ised議事録

11-1211. 設計研第6回:共同討議第2部(3)

固有名の果たす「帰責性」という機能

東:

 ちなみに僕は、個人的には産学連携も賛成ですし、文化の市場化も基本的に賛成なんですよ。

東浩紀
東浩紀
 ここで固有名の話に戻したいんですが、僕が言いたかったのは「再定義可能性」の条件なんです。再定義可能性というけれども、単に可能性として留保されているだけでは意味がない。そこで重要なのが固有名なのかな、と。たとえば、匿名のプラットフォームとして存在しているGoogleに対して、私たちは特に文句はいわない。しかしMicrosoftに文句をいう。それはビル・ゲイツのせいでしょう(笑)。なにもみなが陰謀論を信じているわけではない。しかし、Microsoftに何となく文句をいいたくなるのは、おそらくビル・ゲイツという強いキャラクターがいるからなんですよ。ここにキーがあるのではないでしょうか。

井庭:

 固有名というとき、それは人だけでしょうか。ブランドは入らないのかな、と。

東:

 難しいですね。僕はそこで、あえて人、というか「心」だと言いたいんです。

 先日「ised@icc」でも話したのですが、人間には「心の理論」*1があると言われている。自分とはそもそも主体で、世界は客体です。しかし、その客体のなかにも主体があることを認識するとき、動物から人間に一歩踏み出すわけです。これを「心の理論」というわけですが、僕の思うに、これは人間の世界認識の根底でかなり大きな役割を果たしているのではないかと思うのです。固有名というのは、要はこの「心の理論」を呼び出すフックになっている。そして「心の理論」を呼び出すことで、私たちは可能世界をイメージできる。これは完全にアイディアだけで、何の学問的根拠もないのですが。

鈴木:

 しかしブランドでも可能だと思いますよ。なぜなら我々が日本で議論するとき、「アメリカが」といいます。まるで「アメリカさん」のような人がいるかのように。つまり心の理論はアメリカにも発生するし、SONYに対してもGoogleに対しても可能なわけです。むしろ心の理論があることによって、ブランドも可能だということになります。

東:

 それはそのとおりでしょうね。

井庭:

 そうすると、やはりリーナス・トーバルズがいなくても「Linuxが」といえるのではないか。

楠:

楠正憲
楠正憲
 逆にBSDよりもLINUXがこれだけ伸びた理由のひとつは、トーバルズがいたからかもしれない。

鈴木:

 いまはそうかもしれない。しかし、たとえばいま三菱を考えたとき「岩崎彌太郎が」とはいわないよね。

八田:

 官僚批判を考えるときに、「村上がけしからん」ということはいわないですね。「経済産業省がけしからん」という。

鈴木:

 つまり、システムを擬人化して扱うことを人間はできるわけですね。これは心の理論があるおかげかもしれない。

楠:

 人を擬人化する場合と、ブランドやオーガニゼーションを批判する場合とでは、批判のロジックが変わりはしないでしょうか。

村上:

 たとえば日本政府を批判するのと小泉純一郎を批判するのと、どちらが批判しやすいかといえば後者ですよね。

東:

 今回(2005年衆院選)、小泉が勝ったのは明らかにそのせいですよね。小泉純一郎という人間に賛成か反対かと議論を集約したからです。「人間に集約する」ことが持っている力は大変に強い。

近藤:

近藤淳也
近藤淳也
 さらに一歩進んで、有名人のたくさんいるプロスポーツチームのような組織もありますよね。特に村上さんの「アルチザン」という考え方はまさにそうだと思ったんです。

鈴木:

 プロスポーツチームや大学はそうですね。有名選手や有名教授を集めます。

村上:

 「伝統産業振興法」という法律があって、これはあまりイケていなかったのですが、狙っていたことは似ていたんです。ものづくりの伝統を背負って看板を持っている人に対して、マーケットの評価に下駄を履かせてやろうというわけです。そのために表彰なんかをしようという発想だった。

近藤:

 村上さんのアルチザンというのは、現場が自分の判断でものづくりを行い、その人に強大な権利を持たせることで、その人の創造性の許す限りモノを生み出すということですよね。いままでに比べてやりやすくなっていると思うんですよ。それはユーザーとコミュニケーションできるようになったことが一番大きい。昔のアルチザンというのは、要するにモノをつくる人がある一定の割合でいて、大体が自分のためにつくっているけれども、たまにどうしても他の人も欲しがるようなとても便利なものをつくる能力を持った人ということですね。そういう人が個人で配布するには限界があるので、企業のようなものをつくって生産しようという話になった。しかし現代になると、逆にその人のこだわりや判断でものをつくっても、全世界の人が使えるようになった。そこでアルチザン的なものが実は面白いという状況が生まれているのではないでしょうか。これは「それをつくったのは誰なのか」という帰責性の話とも繋がりますし、組織の中でアルチザン的なものが自律的に動くことで、いいものを生み出す方法論にも繋がると思います。

鈴木:

 そもそも東さんがおっしゃった帰責性という話は、民主主義が間接民主制を取っていたのは理由があるということですよね。

東:

 いや、こういう例でもいい。さきほど鈴木さんは、一杯のコーヒーの背後にも様々な世界的な連鎖があるという話をしましたね。PICSYでお金を払うことは、そのコーヒーの背後にあるさまざまな原因に小額を支払うことである、と。それは経済的にはたいへんけっこうな話です。しかし、責任の問題となるとどうか。たとえば、コーヒーが不味かったとき、店員が、それはまずこのコーヒーメーカーがダメだし、天気も問題だし、豆ももちろん問題だし、そもそも全世界が問題であって、コーヒーの煎れ方が下手なのはその原因のごく一部にすぎない、と言い出したらどうか。これはウザいだけですね(笑)。

井庭:

 それは真実かもしれない。

東:

 同じことが多くの場合に言える。たとえば交通事故なんて、責任を分散させようと思えばいくらでもできるでしょう。

 つまり、私たちは世界に対する二種類の見方を持っているということなんです。PICSY的な原理で見れば、全部が繋がって、コーヒー一杯の後ろに膨大なネットワークが広がっているかもしれない。これは真実です。しかし、それだけでは社会は動かない。ときにその因果のネットワークを切断しなければならない。それはつまり、このコーヒーを出した責任はだれにあるんだ、と問うときです。この責任という切断の装置を、僕は固有名と呼んだ。それはブランドであろうが会社であろうが構わない。

 というところで最初の問題に戻るわけですが、すべての繋がりをできるだけ反映する社会システムをつくろうという鈴木さんの提案では、この切断機能や責任機能はどう処理されるのか。それを考えるべきではないか。

鈴木:

 たとえば前回はてなの話で、ユーザーにメールを出すときはかならず社員の個人名を出すという例がありました。それは帰責性をはっきりさせることでトラブルを防ぐわけです。これを会社やブランドの名前にしてしまうと、責任が曖昧になってしまう。

東:

 そういうことです。僕が環境管理型社会に対して居心地の悪さを感じるのは、この問題に関係している。帰責性が確保されないと人間は先に進めない。

鈴木:

 しかし、その帰責性の感覚自体も疑いうるのではないかと思うんです。帰責性という感覚は心の理論から来るということでしたが、それはある種の幻想のようなものですよね。幻想は幻想でいいのですが、過度の帰責性がもたらす害悪もあるでしょう。むしろ帰責性をなくす方がいいという考え方も成立するんじゃないか。

東:

 いまの話に答えつつ、別の話をします。

東浩紀
東浩紀
 近代の発明として、オーサーシップ(作者性)があることはよく知られています。アルチザン的なものとオーサーシップは異なる概念で、アルチザンは職人として実際にものをつくる人ということですが、オーサーシップはどちらかといえば責任を取る人に近い。つまり、その人が全部つくったということにするわけです。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画であれば、我々は勝手にあれをダ・ヴィンチの壁画だと思っていますが、実際には多くの弟子たちが制作に参加していた。しかし、「ここの塗りがいいのは弟子の誰々がいいからだ」と言い出したらきりがない。それを我々は「ダ・ヴィンチの絵」ということで切断しているわけです。

 これは大変に人工的な制度ですが、その駆動力は強かった。60年代から70年代にかけて、作者性の解体については文学理論や美術理論でよく議論されていました*2。そのような作者性解体論とオープンソースモジュール化の話は、僕から見るとよく似ている。つまり、このソフトウェアはみんなでつくったので誰がつくったとはいえない。そこにはもう作者がいない。こうした作者性なき知の生産がいまは高く評価されているわけです。しかし、本当にそれだけでいいのか。作者性の力もすごかったのではないか。

井庭:

 ただそれだと、つくる側とそれを認知する側の話が一緒になってしまっていませんか。

東:

 いや、そうではない。オーサーシップは、受容者に作者性を「認知させる」システムです。

井庭:

 いままでの壁画でも映画でも、多人数でつくるようなものは、おそらくスケールフリーのべき乗分布のようになっていたと思うんです。つまり監督や演出といった一番目や二番目の人は前面に出てくるけれども、照明BさんやCさんといった人々はよく知らないということになっていた。しかし、情報技術はそれを見ることもできるようにした。たとえばオーストラリアロケのワンシーンがとてもいいのであれば、「そこを演出したのは誰だろう」と調べれば知ることもできる。しかし、もちろん調べなくてもいいんですよ。

村上:

 東さんの議論は両面を持っていると思います。たとえば電子タグで起きていることは、生産した人はどこで、流通させた人はどこかが分かるようにするので、帰責性の分解なんですね。ITは明らかに帰責性を分解させる方向に進んでいるし、本当の責任者というものをたくさん見せる方向に向かっている。逆にいえば、帰責性を持たせることできちんとした富の分配ができる。これはさきほどの富の分配とは別の意味かもしれませんが、そちらに向かっているという大前提がある。たぶん、まずそれを否定するかどうかという問題があります。次にこの方向が行き過ぎるとデメリットが生まれ、「あまり分解し過ぎないほうがいいのではないか」という議論もありうると思います。となると、状況に応じて両様ありえるという話になってくる。

東:

 僕もそう思います。実際、IDタグで牛肉がトレーサブルになって、誰が責任者なのかがはっきりするのはいいんです。

東浩紀
東浩紀
 僕が考えていたのは、繰り返しますが、民主主義 2.0のようなラジカルなイメージなんですね。ひとつひとつの条文や制作に対して細分化されて選挙権が与えられ、証券化されて取引され、いわば毎日のように細かい国民投票がネットワーク上で行われて行政と立法が自動生成してくるような世界。これはすごくSF的に聞こえるかもしれませんが、僕たちがいま理想として考えている世界は意外とこういうものかもしれない。そういう世界において、固有名帰責性が支えていたチェック機能はどうなってしまうのか、それが気になるのです。

鈴木:

 大変興味深い論点ですが、時間も限界です。ほかになにかありますか。

井庭:

 最後に東さんのコメントに対する反論があります。東さんは、設計研の議論は目的を外から持ってきて、組織の最適化の話ばかりをしているとおっしゃるのですが、そうじゃない話を一生懸命してきたつもりなんですね(註:井庭は設計研第1回: 共同討議 第2部(1):“loyalty”なき社会における問題発見という問い))で、情報社会はオープンなコラボレーションを可能にするけれども、そこでヴィジョンをつくるということは可能かと問うている。))。オープンな組織をメタファーとして使って、社会を設計するという話をしてきたと思う。

井庭崇
井庭崇
 まず目的は市場が用意してくれるという点ですが、僕はそうは思いません。目的としてオープンな組織なりオープンな社会を据えるのもひとつですし、目的自体をつくるという目的もあるでしょう。東さんは、目的をすでに設定したコラボレーションは効率的だけれども、目的それ自体はコラボレーションではつくれないというイメージですね。しかし第1回から議論しているのですが、目的それ自体もコラボレーションによってつくることはできないか、という議論をしてきたつもりです。つまり、Voiceとしてのアイディアをどのように集約するかという議論ですね。またオープンソースの話は、帰責性がないという問題ではなくて、そこの帰責性のネットワークに誰でも入ることができるところがポイントなんですよ。その連鎖に参加できるところにインパクトがあって、多人数でつくるだけならそれこそMicrosoftも多人数でつくっている。

 はじめにハイエクの話をしましたが、彼が指摘する具体的な設計と抽象的な設計の区別は重要です。具体的なことのコントロールと、場をつくる、法をつくる、プラットフォームをつくるといった抽象的なコントロール。ハイエクは後者を重視し、自生的秩序、つまり庭を育てるような感覚だというわけです。その自生的なものを育てるとき、法が重要だとハイエクはいいます。法で制約することによって、逆に可能性が広がるという話をするんですね。これとプラットフォームの話は同じで、そのような抽象的な設計について僕らは議論してきた。はてなであったり、OSであったり、産業のプラットフォームであったり、連鎖的な貨幣システムだったり、そして僕はいまコンピュータ・シミュレーションのモデルをつくるプラットフォームであったり、それぞれの作り手が抽象的なレベルの設計について考えている。これを具体的にやってしまえば、それこそ独裁のような話になってしまう。だからこそ、これまでの議論はあえて抽象的なレベルで止めていたと思うんです。


鈴木:

 メタユートピア論のようなことですね。

井庭:

 そうです。

 また今日の村上さんの話は環境の話も絡めていけたので、もっと議論できたらと思いますね。

鈴木

 時間があまりにもオーバーしているので、これで終わりにしたいと思います。環境と人間の関係は議論しきれなかったので、その点については次回に持ち越しましょう。

 最後にオブザーバーの方から質問を頂きたいと思います。


*1:註:認知心理学の用語で、他者にも自分と同じような心がある、と信じたり推察する能力のこと。(心の理論 - Wikipedia

*2:註:たとえばロラン・バルトのテクスト論が著名。→「作者の死」(『物語の構造分析』みすず書房、1979年 asin:462200481X)所収。

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