設計するわけです。SNSなんてその最もたるものじゃないですか。繋がりを求める動物どもの楽園でしょう。

 ところが他方には、人間を人間的とみなす認識がある。みなさんはしばしば、「これを消費者は望んでいますから」という言い方をされる。そのふたつのロジックが混ざっているところが僕は気になる。もし人間が人間であれば、環境がどうだろうときちんと仕事するし、コミュニケーションもとります。情報技術が可能にするのは、人間が動物であったとしても、いつのまにかコミュニケーションがとれているような環境ですね。だとすれば僕としては、むしろ、みなさんが人間は動物にすぎないと断固として主張してくれたほうが分かりやすい。

 

井庭:

井庭崇
井庭崇
 ちょっと議論がよく分からくて、最初の僕の指摘に戻って、サービスと体験を分けて議論しませんか。つまりサービスというのはサーブするということであって、売り手側がなにか奉仕するというかたちですよね。それはモノを勝手に体験しているという話とは違うわけです。そこがサービスと財を分けるところだと思うんですよ。

鈴木:

 するとウェブサービスはサービスじゃないということですか。あれは機械がサーブするのであって、人間は奉仕しない。となると自動販売機はサービスではない。自動化されているから。

村上:

 鈴木さんは、ロボットのように自動化されたものをどう捉えるんですか?

鈴木:

 僕は人間じゃなくてもサービスだと思います。

 井庭さんの論点は妥当ですね。もしサービスがすべて人間の奉仕に基づくのであるとすれば、サービスはサーブする側の労働ということになるので、帰着点を見つけることができる。つまり、サービスの質=受け手の思いこみ次第という洗脳問題は起きない。

楠:

 でも価格は市場が本来解決するものですよね。

八田:

 あるいは公的機関が介入するのはありうる。クーリングオフのような制度を充実させて、サービスの場合は7日間じゃなくて3ヶ月払い戻しの期間を延ばすといったように、制度的にいじることで何とでもなるような気がします。

井庭:

 ただそれにしても、サービス化ということを鈴木くんがどういう意味で使っているのか、いまいち掴めない感じがします。そこが東さんも気になっているところでもあると思うのですが。

鈴木

 いや、サービスとは所有権が移転しないということですよ。

楠:

 ただ、鈴木さんの出された例としてウェブサービスWeb 2.0の話がありました。いまその話題を口にしている人たちは、コンピューターがサービスとして提供されるのが新しいという勘違いをしているかもしれませんが、かつてコンピューターはサービスでしか買えなかったんですよね。70年ごろに独禁法によってソフトとハードの分離がなされて、初めてコンピューターはサービスとしてではなく、モノとして所有できるようになった。大企業や一部の人たちを除いて本当に個人の手に入るようになったのは、マイクロプロセッサを真似て、いわゆるPCが生まれた70年代前半以降の話なんです。世界初のPCだったアルテア向けに、ビル・ゲイツBASICをつくり、その彼がいまサービスと言っているのはたしかに面白いところです。

楠正憲
楠正憲
 しかし、そもそも所有からサービスに移っているというかたちでトレンドを理解するのは、あまりよくないのではないかと思います。それはあくまで所有することによる自由度や効用やコストといったものが、所有しない場合と天秤にかかっているだけではないか。もちろんいまは所有しないことによって、よりよいエクスペリエンスが得られる領域がイノベーションのなかでたくさん生まれている。そこに対してMicrosoftもこれからどうキャッチアップするか議論をしていますが、なんでもかんでもサービスになるという理解ではないですね。

鈴木:

 たしかにMicrosoftはそうかもしれないんですが、最近のリリースの仕方とかを見ているとGoogleは明らかにサービス志向に入っている気がします。限りなくメインフレームの時代に近づいているのではないか。

楠:

 それは彼らのビジネスモデルというか、自分たちをどうセグメント化するかというビジネス・ストラテジーの問題ですよね。結局人にモノを売るということは、コンピューターの世界ではサポートをしないといけないので、むしろお金がかかるんですよ。Microsoftもパソコン向けのソフトを売っているあいだはパソコン屋さんと商売していればよかったけれども、企業向けにデータベースやミドルウェアを売るようになった途端、大量の人員をいっぱい抱えて個別の問題をクリアーしなくてはいけなくなった。Googleのように、少ない数の大変優秀な人材を集めて、世界中に対してサービスを提供するというふうなやり方であれば、これはモノを売るよりサービスを売ったほうがいいわけです。

村上:

 趣旨を確認したいので一点だけ事実確認をしたい。たとえば、生活家具をリースやレンタルをしているビジネスでも、実は同じ商品の使い回しはしていなくて、一回戻ってくるたびにすべて新品にしている場合もありますね。確かに所有権は移転していないけれども、貸したものは全部一回ごとに捨てて、また新しいもの買ってというふうに。これはサービス化を支持する立場からすると、是とすべきか非とすべきなのでしょうか。サービス業者やレンタル業者が、毎回貸して返ってきたら産業廃棄物にしてしまう。そして新しい人が借りるたびにまた新しいものを買ってくる。これは物質的なサイクルとしては変わっていないけれども、ビジネスの志向性としては、サービスの方に変わっているわけです。境界線をどこにおいてサービス化を是としているのでしょう。

鈴木:

 レストランだとあまり変わっていない気がしますね。ただ、自分の家で食事をつくればゴミが出るけれども、レストランでつくるとゴミが出にくいという話はあるかもしれない。大量につくるので予測ができて、冷蔵庫を捨てなくて済むので中食産業が発達し、価格が下げられる、と。



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