ised議事録

12-101.倫理研第7回:小倉秀夫 講演(1)

題目:「プラグマティックに匿名/顕名問題を考える」

倫理研第7回:プラグマティックに匿名/顕名問題を考える

小倉秀夫 OGURA Hideo / 倫理研第四回~

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弁護士

 1968年生まれ。1992年早稲田大学法学部卒業。中央大学法学部兼任講師を兼務。著作権等の知的財産権などIT関連を主に扱い、中古ゲーム差止訴訟、「mp3.co.jp」ドメイン名訴訟、対WinMXユーザー発信者情報開示請求訴訟などで勝利を収め、大阪FLマスクリンク事件、ファイルローグ事件では、DOA2事件では苦渋を味わう。またブログ上では、著作権法改正問題の他、コメントスクラムをはじめとするネット社会の病理を扱い話題となる。主な著書として『著作権法コンメンタール』(編著:東京布井出版、2000年)、『不正競争防止法コンメンタール』(編著:レクシス・ネクシス・ジャパン、2004年)、『情報は誰のものか?』(共著:青弓社、2004年)、『インターネット上の誹謗中傷と責任』(共著:商事法務、2005年)など。「情報社会と法」の問題に最前線で取り組む弁護士としてised@glocomに参加。

言論の自由市場

 「言論の自由市場」という概念の説明から話を始めたいと思います。これはある空間のなかで言論を戦わせて優れたものが生き残るという考え方で、法学系の方なら簡単にイメージしていただけると思うのですが、これが「表現の自由」を大切だと考える意義になります。

 IT革命より以前であれば、誰でも、どんな商品(=言論)でも参加可能な言論の自由市場の規模は小さいものでした。ビラやミニコミ誌をつくり、自費出版で本を出すということは自由にできましたが、これによって届く範囲は限定されていました。ビラをマンションのポストに入れれば、自分の言いたいことは伝わるかもしれませんが、それで伝えられる範囲はせいぜい数十から数百に留まっていた。

 一方で、全国規模で届くような規模の大きな市場では、参加可能な人あるいは商品(=言論)というのはきわめて限定されていました。テレビなら全国レベルで言論を伝えることができますが、そこに参加できる人は限定されています。新聞が取材をして記事になれば広く公知させることができますが、それはあくまで新聞社の運営方針に適ったものしかできません。

 これがIT革命後、いわゆるパソコン通信の時代からネットニュースの登場以降にどうなったか。すなわち、誰もが、どんな商品でも自由市場に投入することが可能になりました。ここで重要なポイントは三点あります。「誰でも」というのは、いいかえれば特別な資格も高額な費用も必要としないということ。そして「どんな言論でも」というのは、雑誌の編集者やテレビのプロデューサーからスクリーニングされることがないということ。そしてその「自由市場」は、大変に規模が大きく、たくさんの人がアクセス可能ということです。

 ここで重要なのは、このIT革命がもたらした言論の自由市場への参入可能性の拡大、いいかえれば参入障壁の崩壊は、法がもともと持っていた「表現の自由」の問題と直接の関係を持たないということです。「IT革命の恩恵を受けて言論市場が活性化する云々」という話をする際には、表現の匿名性の保障とは関係のない可能性がある。これを前提にして議論を進めたいと思います。

「匿名表現の自由」と「表現の匿名性」の保障

 もうひとつ前提の話をします。よく表現の匿名性という議論がなされますが、厳格に区別すると「匿名表現の自由」と「表現の匿名性の保障」という概念に分けることができます。前者の「匿名表現の自由」は、匿名や仮名で表現する自由。後者の「表現の匿名性の保障」は、表現主体に関する情報を自在にコントロールする自由です。それぞれ別の概念として捉える必要があります。

匿名表現の自由

 この点について、日本にはあまり判例がないのですが、アメリカには大変多くの判例があります。まず前者の匿名表現の自由についての判例として、最近法学系の人間がよく引用するのが、“McIntyre v. Ohio Elections Comm'n, 514 U.S. 334 (1995)*1です。

 これは次のような事件でした。マーガレット・マッキンタイアという人が、パブリックミーティングに出席していた人に対して、ある課税についてけしからんと訴える内容のパンフレットを配布しました。ビラを配るのはもちろん自由なのですが、ある会で配ったパンフには発行者の氏名および住所の記載がありませんでした。“Concerned Parents and Tax Payers”という仮名でサインされていたんですね。これがオハイオ州の選挙管理委員会の規則に反するとして問題とされました。この事件は州の高裁までは有罪だったのですが、連邦最高裁に至って、そうした規則の存在すること自体が米国憲法修正第一条に反するということで、違憲無効となりました。

 この事件のポイントは、ビラに実名を書かずに表現を行う自由といっても、マッキンタイアは現実社会で開かれたミーティングに出かけてビラを配っていたわけですから、「これを配っているのはマッキンタイアである」という事実自体は隠していない点です。しかも、同じ内容のビラを別の会場では実名と住所を記載して配っていました。とある会場で配ったビラが、たまたま記載されていなかっただけなんですね。自分がこのビラをつくって配っている主体であるということは隠していなかった。つまり、マッキンタイアは匿名表現の自由は行使しようとしたけれども、表現の匿名性の保障はまったく期待していなかったのです。

表現の匿名性

 これに対して、表現の匿名性の保障が問題になったケースとして、“Patrick Cahill and Julia Cahill v. John Doe No. 1, C.A. No. 04C-11-022 JRS (Superior Crt. Del., June 16, 2005)”*2というものがあります。「John Doeさん」というのは、アメリカで氏名の分からない被告に対し、仮に付けられる名前のことです。“No. 1”と付いているのは、デラウェア州の裁判所で「John Doe第一号」であることを意味しています。これはどういう事件かというと、まずデラウェアのスミルナという町の市議会議員で、カーヒルという人がいました。一方スミルナという町について色々と議論するためのブログをつくった人がいて、そこにどうもカーヒルについての粘着君が現われたようなんですね。その粘着君は“Proud Citizen”という仮名を用いて、「カーヒルは誰がどうみても知的衰退だ(Anyone who has spent any amount of time with Cahill would be keenly aware of such character flaws, not to mention an obvious mental deterioration.)」「ガーヒル(ゲイ・ヒルと同性愛をもじって表現して)はパラノイドだ(Gahill [sic] is as paranoid as everyone in the town thinks he is)」などの投稿があった。対してカーヒルは、問題の発言を行ったProud Citizenというハンドル名が利用していたアクセスプロバイダに対し、召喚状を出して「こいつの実名を明らかにせよ」という開示手続きを取ったんですね。これも地裁段階では開示せよという命令が降りたのですが、John Doe側が上の州裁判所に訴えたところ、今度は判決が覆って、「本当にアイデンティティの開示をしなければいけない場合なのかどうか、もうすこし慎重に審議しなおせ」ということで差し戻されました。この事件でJohn Doeは、匿名表現の自由はもちろん、表現の匿名性を保障せよという要求をしました。その結果、裁判所もそれをやや認めたかたちになりました。

表現の匿名性は言論市場を活性化するのか

1. 言論弾圧を行う政府下の場合

 ただ、この後者の表現の匿名性の保障は、はたして言論の自由市場を活性化するのにどれほど不可欠なのでしょうか。ここで三点に分けて検討しておきたいと思います。

 第一に、表現の匿名性が保障されていないと自由に発言できない状況として、たとえば表現者が特定されると表現者が政府によって弾圧されるおそれのある場合を想定してみましょう。いま北朝鮮金正日はとんでもない奴だと自由に発言することは危険でしょう。このとき表現の匿名性が保障されることは、自由な批判を行うためには不可欠ですし、言論の自由市場を守るうえで重要なことです。ただし表現者を弾圧するような政府が、表現の匿名性を保障するとは考えがたい。このような政府の下では、表現の匿名性の保障ということを「こうあるべし」と規範的に述べても仕方がない。

 むしろ表現の匿名性は、政府がどんなことをしようと物理的あるいは技術的に守られる必要性があります。これがFreenet*3の製作者イアン・クラークの実現しようとするもので、これはこれで実現する可能性があるでしょう。いま日本のISPが守っている匿名性というのは、表現者を特定することはできるが、あくまでリーガルな観点から特定させないというレベルのものです。このISPによる匿名性は、圧制国家の下では期待できない程度のものといえます。

2. 社会的制裁を受ける場合

 第二に、政府は弾圧しないけれども、表現者が特定されるとその表現者が「社会的制裁」を受けるなど、私人によって不利益を課せられるおそれのある場合を想定してみます。そのような表現は、表現の匿名性が保障されていれば、言論の自由市場によって供給されやすくなると考えられます。たとえば恥ずかしい趣味についてのブログを想定してみますと、これは匿名性が保障されていたほうが圧倒的にやりやすいわけです。つまり、社会的にはネガティブだとされていることも告白しやすくなります。

 しかし、この「社会的制裁を受けるおそれがある」というのは、「質の低い言論を自律的に排除する」という言論の自由市場の機能を働かせる条件でもあるわけです。「恥ずかしいことを言い続けるのはやめましょう」という抑止効果があるからこそ、人は質の低い言論を取り下げる。どんな表現を行っても社会的制裁を受けることがないとすれば、「恥ずかしいからやめよう」「つまはじきにされるのでやめておこう」という自律的な言論の淘汰機能が働かなくなります。これは言論の自由市場の機能不全をもたらすことを意味します。なぜなら言論の自由市場というのは、単にたくさん出てくるだけではなく、質の低いものを淘汰するという機能も期待されるからです。

 ネットで匿名性を擁護する人々のなかには、次のような表現をされる方が多くいます。匿名で発言することが認められるのは、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」が重視されるからである、と。肩書きではなく、内容が重要なのだとしばしば言われるわけです。しかし単なる論評のレベルであればそうかもしれませんが、事実認識の問題になるとそうもいきません。書かれていることからのみ、純粋にその真否を判断するのは往々にして難しいからです。「私は誰々にレイプされました」という発言があったとして、この書き込みだけを見てその発言内容が正しいのかどうかを判断することはできません。私のような実務法曹では、常にその言論が真実であるかどうかを裏付けるものについて考えています。事実との距離、利害関係、当該事実に関する前提知識の質および量、過去の実績といった諸々を斟酌できないとなると、当該情報を活用することは大変に難しくなるのです。

 たとえば「この薬の効用や副作用は何々です」といった表現については、その発言者が医師かどうか、何科の医師なのか、医師としての経験はどれくらいか、といったことが重要なファクターになるわけです。そうした情報がなければ、自分でその薬を飲んで確認するか、あるいは医学書を読んで確認するほかないわけで、大変なことになってしまいますね。つまり、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」だけを重視するというのは、噂話や論評のように「嘘を嘘と見抜く」必要がない場合でなければ難しいと考えられます。

3. 内部告発の場合

 最後に、表現者の匿名性がなければ困るとされる第三の例として、内部告発があります。

 内部告発は、まさに私人の制裁によって表現活動の萎縮が懸念される典型例とされています。たしかにうまく活用されれば社会の役に立つものですが、現実問題として、いまネット上にあがっている内部告発のどれだけが正しいのかといえば、これは難しいでしょう。

 しかも内部告発の場合、告発内容が真実であり、かつ当該事実にアクセスしうる人が限定されている場合、被告発者は告発者を相当程度絞り込むことができます。「こんなことを知っているのはあいつくらいだろう」というわけです。一方、告発内容が根も葉もないことであった場合、被告発者は告発者を絞る込むことはできないという問題があります。

 たとえば、ある週刊誌に「私は医師によって信じられない治療を受けました」と書かれた事件があって、私は医師側の代理人を担当しました。このとき、この告発した人物が誰かが分かれば反論も可能ですが、この記事ではAさんと書かれているだけで、誰なのかまったくわからない。どうやらこれは根の葉のない記事だったようで、依頼者の医師も誰なのかは見当もつかないという。もしこの医師が、本当に記事で訴えられているような治療を行っていたのであれば、それが誰なのかはわかるはずです。ということは、私的制裁を加える立場にあればそれも可能であることを意味します。つまり本当のことを告発する場合は、匿名表現を行っても、不利益を加えられる可能性は残るわけです。しかし、虚偽の告発であれば、制裁を加える方法はなくなってしまう。つまり、根の葉もないことを告発したほうが、むしろ安全は守られるという逆転現象が起こってしまうのです。

 内部告発というのは、告発をしたからといって直ちになにかが起こるわけではありません。重要なのは捜査の端緒となることで、然るべき機関が動いてくれることです。つまり内部告発の場合、瞬時に不特定多数人に公開されるべき必然性は乏しいと考えられます。むしろ真摯でかつ価値の高い内部告発ほど、匿名性を表向き守ったところで、告発者が絞り込まれる危険性が高い。であれば、まともな内部告発を活性化させるためには、匿名性を保障するよりも、内部告発者に対する不利益を課すことを禁止した方が現実的に有意味だと考えられる。

 それでは内部告発について、実際にはどのような法的保護がなされているのか。イギリスと日本の例を見てみましょう。

 まずイギリスの“Public Interest Disclosure Act”*4ですが、雇用主、顧問弁護士、監督官庁以外の組織へと告発する場合、それが保護されるためには条件が課されています。すなわち監督機関へ告発をすれば損害を受けると、正当な理由をもって思っていること。あるいは雇用主へ告発をすれば証拠が隠蔽・破壊されると、正当な理由をもって思っていることが要件とされているのです。

 次に日本の「公益通報者保護法」*5ですが、これは平成18年の4月に施行予定のものです。これも事業者内部、行政機関以外の外部への告発が保護されるためには、以下の事情のうちひとつを満たす必要があるとされます。内部や行政機関に通報すると不利益な取り扱いを受けるおそれがあること。内部通報では証拠隠滅のおそれがあること。事業者から内部や行政に通報しないことを正当な理由なく求められたこと。書面による内部通報後20日以内に調査を行う旨の通知がないこと。人の生命・身体への危害が発生する危険があること。以上のうち最低ひとつを満たし、かつ通報の対象となった法令違反行為について、被害の拡大等を防止するために必要であると認められる者に対してなされる必要があるとされています。

 つまり、2ちゃんねる内部告発をするのは、仮に前段の要件のひとつを満たしたとしても、被害の拡大を防止するのに必要とみなされるかといえば、かなり限定されるでしょう。つまり、2ちゃんねるへの内部告発はアウトになる可能性が高い。ここで外部として想定されているのはマスコミや、そうした問題を扱っているNPOなどの外部団体のことでしょう。

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