ised議事録

11-1210. 設計研第6回:共同討議第2部(2)

智のオープン化がもたらす、智(象徴資本)の再配分と富(経済資本)の再配分の乖離

鈴木:

 非常に総括的で面白い議論が出てきたと思います。大きく分けて二点ありました。ひとつは、富の配分と智の配分という、いわゆる再配分の話をしっかりやるべきだということです。特に智の配分の設計に関して議論すべきではないかと問題提起されていた。もうひとつは固有名の議論です。帰責性というものが非常に重要であって、この帰責性をどのように扱うかを議論すべきではないかという問題ですね。さらにこの二点に付随して、再整理というか新しい論点が出されたわけです。

 まず僕から応答したいのですが、富の配分と智の配分が乖離しているという論点について、その乖離を変換することについて僕のモチベーションは大きいんですね。特にこれを実践されているのが近藤さんではないかと思うんです。人力検索はてなはまさに智のゲームをやっているわけですが、あれは智のゲームを富の配分に変換することを目指されているのではないか。現実問題として富がどれくらい配分されているかは分からないので、近藤さん自身がどのように考えているのかを知りたい。

鈴木健
鈴木健
 さらに智のゲームに関してはてなは成功していますが、評判の配分に関してどのように考えているのでしょうか。これも近藤さんにお伺いしたい。というのも、「はてなの近藤が」という話にいつもなってしまうわけですね。実際にはCTO伊藤直也さんもいる。伊藤さんは最近有名人なのでいいかもしれませんが、もっとはてなのシステムに貢献してきた無名の人々がいるわけです。そういった人々に対する評判の配分というものはあるのでしょうか。近藤さんは結構取り組まれていると思うのですが、その取り組みについてお伺いしたいと思います。

 つまり質問は二点です。一点目は、智の配分を富の配分に変換するにあたって、はてな内にポイントシステムを入れている点について。二点目は、評判の配分に対してどのように対応しているのか。あるいは対応していきたいのかということです。

近藤:

近藤淳也
近藤淳也
 まず一点目の智の配分に関しては、一日に何十回も答える人は誰なのかといえば、自宅でパソコンに向かっている人という感じがありますから、そういう方の持っている智の再配分をやっていると思うんです。ただ配分という言葉を聞くと、有限な資源という印象があります。しかし、その先があるんです。質問に対する回答は一回限りのものではなくて、同じ疑問を抱いた人はすべてその回答を参照できるからです。

鈴木:

 それは智の配分で、むしろ富は有限なわけです。マネーサプライは日銀がコントロールしていて、それ以上は存在しない。それに対して、智はどんどん増えていきます。ハードディスクの容量に限界はあるかもしれませんが。そこで、無限の智の配分を有限の富の配分にどのように変換するかという話を聞きたい。はてなポイントはまさにそれをやろうとしていると僕は思っていたんですね。ただ、はてなポイントは一取引が20ポイントや30ポイントと安価なため、それだけでは到底生活はできない。僕ははてなで生活できる人が現れて欲しいと思っているのですが、なかなか難しそうです。そのあたりはいかがでしょうか。

近藤:

 潜在的に適切な配分ができたら面白いなと思っています。たとえば出版社のない地域に住んでいるけれども、文章がうまい人がいる。その人は出版社がないという理由だけで本を出せない。こういう事態に対して、情報技術は何かしら変えていくのだろうという期待感がずっと根底にあるんです。

鈴木:

 それこそ東さんが大変詳しいと思いますが、本を書くだけで食べるだけのお金を稼げる人というのは、ものすごく少ないわけです。その裾野が広がれば僕はいい話だと思いますが、それはインディーズの話というか、メジャーデビューさせるためのルートをつくってあげたいという話に近い。それも重要なんですが、ダイナミクスとしてはそれほど大きくないではないか。むしろ僕が思うのは、はてなポイントが一回200円のように10倍くらいの価格になればいいと思うんですよ。それは難しいのでしょうか。

近藤:

 それはやってみて何人質問するかという実験になると思います。過去にもっと高い価格設定のものがいくつか実現されていましたが、いまやってみるとどうだろうとは思いますね。また取り組みとしては、投げ銭ということをやっています。

鈴木:

 現実問題として、情報財を買うという文化はまだ根付いていないということですね。いまは知恵を絞って、これからどうしていくかという段階だ、と。

東:

 ちょっと待ってください。僕の問題提起に対する、鈴木健さんの理解がズレていると思う。僕がいいたかったのは、智を富に変えることではなくて、智そのものの配分と富そのものの配分のリンクです。いまは智が集まっている人と富が集まっている人がバラバラに存在している。近代社会では智が集まっている人と富が集まっている人は階層としてリンクしていた。いいかえれば、象徴資本と経済資本は結びついていた*1

鈴木:

 乖離しているというのは現状分析であって、それは問題ではないわけですよね。

東:

 いや、問題なんです。

鈴木:

 つまり、富を持っている人が智を持っていて、智を持っている人が富を持っているほうがいい、と東さんは考えている。

東:

 そうです。なぜかといえば、社会を変えることを考えると、それが決定的な要素になるからです。きわめて素朴な話をしますが、社会を変えるためには、基本的にお金が必要です。しかし我々の社会では、智の配分と富の配分が乖離しているので、社会を変える能力を持っている人に智が集まらない。その逆も言える。

鈴木:

 哲人政治ではなく、哲人経済というわけですね。智を持っている人が経済的に強いパワーを持っているほうが、社会はうまくいくのではないかということですね。

東:

 人間社会はいままでそうしてきたと思います。

近藤:

 しかし、それは相対的に智が富を持たないというだけで、絶対的な富を持っている人の智の量は変わっていないのではないでしょうか。要するに、情報技術によって公共的に智が共有されるようになったんだと思うんです。

東:

 どうでしょうか。僕は必ずしもそう思わないですね。

楠:

楠正憲
楠正憲
 しかし、昔の人も忙しかったわけですよ。ただ情報財の価格が高かったことによって、情報を手に入れられなかった。

東:

 情報が高ければ、配分は自動的に調整されるでしょう。いまでも高価な家具は金持ちが持っている。近藤さんはみなが情報を持つようになったとおっしゃったけれども、みなが同じ種類の智を持つのであればそうだと思う。しかし、情報財の再生産コストが少なくなることで、情報財の多様性も量も莫大に増えたことに注意しなければならない。結果として智は専門化したわけです。そして専門的に詳しい人というのは、それについて時間を消費できる人を意味する。このことの必然的な帰結は、情報財の再生産コストが低くなった世界においては、時間の消費コストの安い人がもっとも智を集めることができるようになる、ということです。実際そうでしょう。

楠:

 本当に情報の価格が複製コストによって決まっていればそうなります。ただ、実際にはそうなっていないと思うんですよ。はてなではひとつの質問あたり何十円で取引されていますが、Yahoo! オークションで「これについて教えます」という商品があったときにはもうすこし高い値段で設定されている。GartnerのサブスクリプションやIDCのマーケットデータは、コピーコストこそWikipediaと変わらないかもしれませんが、その業界の人たちは高い金を払って買っている。というのも、これは持っている人が少ないから情報に高い価値がついているわけです。それは非常に自己言及的な世界なのかもしれませんが、少なくとも情報のコピーコストが安価になったからといって、智の配分には引き続き不均衡があると思います。

鈴木:

 Gartnerもそうですが、彼らは企業のメインプレーヤーにインタビューという実作業をし、そこから情報を作り出していくわけです。第一線のビジネスマンには智がなくなっていると東さんはいっていましたが、その智というのは、本を読む、文章を読むといった包括的で編集的な智ですよね。しかし身体知というものが世の中にはあって、それはビジネスを実際にやっている人にしかない。お金を設ける、日々会議をするといった行為の中から智が生まれてくる。実際に会社でビジネスをやっている人や実際に農業をしている人が生み出すコンテンツと、まったく同じものを家にいるだけの人がネットで書けるかといえば書けないわけです。それを編集して紹介することはできるかもしれませんが、それは編集的な智でしかない。しかし、身体知は貴重なのでコピーコストがゼロではない。そ考えると、いま身体知のほうと富の配分が強くリンクしているかもしれません。

村上:

 実際の現場をみると、一生懸命知恵を絞ってビジネスモデルをつくり、ネットの上でサービスをやっても、結局儲かっているのは、それを考えたベンチャービジネスではなくてNTTの通信料金やパソコンの売り上げだという構図がある。これも一種の再配分の失敗かもしれません。東さんがおっしゃっていることには基本的に同感で、そこをなんとかうまく修正したい。ひょっとして人に帰責させることが必要なのであれば、積極的にそれを考えるのも文法のひとつとしてはいいと思います。そこで僕は二点指摘したい。

村上敬亮
村上敬亮
 一点目は、帰責させるといっても本当に集約しきれるのかという点です。なぜなら情報や知識の持つ意味というのは人によってあまりに異なるために、モノの消費よりも統一的な価値がつきにくいという側面がある。裏を返せば、人々のあいだで小泉の個々の政策について評価は分かれるけれども、小泉がいいか悪いかという話になれば何かしらの判断がつくからです。最後は程度の問題にはなってしまいますが、それを選択させることを積極的に選ぶこと自体がいいのかどうかは、若干判断留保ではないかという気もする。ただ、再配分が富と智でズレること自体が問題だというのは、支持します。

 別の観点から話をします。智と富の配分の仕組み、つまり優れた智に積極的にマネー・インセンティブが戻るという意味での富の配分について、議論したい理由がもうひとつあります。それは講演で展開した、縦と横の議論にも適う論点です。なぜ一生懸命にハードを売っている人たちや通信ビジネスをやっている人たちが、引き続きマーケットでイニシアティブを持ってしまうのか。その結果、横割の動きが遅くなるのはなぜか。これはまさに智の配分に問題があるからなんですよ。智に対する評価が分散できていないだけではありません。歴史の積み重ねとして現に山のように人を雇い、設備投資をしてしまったという現実がある。つまり資本が償却していないという現実こそが、マーケットの競争原理をサービス主導・横割主導の方向へ移行する流れから遠ざけているという側面があるんです。日本の数多ある大企業にはこの傾向が強い一方で、そもそもプレイヤーの少ない韓国は「そこは思い切って捨てきれる」といいますし、アメリカはもともとモノなどつくっていない。そんな韓国やアメリカと比べて、日本は比較劣位産業構造としてなっているという実感がある。日本はどうも変化のスピードが出ていない。ですから日本はもっと意識的にモノの縦割りで商売している人よりも、新しいサービスやベンチャービジネスをネットでやっている人に対して、多少怪しげな智であろうと、積極的に富を戻すことであろうと、なんにせよ再配分の仕組みを意識的に考える必要がある。そうでなければ世界の進歩に遅れていくという懸念があって、そこは真剣に考えたいというモチベーションを持っているんです。

楠:

 しかし、Googleはたしかにエリック・シュミット*2の会社かもしれませんが、Googleというブランドは本当にそれほどエリック・シュミットという固有名に負っているのでしょうか。

東:

 いや、それは負っていない。といいますか、固有名が必要かどうかという話だけをしたいわけでもないんです。

 話を戻してしまうけれども、富の配分と智の配分という話がありました。さきほどから話を聞いていてこれも設計研の特徴だよなあ、と思ったんですが、みなさんはつねに生産者の方を考えているんですね。つまり、僕の問題提起が、智を生産する人が富をちゃんと受け取れるか、という議論だと理解されている。僕はそれが非常に面白いと思った。僕のいいたかったのはそうではないんです。文化や教養は消費者が支えるものです。ただ、これは人文的なものを復活させろという話ではありません。情報財の再生産コストがゼロに近いということは、富裕層と貧困層の文化的行動がほとんど変わらない世界を意味している。それは基本的に素晴らしいことですが、そうすると立ち行かなくなるものもあるはずで、その代替物も考えるべきだと言いたいんです。

 たとえば現状では多くの文化的なシステムは、特定の人が大量にお金を落とすことによって維持されていますね。文学や美術がその例です。おそらく大学もそうです。富裕層や行政や企業の支援によって維持されてきたそのような文化的世界は、いま急速に崩壊しつつある。富の配分と智の配分がリンクしなくなり、金持ちだろうと貧乏だろうと本人の意欲だけでどこまでも象徴資本を上げられるようになる。だとすれば、別に象徴資本のためにお金を投じる必要もない。教養主義の復活を唱えたくはありませんが、情報財の再生産コストが限りなくゼロになる世界というのは、要は教養がすべて消え去る世界ですよ。そのかわりに何がやってくるのかについて、少し想像してもいいと思います。

楠:

 それは問題設定がズレているような気がします。もし仮に情報化でコピーコストがゼロになったことによって、智の均衡化が起きたとすれば、アメリカやヨーロッパでも同じことが起こっているはずです。しかしドネーション・カルチャーにせよ、少なくともアメリカでは大学の収益構造はいまでも金持ちが支えている。ということは、それはもっと別の日本社会的な変動の結果として起こっているはずで、情報財の流通の仕組みの変化とは分けて議論するべきだと思います。

東:

 それはそうかもしれませんね。

村上:

 問題のすり替えかもしれませんが、富の分配について優れたイニシアティブを発揮する人を、どのようにしたら育てやすいかという問題と置き換えられると思ったんです。役人として頑張れという方がまともに育つのか、それも含めて、産学連携のコーディネーターをやりながら学べといった方が育つのか。たぶんそれは一義的には決められません。いまの局面でいえば、どちらかというと後者に流れています。

*1:註:フランスの社会学者ピエール・ブルデューの概念。ブルデューは『ディスタンクシオン』(藤原書店、1990年)において、人々が無意識かつ自由に選択しているはずの趣味や美的感覚(文化資本・象徴資本)が、社会階級や学歴や富といった格差とパラレルであることを社会調査によって示した。たとえば乗馬や絵画鑑賞や上流階級、サッカーは下層階級といったぐあいにである。人々は文化資本空間において、その差異の体系に自らをポジショニングし、社会的地位や威信において他者よりも卓越化(ディスタンクシオン)する性向を持つ。こうした象徴的闘争において、支配層の秩序を維持し、排他性を高めるために、良き趣味」「良き振る舞い」といった文化的な正当性が生まれる。

*2:註:Google 会社情報: 経営陣

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