ised議事録

12-1011. 倫理研第7回:共同討議第2部(3)

言論の予測市場――「空気を読む作法」のエンパワーメント

白田:

 どうすればいいんでしょうかね……。

白田秀彰
白田秀彰
 繋がりの社会性について、その逆を取れば、メッセージの内容をきちんと見ながら討議をするという古典的な討議ルールになります。これは第1部でも触れたように、「誰が」話しているのか、「どのような」場で語られているのかではなく、「何が」語られているかに着目しながら議論を行うということです。このルールによって、近代の社会と科学は成功してきたわけです。

 そして日本にもそういった討議ルールが移植されました。しかし結局定着していません。ただこの討議ルールは、日本ではおそらく教育現場においてのみ形式的に強制されてきたと思うんですね。当然我々は義務教育を潜り抜けてきています。討議ルールが形骸的に維持されているところを何年間かすり抜けて大人になっているわけです。さきほど朝日・岩波的な言論が戦後日本を覆ってきたという話がありましたが、これについてはおそらく皆さんも認めてくださると思います。私もすごくイヤだったんですね。小学校のときもそうだし、中学にいくとますますそうで、高校にいくとそういう先生とそうじゃない先生がいることが分かる。ただ、これを見分ける感覚はどのように身に着けてきたんだろうか。おそらくこういうことじゃないかと思うんですよ。

 学校という現場には言論表現の自由があって、「どんな意見でも言いなさい」と形式的には言われてきました。にもかかわらず、公式な見解としては朝日・岩波的な言論のラインに沿わなければならない。そういう暗黙の強制があった。表面的には近代主義に沿ったかたちで、「学級会では議論をしましょう」「相手の発言を聞いて答えないさい」と言われてきた。「言論・表現の自由があります」「あなたはなにを言っても構いません」と言いながら、ある一定の枠に従うということを学校教育の中で強制されてきた。その結果、我々はなにを得たのか。それは空気を読むというリテラシーだと思うんです。ちなみに私は空気の読めない人間です。空気が読めないものだから、社会のなかで居心地が悪いと思ってきたんですが、学者の世界は空気を読まなくてもいいんだ、ということが分かったので、この道に来たんだと思います。たぶん学者の先生方には、その雰囲気分かってもらえると思うんです。

 こうした空気を読む人々がマジョリティになる構造があったとき、ネットワークという便利なツールがやってくることで、繋がりの社会性という現象が起こってしまったわけです。空気を読むことを、隠された教育目標として叩き込まれた人間に対し、いまさら空気を読むことをやめて、内容に関して討議しろといっても無理ではないでしょうか。日本だと、公式ルールで「空気を読むこと禁止」というのはありえないわけです。しかし、西洋社会における公式の討議ルールはそれなんですよ。つまり、どんなに一見過激だろうが、どんなに反社会的に聞こえる意見であろうが、それはそれとして受け取りつつ議論を進めるのが公式ルールになっていたはずです。ところが日本の場合は国会から町内会に至るまで、周りがどう思っているかを探りつつ、だいたい自分がどういうところに落ち着くかを要求されるわけです。

加野瀬:

 まさに「言論の予測市場」ですね。

白田:

 そしてあいかわらず既存のメディアには、朝日・岩波的な議論のほうがどちらかというとマジョリティであるという雰囲気が残っている。この状況は変わっていくと思いますが、ネット言論がそれに対するはけ口となってきました。表の言論は朝日・岩波的だけれども、ネット言論は右的、もしくはアングラ的な議論が主流を占めてきた。表とネットの言論の均衡は、それなりに成立していたと思うのですが、おそらくテクノロジーの進展はネットの言論をエンパワーしている。既存のメディアは徐々に死につつある一方、ネット言論は、新しい技術革新や拡散によってどんどんパワーを得ている。その結果右翼的な言論が強くなってしまった。これがカスケードでしかないということは、国内の人であれば「空気読め」というリテラシー教育を受けているからよく分かる。しかし外国の人には、本当に右傾化しているように見えてしまう。もっと恐ろしいのは、ネットが既存のメディアを覆い尽くしたときに、本当にネット側のカスケード化した言論が主流になってしまうかもしれないということです。小倉さんの主張というのは、「一次資料を見ながら議論しなさい」というリテラシー教育をいまさらやっても間に合わないというものでした。60年以上に渡って日本は空気を読む教育をしてきたので、これはもう間に合わないわけです。

白田秀彰
白田秀彰
 となると、最終的にはこれしかないと思います。すごくつまらない結論ですよ。「日本はこういう状況です」と世界に向けて理解してもらうしかないのではないか(笑)。

東:

 つまり、日本人はお互い空気を読んでいるだけなんだから、その内容は一切気にするなと発信する(笑)。ひどいなあ。

白田:

 ふと思い起こすと、グローバル・コミュニケーション・センターというのは、日本の文化や政治的な状況について世界に理解をしていただくための機関として生まれたと聞きました*1

東:

 そうです。

白田:

 ということで、今後の課題はまさにこれでしょう。日本のコミュニケーション空間では、2ちゃんねる的な嗤う雰囲気や空気を読む作法が主流であって、内容に関する議論は成立しない。そして全体的にカスケードになっていることは百も承知の上で、その危ない橋を渡り続けるという国民性があり、日本の現代メディア状況がある。こうした状況についてきちんとした文書をつくり、ヨーロッパ人やアメリカ人にも分かるようなかたちで情報発信する仕事をしなくてはならないのではないか。

白田秀彰
白田秀彰
 もちろんそれは対処療法でしかないのですが、もし本当に東さんがニューヨークで見てきたように、「日本には韓国の嫌いな人がたくさんいるのだ」という誤解を生むような状況になってしまったら、それははっきりと「ネタなんですよ!」というべきです。「ネタとはなんだ?」といわれたら、ネタとはこういうものであると分かりやすく説明するための仕事をすべきです。一見すると馬鹿馬鹿しい提案かもしれませんが、それをしなければならない。社会学者の方々も、西洋の学者の議論を分析したり批評したりするアカデミックな作業をするのではなくて、「いまの日本の思想・言論界やメディアの雰囲気は、ことほどさようにヨーロッパのスタンダードとはかけ離れた状態になっている」と発信しないとまずいと思う。

 じゃあお前がやれと言われそうですね。言いだしっぺの法則というのがありますが、私には他の仕事があるので無理です(笑)。できればGLOCOMにやっていただきたい課題ですね。

東:

 まさにそうですね。しかし、非常に難しいとは思います。

 まず第一に、そのためには理論的な説明のフレームワークを構築し、輸出しなくてはならない。繋がりの社会性とはなにか。空気を読むとはなにか。こうした説明を普遍的にしなければならない。

 その点で、いまの加野瀬さんの「言論の予測市場」という言葉は非常にいい感じがしますね。ネットワークは、要するに予測市場をつくりやすいメディアです。空気を読むことが、要は言論の予測市場にほかならないのであれば、情報技術はまさにそれをエンパワーメントする。情報技術を言論空間に導入すると予測市場が活発化するわけで、それは日本の社会性がもともと持っていた空気を読むという振る舞いと大いに一致してしまった。そういうことなのかもしれませんね。

加野瀬:

 予測市場というのは、「どうすればマジョリティに入ることができるか」を予測するシステムということですね。それは世間強化システムともいえる。

東:

 はてなのキーワードランキングも、そういう風に使うことができます。どのキーワードが一番多く話されているのかグラフで出てくると、じゃあそれについて喋ろうという流れになる。

 こう議論を進めてくると、難しいなと思うこともあります。Google Suggestが問題だ、Amazonのレコメンデーションが問題だと我々はずっと議論してきました。その背後には、こうした仕組みは、自由をエンパワーすると同時に、不自由にもするという了解があった。しかし、そのような共通了解の前提にあるのは、実はこの国の情報的・社会的条件だったのかもしれない。もともと空気を読む社会だからこそ、ネットが出てくると、「誰かが買ったら俺もそれを買う」というカスケードがすごく起きやすくなる。その環境のせいで、日本人は、周りの人がなにを買ったのかがあまりにも見えてしまうと、逆に不自由になった気がしてしまう。そういうことなのかもしれません。アメリカでは、単純に選択肢が増えた、ハッピーでいいのかもしれない。

 ずいぶん話が発展してきましたが、繋がりの社会性についての理解はこういったかたちでよろしいでしょうか、北田さん。

北田:

 いえいえ、そんな大した概念ではありませんので。ただ空気を読むということが本当に昔から受け継がれてきた日本人の性質なのかどうか、別の領域で検証する必要はあると思います。しかし、インターネットが入っていきなり日本人が変わったというよりは、現代の情報技術がある種の傾向を特化して表出したと考えるほうが自然でしょう。そうとしか思えないような雰囲気が存在しているのはたしかです。

北田暁大
北田暁大
 すごくメタフォリカルな言い方をすれば、彼らは不自由には見えるのだけれども、本人たちはかなり自由を謳歌しているということですね。自由というのは基本的に主観的な判断がキーになる概念です。そう考えれば、自由といえば自由な社会が訪れているのでしょう。それを否定する根拠がなにかあるのだろうかと思いますね。

東:

 セキュリティの話にしても、日本はテロや犯罪のことなんてあまり考えていないんですよ。それこそ空気を読む文脈で使われている感じがします。「他のところも指紋認証をつけたから、うちも指紋認証をつけるか」というような。

加野瀬:

 体感不安というものですね。

東:

 そうです。最近では、塾の講師が女の子を刺した事件がありましたね。ああいう事件は監視カメラでは防げないと思うけど、それでもなんか論調は、カメラをつけろ、PHSをもたせるという方向になる。最近の日本では、通学路にカメラをたくさん設置しつつあるようですね。

加野瀬:

 最近は学校関係のセキュリティに関心が高まっているので、「スクール&ホームセキュリティ」という展示会があります。子供たちがつけたRFIDのタグをチェックする装置を通学路沿いの自動販売機に装備するというものがあって、「うわ、かっこいいな」と思いつつ(笑)、なんとも恐ろしいなと思いましたね。

白田:

 つまるところ、空気によって駆動され、ハイテクノロジーによって管理された、世界でも稀にみる滑稽な国ができつつあるということでしょうか。

東:

 空気というとぼんやりした話になりがちですが、予測市場と言いかえると多少明確になりますね。

白田:

 なにを目標とした予測市場なんでしょう。

東:

 おそらく、コミュニケーションの増大を目的とした市場でしょうね。他人の行動を的確に予測する技術を手に入れたので、それをフルに使っているということではないか。重要なのは、「空気を読む」というとなにか非合理的な行動のように見えますが、むしろこれは超合理的な行動だということです。

 前回ビッグブラザーは責任のインフレを起こすと辻さんは論じていました。匿名性が保障されないと、あれもこれも責任を負わされることになって、帰責行為のインフレが起きてしまう*2。責任のインフレというのは、別の言い方をすれば、コンテクストのインフレ*3ということです。そして近代的な合理性とは、このコンテクストのインフレを起こさないよう、個々の場面ではむしろコンテクストを限定してきた。たとえば、白田さんがこの論文を書いたということは判断材料に含める。その限りにおいては、コンテクストを読み込む。しかしこの白田が何者で、この論文は暗黙に誰々の批判をしているということは、あえて読まない。そういう作法になっていたわけです。それを知識としては知っているにも関わらず、あえて捨象していたわけですね。

 つまり、近代的な合理性というのは、「合理性を限定する合理性」だった。それは合理性の自己検定においてはじめて成立していた。しかし私たちが手に入れつつある情報技術は、この限定を解除し超合理的な振る舞いへと促している。そこで出てきたのが、この論文についてだれがなにをいうのか、できるかぎり大量のコンテクストをあらかじめ収拾して、論文の質の判断に活かそうという強迫観念でしょう。

白田:

 果てしなく深読みのできる社会をなんとかコントロールするために、またテクノロジーを入れて管理するしかないんですかね。日本はそれで回るのかもしれない。しかし日本とは異なるロジックで動いている国々に対して、こうした日本で起きているカスケード現象の背景を説明するのは大変難しいですね。大きな学問のネタになるかもしれない。

*1:註:GLOCOM - 沿革 (history)

*2:註:isedキーワード帰責性」参照のこと。

*3:註:isedキーワードコンテクスト闘争の前面化」参照のこと。

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