ised議事録

11-129. 設計研第6回:共同討議第2部(1)

智の再配分固有名帰責性、「民主主義 2.0」――東浩紀からの応答

鈴木:

 前半はサービス化の話で盛り上がったのですが、後半は最適化の話を一度しっかり議論しておきたいと思っているんですね。このあと東さんが指摘するかもしれませんが、設計研の議論は結局いつも最適化の話になる。部分最適にせよ全体最適にせよ、「最適」という概念が入ってくるわけです*1

鈴木健
鈴木健
 さきほども触れましたが、最適化はすでに価値の軸は決まっている。決まった価値軸のなかで、生産性の拡大なりビジネスがうまくいくことなりが論じられる。しかし僕のなかでは――僕もよく最適化や生産性を向上させるといった言葉を使うのですが――むしろ逆です。「こういう社会にしたほうがよいのではないか」という価値がまずある。

 もちろん価値をいうだけでは誰にも相手にされませんし、いうだけでそれが実際に実現するとも思えない。それでは規律訓練型権力になってしまう。そうではなくて、ちゃんとシステムに組み込むことで社会がそうなるようにする必要がある。そこでどうしても最適化というものが必要になってくるわけです。僕はそのような考えで生きているのですが、みなさんはどうでしょうか、ということで議論したいと思います。

 その前に、東さんからコメントがあります。よろしくお願い致します。

東:

 ディレクターとして設計研の議論を聞いてきて、気にかかることがあります。それは設計研は実は、「情報社会の設計」ではなく、情報技術を使った「組織の設計」について議論しているだけではないか、という疑問です。いいかえれば、目的の設定と組織の運営を分離したうえで、組織運営を最適化するための方法を議論しているだけではないか。では目的の設定はどうかというと、「それは市場が用意してくれる」という議論になる。しかしそれは本当だろうか。僕はいままでこの疑問を何度も提示してきました*2。ここでもそれを繰り返します。

 具体的な例を出します。設計研第1回で、「オープンソース・コミュニティはどのようなソフトウェアをつくるのですか」と尋ねたとき、八田さんから「プロプライエタリなソフトウェアの置き換えで力を発揮する」という答えが返ってきた。僕はそれが象徴的だと思う。オープンソースにおいて、新しいソフトウェアは実は外部からやってきた。たとえばWordのようなものをつくりたい。PowerePointのようなものをつくりたい。もしくはUNIXのようなものをつくりたい。何にせよ外部から目的がやってきて、そこに向かって人が集まるときに、オープンという理念が力を発揮する。

 では目的の設定はどうなっているのか。この点について僕は何度か質問してきたと思うのですが、あまりいい答えはいただけなかった。第3回でも、「mixiのような繋がりの欲望はどこから来るんですか」と聞いたときに、「もともと消費者は持っていたのではないですか」という答えが返された。これは僕には疑問です。そして、このような問題設定のままでは、社会全体の設計というところまで議論が進んでいかないのではないか。そういう思いがディレクターとしてあります。

 ではどんな話をすればいいか。ひとつこんな提案があります。「富のゲーム」と「智のゲーム」という公文氏の議論があります*3。公文氏の考えでは、社会の原動力は、情報社会では富の配分から智の配分へと移るわけです。しかし僕はすこし違う考え方をもっています。長期的にはそうなるのかもしれませんが、実際にいま起きているのは富の配分と智の配分の乖離です。簡単なイメージはこうです。昔であれば、Encyclopedia Britannicaを全巻揃えるのは大変な金持ちしかできなかった。いまやオンラインサービスを年間6000円くらいで登録できる。もっと普通の例でもいい。昔であれば映画をたくさん観るには映画館に通い詰めなくてはなりませんでしたが、いまではレンタルビデオがある。あるいはWinnyがある。まったく金銭的余裕がなくても、いくらでも智が蓄えられるような社会になったわけです。

 こうした結果、金もない、職業もないフリーターが、実はすごく物知りでいろいろなことを考えていたりする、そういう社会になった(この点で最近の階層化社会論には補うべき点があります)。他方、一線で活躍しているビジネスマンは本を読む時間がないし、映画を見に行く時間もないわけです。実はあまり智を持っていなかったりする。つまり、富の配分と智の配分が乖離しているわけです。なぜこうなったのか。答えは簡単です。かつて富の配分と智の配分が連動していたのは、情報財のコストが高かったからです。情報技術革命は情報財の再生産コストが極限まで下げた。それを我々は言祝いでいる。しかしその結果、富の配分と智の配分は必然的に乖離します。ではどうするのか。

 智の配分については設計研の中で議論されてきました。放っておけばスケールフリーネットワーク(Scale Free Network)*4さながらに集中化するので、最配分のシステムを考えねばならないという問題です。

 他方、近代社会では富の配分が重要な問題として議論されてきました。いままでも何度か名前が出てきましたが、ロールズは『正義論』で「格差原理」という原則を提案しています*5。これはひとことで言えば、一番貧しい人間が多少金持ちになるのなら、一番豊かな人間がさらに金持ちになってもよいだろう、という基準です。つまり、みなが平等になるのは実現不可能だろう、しかしすごく貧しい人がすこしでも儲かるのであれば、大金持ちがたくさん儲かってもいい、という発想です。この考え方は智の配分に対しても適用可能です。すなわち、「智力」がもっとも少ない人(これは知能という意味ではなく、公文氏の議論における「智」の力という意味です)が多少その智力を伸ばせるのであれば、智力の集まっている人にますます情報が集まってもいい、という考え方です。これはカンですが、僕はどうも、オープンソースとかオープン・プラットフォームとかの話を聞いていると、この格差原理を思い出します。つまり、ロールズ的な思想はいまや情報技術的な洗練を遂げて実装されつつあるのかもしれません。ノージック的なリバタリアニズムだけではなく、一部ではロールズ的な知の再配分も起きていると言えなくはない。

鈴木:

 ちょっとすみません。上がるだけ上がってもいいという話であれば、それはパレート優位*6ではないですか?

 それが違うんです。ロールズの議論では、「効率性原理」と「格差原理」が対置されています。数学的にどう違うのかは原書を見てもらったほうがいいんですが、格差原理を適用すると、貧しいひとがそのままで金持ちがより金持ちになるという方向の変化は許容されないはずですね。格差原理は、むしろパレート最適を崩して「公正としての正義」を達成するための社会的選択の原理と考えられています。

 それで話を戻すと、この格差原理の思想は、いまのところ再配分を根拠付ける議論のひとつの頂点だと考えられている。しかし、実はこの原理を適用するためには、再配分の対象の境界が確定している必要がある。

 このあいだピーター・シンガーの『One Planet』を読んでいたら、突然ロールズの話が出てきました*7ロールズ再配分の原理は、国民国家の枠でしか考えていない。グローバルな再配分については語っていない。これは単純ですがげっこうクリティカルな批判です。シンガーは、ご存知のように、動物愛護や生命倫理の分野で著名な倫理学者です。彼の仕事は、胎児はどこまでが人間か、類人猿にどこまで人権が認められるか、という問題を中心に据えている。つまり、人類の境界はどこに引けるか、という議論ばかりやっているひとです。そんなひとからすれば、確かにロールズ的な再配分原理は境界問題を消しているように見えるに違いない。つまり、ある共同体の中でうまい具合に富を再配分する方法はいくらでも考えつくけれども、問題の境界が不確定なときには再配分という発想そのものがは機能しない。同じことが智の配分についてもいえるのではないか。

 話が逸れましたが、僕がこのロールズ/シンガーの例で言いたかったのは、再配分という思想は根本的に共同体を前提とするということです。この点から見ると、設計研の議論はまさに共同体の設計の話ばかりしてきたように見えます。だとすると、問題を進める方向が見えてきます。私たちはここで、組織の内部と外部の境界を前提にせず、全面的なオープン化が可能になったときに、はたしてなにができるのかを考えるべきではないか。たとえば、鈴木さんが言うようにすべてがサービスとして繋がるPICSY的な世界を前提としたときに、「オープン」な目的設定や、「オープン」な配分は考えられるのか。こういった問題を考えてはどうかと思うわけです。

 

 また別のコメントを述べます。こちらはもっと抽象的な話になるのですが、今日村上さんは「はてなの近藤」という名前が重要だという話をされた。そこに接続する議論をします。すべてが繋がる世界であっても、固有名の機能は必要ではないかということです*8。これも、設計研では見落とされてきたポイントかもしれません。

 固有名が必要だと考える理由をふたつ挙げます。ひとつは集団的著作権の限界です。僕自身、批評家という仕事をしていてこのことは実感します。たとえば、集団でつくった映画やアニメがあります。末端まで数えて100人200人で制作したとします。原理的にはその集団に対して細かく富を配分すること可能です。細かく貢献度に応じて印税を細かく配分するという仕組みは、おそらく簡単にできる。しかし、智=評判の配分はきわめて難しい。評判のゲーム(=智のゲーム)は定義上固有名を必要とするからです。「この映画は誰々監督のものだ」「この演出は誰々のものだ」という表現を使わない限り、評判そのものが成立しない。というより、評判そのものが固有名を前提としている。

 これは実践的に重要な問題です。僕の実感では、小説や映画に比べてゲームやアニメーションの批評をしにくいのは基本的にこの問題に依存している。ゲームやアニメについては、「これは誰の作品だ」ということを簡単に言えない。すると批評や分析がきわめて難しくなる。逆にいえば、我々がものを見たり考えたりするとき、「それが誰々のものだ」というクッションは、分析や批評の行為に対して本質的な役割を果たしている。これはもしかしたら、人間の認知限界なのかもしれません。

 近藤さんがはてなをやっていることの機能は、この点で重要だと言える。近藤さんがこういうことを選んだから、はてなはこうなっている。近藤さんがそうじゃなかったら、はてなは違うサービスになったかもしれない。近藤淳也という固有名を媒介することで、私たちはそのような可能世界のはてなを想像することができる。そしてその想像力があるからこそ、異なるサービスを要求することができるし、問題提起もできる。もし近藤さんもおらず、株式会社はてなの住所も書いておらず、SNSやブログサービスが自動生成されるのだとしたら、その質についてユーザーはほとんど想像力を働かせることができないのかもしれない。つまり、現状に対する批判精神を呼び起こすフックとして、固有名の機能は決定的に重要なのだと考えられる。誤解しないでほしいのですが、これは指導者や職人が必要だという主張とは違います。そうではなくて、むしろ「作者性」の問題です。この設計研では集団作業を支援するプラットフォームのかたちがいろいろと考えられてきましたが、そこでこの固有名の機能はどうなるのだろう、というのが僕の問題提起です。

 

 もうひとつ。固有名が必要とされるかもしれない別の理由は、近代社会が行政組織と民主主義のハイブリットで成立している点にあります。行政組織は文字どおりツリー型の階層構造をとっていますが、民主主義は(理想としては)ネットワーク型です。これはかなり乱暴な整理ですが、トーマス・マローンは民主主義と市場を同じネットワーク型として捉えているので、ここではマローンに倣ることにしましょう*9。詳しくは「情報社会を理解するためのキーワード20」*10を見てください。

 ではなんでこんなハイブリッドが必要なのか。たとえば、私たちは集団で日本社会を運営していると思っています。しかし、いざ問題が起きると「トップに立っている人間が悪い」といいます。これは変です。民主主義の理念では、責任をみなが持っていることになっている。しかし、みなが持つ責任は結局無責任でしかない。責任を問うためには固有名が必要なのです。「社会がこうなっているのは小泉が悪いからだ」というように、私たちは固有名を立てないと異議申し立てができない。そこで、固有名をもたない=分散型の意志集約装置を採用しながらも、中核には固有名をもつ=ツリー型組織構造をも維持している。それが近代社会だと思います。

 誰かのせいにすることを「帰責性」と呼びます。誰かに責任を帰することで現状を変えるというのは、言いかえれば「再定義可能性」のことです。環境管理型権力再定義可能性を必要とするということは、「このシステムっておかしいんじゃないの」という異議申し立ての可能性がなくてはならないということを意味します。そしてそのためには、固有名や責任者が必要なのかもしれない。集団でものづくりをすることはできる。しかし、そのつくったものに対して異議申し立てや改良や再定義をするときは、帰責先としての固有名を必要とする。あるシステムが「みながつくった」ということが強調され、脱固有名化されると、そのシステムへの批判能力は失われていく。ここは少し真剣に考えるべきところかと思います。

 設計研の議論は「民主主義 2.0」とでも言うべき世界に踏み込んでいます。私たちがいま持っている民主主義はヴァージョン1.0であって、階層的な行政組織とセットで初めて機能する民主主義でしかない。しかし今後は、もしかすると、たとえばすべての条文に対して一回一回国民が投票して、しかも自分が関心のある政策にだけ投票できるよう、投票権を細分化することができるかもしれない。たとえば、僕は文化政策に投票権を使いたいけれども、環境問題には投票権を行使したくない。そこで、興味がある人とない人のあいだで投票権を売買できるようにすればどうか。投票権の証券化もできるかもしれない。そうやってシステムを洗練させてば、あらゆる国民が、それぞれの関心領域や専門性に応じて立法と行政に関われる“Democracy 2.0”の世界を作れるかもしれない。しかし、そのとき帰責性はどうなるのか。「いまの社会がこうなっているのはなぜ?」という問いの行き先はどこになるのか。これはむしろ倫理研的な問題提起ですが、差し挟んでおきたいと思います。

 長いコメントになりました。もう一度再整理します。設計研の議論は、コミュニケーションや再配分をうまく行うという観点からもう一歩進めないか。いいかえれば、コミュニケーションの革命は新しい目的や価値を生み出すのか。アジェンダセッティングさえされれば、情報技術はそれをどんどん膨らませてくれる。それはいいとして、最初のアジェンダセッティングはだれがやるのか。それはコミュニケーションの革命によって可能になるのか。可能になったとして、そこで固有名はどうなるのか。

 より大きい話をすれば、こういうことです。我々の文明社会は自然環境という巨大なインフラの上に乗っかっている。これもいってみれば二層構造になっている。この二層構造をコミュニケーションの革命は変えることができるのか。何度も何度も再定義して先に進むような、近代社会的なダイナミズムを、民主主義2.0は確保できるのか。以上を問題提起として、終わりたいと思います。



*1:註:設計研第1回: 共同討議 第1部(3):全体最適か、部分最適か

*2:註:同様の指摘として、設計研第4回: 共同討議 第2部(2): 「情報社会論の球体」――東浩紀からの応答。以下引用すると、『この設計研は、あるいはもっと一般に情報社会論の言説は、コミュニケーション万能論という世界観のなかでコミュニケーションを増強させるテクノロジーの話ばかりをしている。私たちは、そういう自己回転、あるいは、「自意識の球体」という文芸評論の言葉をもじって言えば、「情報社会論の球体」に少し自覚的であるべきだと思います。』

*3:註:情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる: 2.2.2. 深度1の眼:近代化の三局面

*4:註:大半のノードは少数のリンクと、そしてごく少数のノードが莫大なリンクを持つようなネットワーク構造。(はてなダイアリー - スケールフリーネットワークとは)グラフにすると「べき乗(Power Low)分布」を取る(参考:佐藤史隆, 廣安知之, 三木光範「複雑ネットワークの調査および問題定義」(ISDL Report、2003年))。

*5:註:政治哲学者のジョン・ロールズ(1921-2002)については、「倫理研第6回:共同討議第2部(4): 配分的正義――情報社会のリベラリズムの居場所」を参照のこと。ロールズは正義の第一原理として、すべての個人に対し平等に基本的諸自由を認めるべきとする。そして第二原理では、社会的・経済的な不平等が正当化される条件(再配分の正義)が示される。2-1)競争の機会を均等に与えた結果生じたものに限る。2-2)その社会で最も不利な状況にある人々の利益を最大化するに限る。この2-2)が文中での「格差原理」にあたる。

*6:註:パレート効率性 - Wikipedia

*7:註:こちらも、「倫理研第6回:共同討議第2部(4): 配分的正義――情報社会のリベラリズムの居場所」を参照のこと。以下引用する:『ピーター・シンガーは、ロールズの原理に関して、それはグローバルな共同体を想定するとあまり意味がないと批判していました(『One World』未邦訳 asin:0300103050)。ロールズの富の再配分は、国民国家という小さな単位のなかで、貧しいひとと富んでいるひとの関係を再構築しようという議論です。したがって、世界規模の共同体を想定すると適用できなくなる。ロールズは、「もっとも貧しい人間が豊かになるかぎりで貧富の格差は正当化できる」と述べたわけですが、そもそもいま地球上でだれがもっとも貧しいのか、だれにも分かりようがない。この批判は本質をついていると思います。問題は、富の再配分が共同体の境界を必要とするということです。しかし、いま話題になっていたような個人情報が資産運用される世界においては、誰が貧しく誰が金持ちなのかもわからなくなってしまうかもしれない。』

*8:註:固有名帰責性についての議論は、設計研第3回: 共同討議 第1部(5): 帰責先としての設計者の必要性――他にありうる社会の想像のためにで行われている。また、isedキーワード固有名」参照のこと

*9:註:トマス・マローン『フューチャー・オブ・ワーク』(ランダムハウス講談社、2004年 asin:4270000368)では、大企業などの階層型(ハイアラーキー)に対比させるかたちで、民主主義や市場をネットワーク型としている。isedの議論にも見られるように、市場は私的(私的利害のぶつかりあう競争空間)、民主制は公的(公共的討議、代表民主制、平等的投票)と理解されることが多い。たとえばisedキーワード正統性」参照のこと。

*10:註:東浩紀・濱野智史 「情報社会を理解するキーワード」(『InterCommunication 2005 Winter』第15巻第1号、 NTT出版、pp.6-23、所収)

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