ised議事録

12-105. 倫理研第7回:共同討議第1部(3)

表現の匿名性を近代的討議理性の見地から擁護する――白田秀彰からの応答

白田:

 まず印象論から入りたいと思います。小倉さんの議論の進め方というのは、「ネット上には馬鹿がいる。その馬鹿がよってたかって攻めてくる。それは困るので、共通IDを入れよう」という論理ではないかと思うんです。「安全になりたかったら」というキーワードがピンときたのですが、小倉さんの議論の力点は、ID導入を強制はしないけれども、IDを採用しないと悪いことが起きるという状況をつくるところにある。つまり「法的なリスクを負いたくなかったら賢明になれよ」という論理です。これにはちょっと嫌な感じがしたんですね。

白田秀彰
白田秀彰

 私は過去の文章で「匿名をやめて顕名でやったらどうか」という議論をしたので、おそらく皆さんの想定だと小倉・白田組が共通ID推進者だと思われているかもしれません。しかしそれは違います。私の「顕名にしましょう」という議論は、ネットにはいいことを書いている人が一杯いるからこそなんですよ。既存のメディアよりもまともなことを書いている人が、結構な規模で存在し、彼らは彼らなりに貴重な時間を使って勉強して書いている。そんな立派な文章を書いているのに匿名にしている。これはもったいない。だから顕名できちんと斬りあうような議論をやってほしいという思いがある。だから顕名を勧めているのです。つまり小倉さんのように、馬鹿が多いから共通IDで匿名をやめてしまえとは一度たりとも主張していないはずです。小倉さんの議論はいわば視線の低い顕名の擁護であって、私の向いている視線はもっと高いところにある。そうした人々に向けて、顕名を推奨しているんです。

 もちろん小倉さんが炎上でひどい目にあっているのはよくわかるんです。しかし確率論的にいうと、私のサイトは10年近くやっているのでとっくに炎上していないとおかしい。

加野瀬:

 でも白田さんのサイトに掲示板ありましたっけ?

白田:

 いや、ない。

加野瀬:

 じゃあ炎上は起きないですよ!(笑)

東:

東浩紀
東浩紀
 コメント欄をつけたら一瞬で炎上したりして(笑)

白田:

 isedの皆さんが潰しにかかってくる可能性はあるね(笑)。それはさておき、以前Hotwiredで取り上げたように、白田-kagami論争というものがありました*1kagamiさんは少なくとも私との議論の関係においては、大変立派な議論をされる方だったのです。そもそも近代理性が予定していた討議ルールというのは、誰が発言していようと発言内容のみに着目して議論をするというものです。kagamiさんにどんな趣味があろうと、私との議論において、彼はまっとうな議論をしていた。たまたま私は彼がどんな人かは知らなかったわけですが、私は私なりに誠心誠意返事を書いて送ったら彼は理解してくれたわけです。つまり、互いに相手がどのような人かは関係なく、その議論の中身だけに着目して議論をする。これが近代の予定していた討議ルールだと思うんですね。

 いまネットワーカーたちが言論に対して持っている感覚の一番の基本となるものは、「思想の自由市場」だと思います。小倉さんが「言論の自由市場」と呼んでいたものですね。これが英米法的には言論の自由を支える大きな枠組みにあたります。ところがいまメディアが形成している「思想の市場」には、完全に商業主義的なバイアスがかかっている。たとえば小倉さんはプレゼンの冒頭で、「誰でもどんな商品を」と表現されているけれども、「商品=言論」というこの捉え方には違和感があるんですよ。経済的な価値と言論の内容の価値はまったく無関係であるというのが私の立場です。しかし小倉さんの論理でいくと、価値の高い言論には商業的価値があって、したがってそれは商業的なメディアによって市場の大部分を占めるというふうに聞こえてならない。もちろんそのような趣旨ではないと思うのですが。

 一方ネットワーカーたちが、少なくともインターネット第一世代の人々が考えていたのは、こうした商業的バイアスのかかった思想の市場に対するアンチをつくることだったと思います。商業メディアに対するアンチとして、ネットワークの言論が出てきたわけです。つまり既存の思想の市場は出来レースなんだというわけですね。出来レースという言い方を変えれば、ある特定の権力支配の構造があるということです。それが分かっているからこそ、匿名によって言論の内容だけに着目した議論をしたいとネットワーカーたちは考えた。そうした発想からネットワーク議論というものは出てきたわけです。

 では、ネットワーク上の議論がフレーミングやコメントスクラムという攻撃になっているのはなぜか。もちろん頭の悪い人たちがいるというのも否定はしません。しかし、それはネットワーク上の言論に何らかの権力構造を見出したセンシティブな人々が、その違和感をネット上で発露しているから起きているのではないか。つまり逆権力というか、自分たちのネット上でのパワーを使ってその権力を潰しにかかっているのが炎上ではないかという気がしてならないんです。たとえば私はHotwiredで「白田秀彰の『インターネットの法と慣習』」というコラムを書いています。私が普通の人であれば、「白田秀彰」と名前を書くのは意味をなさない。そこで語られている内容だけが問題になるわけです。しかしこれは自分でも認めることですし、皆さんも期待されることだと思うのですが、白田秀彰という名前が出てきたとき、そこにはすでに「法政大学社会学部助教授 法学博士」というバイアスがかかってしまっている。本当に私が公平な場で戦うのならば、名前を出さないほうがいい。実名で発言してメリットがあるのは、現実社会でもパワーがあって、しかも実際にお金を稼げる立場にある人たちが発言をする場合なんですよ。

 そういったパワーを持たない人からしてみると、実名で発言することは相対的に不利になるわけです。だからこそ完全に名無しさんの世界であれば、発言の内容だけで議論することができる。もともと近代における討議ルールはそういうものだった。しかしながら実社会には権力構造があって、法学博士だの弁護士だの東大教授だのたくさん存在する。そうした人々がネットにその肩書きを持って顕名で入ってくるということは、そのようなパワーを持ち得ない人々からすれば非常に不愉快な状態でしょう。だから自分たちの行使できる唯一のパワーであるところの集中攻撃によって、実社会でパワーを持つ人々を潰しにかかるのではないか。それが炎上コメントスクラムの背景にはあるのではないかと思うんですね。

 もしそうだとすれば、炎上コメントスクラムを排除しなくてはならないということに関して、一概に私は与することができない。ある発言に対して、どんなかたちにせよ批判が集中するというのは、言論の歴史上よくある話です。ネットワークによってその規模が非常に大きくなったことは認めますが、だからといって共通IDで制約するという話はすこし考えが違うのではないかと思えてなりません。

 次のコメントですが、小倉さんの講演には「質の低い言論」という表現がたびたび出てきます。しかし、なにをもって質の低い言論というのかが分からない。学者のくだらない言論もあるでしょうし、12歳の男の子による価値ある言論もあるでしょう。また資料の3ページ目には「質の低い言論を自律的に排除するという言論の自由市場の機能が働かなくなる恐れがある」と書かれています。私もこれに類似したことを考えます。ただ小倉さんがここで考えているのは、「レベルの低い議論は商業メディアに載らなかった。かつて思想の自由市場では、そうして排除機能が働いていた」というように私には読める。しかしですね、もし議論の内容だけがフラットに評価されるという前提に立てば、誰からも相手にされなかった言論の質は低いという見方は取れない。

 もし小倉さんのブログの価値が低いのであれば、それは誰も相手にしないわけです。相手にするだけの価値があったからこそ突っ込んできた。つまり質の低い言論というのは、事前に判断することはできないのではないかと思えてならないのです。ある発言というのは、事後的に見てはじめて質が高い低いと判断できる。そう考えると、「質の低い言論は、商業的バイアスのかかった既存思想の市場においてあらかじめ排除されてきた」というのは、ちょっと問題のある表現ではないかという気がします。

 最後にもうひとつコメントします。非常に気合の入った粘着さんはどうなのかという問題です。この粘着さんは特殊なパーソナリティを持った人ではないと仮定しましょう。ではそうなると、炎上の際に攻撃側のほうが数の上で多いとすれば、なぜ攻撃されている側よりも攻撃している側のほうが質が低いとされるのか。もし攻撃しているほうが質が低いというのならば、攻撃側の言論のほうがより多くの支持を集めている理由はなぜか。思想の自由市場の元々の考え方からすれば、価値の高い言論は多数の人間によって支持されるという仮定に基づいているわけです。たとえば私がなにかを書いて、それに対して何万件もの批判記事がきたとします。これは思想の自由市場のふつうの考え方でいけば、私が間違っていて攻撃側が正しいということになる。それなのに、攻撃をするほうがあらかじめ質が低いというふうに分けてしまっていいのでしょうか。

 逆にある特定のパーソナリティを持った人が、24時間張り付いて攻撃を加えているとしましょう。それを批判することもできますが、それはその人のパーソナリティになっているわけです。たとえばある特定の考え方がどうしても許せない人がいる。戦争を肯定することは許せないと主張し、自分の一生をかけてひたすら憲法九条改正論者を潰している。それがその人の政治的なポジションかもしれない。しかしこれは批判できませんよね。粘着さんというけれども、本人にとっては人生のすべてをかけた攻撃なのかもしれない。となると、ID制でこれを排除するという提案は、ある特定の価値観から見た権力構造をネットに持ち込みましょうと主張されているように聞こえるんです。

東:

 ありがとうございます。

 白田さんのコメントは三つに分かれていました。第一に、匿名とは言論を内容だけで判断することである。それは近代の討議空間がもともと理想としていたものだ。しかし実際には、商業的な言論市場はその理想を実現していない。そこで理性的な討議空間を再構築するためにこそ、匿名のネットワークはつくられてきた。そう考えることができる以上、コメントスクラムが多いから匿名を排除するというのは考え違いではないか。これが第一点ですね。

 第二点に、仮に言論が自由市場だとすれば、コメントスクラムは数の上で注目を集めている以上、言論の質が高いことを証明している。というよりも、そもそもこうしたプロセスがない限り、なにをもってして質の高低を判断するのかがわからない。言論の質は事後的にしか測定できない。そうである以上、コメントスクラムを事前に抑制するようなシステムを構築していいのか。それはむしろ市場の機能を喪失させてしまうのではないか。これが第二点目ですね。

 そして最後に、粘着さんが問題だというが、その粘着さんは命をかけているのかもしれないし、その人なりの表現方法なのかもしれない。粘着だからといって切り捨ててしまえば、はたして言論の公正さは保てるだろうか。これが三点目ですね。

 以上三点は密接に関係しているわけですが、小倉さんいかがでしょう。

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