ised議事録

12-1013. 倫理研第7回:質疑応答

質疑応答

矢野直明(サイバーリテラシー研究所):

 矢野です。感想を最初にいいますと、大変刺激的な議論でした。私が知らないような最先端の話を聞かせていただいて興味深かったです。皆さんの真摯な討論には感銘を受けました。

 さて今日の議論についてですが、私自身も、日本人にとってIT技術はパンドラの箱ではないかと思うことが多いです*1。たとえばシェイクスピアの『リア王』のなかで、エドモンドという男が「主君に仕えるか、親に使えるか」という葛藤のなかでこう言います。「忠と孝の争いがいかに苦しゅうございましても、忠義の道を一筋に進む覚悟でございます」と。これがひとつの西欧的な生き方だと思うわけです。そのとき日本人は何と言うか。「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず。進退極まれり」と。つまりふたつの対立する問題があるときに、西欧人はどちらか一方を決断するという強い意識が働くけれども、日本人は基本的に判断を停止してしまうわけです。その結果、白田君も指摘したとおり、まわりの空気を読んでそれに従ってしまう。そのような行動パターンを取ってきたと思います。

 私はそのような日本的な発想が必ずしも悪いとは思わないのですが、IT技術は、「シームレスに境界を覆いつくす」とでもいいますか、さきほどの議論でいえば顕名と匿名をはっきりと分けてしまうような性格を持ちます。するとどうなるか。現実世界というのは、顕名でもあり匿名でもあるというように曖昧模糊としているものです。しかしこれがネットになると、顕名か顕名かがどうしてもはっきりしてしまう。ここから厄介な問題が出てきます。日本人は白と黒というような二者択一をせず、灰色というか玉虫色でやってきました。それはそれで具合の悪いことはたくさんあったが、うまくいっている面もあり、問題は顕在しなかった。ところがIT技術は黒か白かをはっきりさせてしまうので、日本人にとって非常に具合が悪いわけです。

 このように考えると、たしかにIT技術は日本人にとって空気を拡大する装置だと思います。ITはどちらかの選択を迫ってくるからです。嫌韓なのか、韓流なのか。これまでお互い曖昧にしてきたのですが、それがIT技術にかかってしまうと嫌韓はすべて嫌韓ということになってしまう。このようにして日本人の空気読みを促進してしまうのです。

 では、どうするのか。白田君のいうように、「日本人はそういうものである」と世界に知らせるべきか。それは難しいと思うんです。そこで結論としては、日本人はIT技術をあまり使わないほうがいいのではないかと思うわけです(笑)。

東:

 大変に素晴らしい提案、ありがとうございます……(笑)。

 いまのコメントは示唆に富んでいたと思います。リア王の話は面白い。たしかにおっしゃるとおりで、二者択一に直面したとき日本人は玉虫色のまま維持するということばかりしているんですね。

東浩紀
東浩紀
 これは冒頭に出した例ですが、西洋人なら、Amazonのレコメンデーションに問題を感じない。彼らはこう考える。「レコメンドされても、最終的に買うかどうかを決めるのは自分だ。選択の自由が残っているからいいじゃないか」と。たしかに正しい。しかし、日本人はレコメンドされるとなぜか買ってしまう。これはまさしく空気を読んでいるからです。レコメンデーションが大量に押し寄せるというのは、まさに空気の拡大にほかならない。どのサイトにアクセスしても、「あなたはこういうものを買うよね」と次から次へと押し寄せる時代になってしまった。私たちはそれを不自由だと感じる。こういう日本特殊論はありえます。

 もしそうだとすれば、ITのせいで不自由になったと思い込んでいるのは、もしかしたら日本人だけかもしれないという考えが頭をもたげてきます。僕個人としては、おそらくそうではないと思います。日本で強く現れているというだけで、普遍的な問題がここにはある。日本という特殊な環境は、IT技術がもともと持っていたコントロール拡大の側面を強く出す傾向にあるんだと思います。

 ともあれ矢野さんの提案は、「日本人はITを使わないほうがいい」というもので、大変にラジカルな提案でした。驚くべき結論ですが、たしかにそれも論理的な帰結だと納得しました。

矢野:

 もちろんそれは言葉の綾で、必ずしもそう思っているわけではないんです。ただ、IT技術にあまり大きい部分を占めさせないほうがいいのではないかということです。

東:

 わかっております。

 ともあれ、情報技術は空気の拡大装置である。僕はアメリカで質問されたとき、こう答えました。嫌韓というけれども、いま日本にはかつてないほど韓国のポップカルチャーが日本に入ってきており、大韓流ブームでもある。おそらく親韓の度合いも統計的には上がっている。それと嫌韓が並列されている。しかも別々の人間が集団を形成しているのではなく、同じ人間のなかで並列してしまっている場合もあるので、そこは注意する必要があると。いままでは一人の人間の内側で、韓国嫌いなところもあるが好きなところもあるという状態だったわけです。それがネットに上ると、一方はヘイトスピーチになり、他方は韓流になる。情報技術は、そんな「進退極まれり」的ないい加減さをかたちにしてしまうのですね。

 ほかにいらっしゃいますか。

オブザーバー(匿名希望):

 白田先生は、要するに日本の言論空間はおかしいので、世界に対してそれを広報する必要があるとおっしゃっていました。これはいいかえれば、日本の言説空間は世界からパージ(追放)したほうが、世界にとっても日本にとっても幸せだということです。ただパージされた側として、日本に暮らしている我々自身がいかに対処するかを考える必要があると思うんですね。

 いまは匿名空間でネガティブに語るほうが攻勢にありますが、単にそれに近寄らなければいいという問題ではない。いま日本のネット上の言説空間というのは、かたや2ちゃんねる的な匿名空間があり、そこでネガティブに言われた人が「2ちゃんねるはとんでもないところだ」と言い放って、今度はなんでもポジティブに語るmixi的な空間へ向かい、そこでは結局繋がりの社会性に捕らわれてしまっている状態です。ではどうするのか。なにか繋がりの社会性に巻き込まれない方法というものをガイドラインとして提示すべきではないか。なんとか日本でサバイバルするような方法を提示できないものかと思うんです。

東:

 質問の趣旨はとてもよく分かります。しかしここでの結論としては、それは無理ということになってしまった(笑)。あとはひとりひとりの努力でしかない。たとえば加野瀬さんであれば、サイバーカスケードが起きたとき、そのウォッチサイトをつくることで、一種の啓蒙的な役割を実践されているのかもしれない。

 どなたか答えがあるでしょうか。

辻:

 直接の処方箋ではないのですが、空気を読むという作法は「世間を気にする」ということです。これが有効的に働くのは、ある程度固定された関係性に限られます。人間関係が流動的でない空間においてうまくやっていくには、みんなの空気を読まなくてはならない。これは社会心理学で実験によって裏づけられている分析です*2

辻大介
辻大介
 しかし、現代の人間関係は非常に流動化しています。だとすれば、いまネット上で空気を読む作法が拡大しているように見えるけれども、それは我々がこれまでの関係性の作法を引きずっているだけなのかもしれません。今後日本社会の関係性が流動化することによって、こうした関係性に対処する作法自体が変わっていくとすれば、カスケード現象が引き続き起こるとは考えにくいのではないかと思います。

東:

 なるほど、こういうことですね。日本社会も本当は空気を読めないほどに社会の流動性は高まっている。ネット上であればなおさらで、匿名な対象を相手にしているのだから本当は空気なんて読めるはずがない。それなのに空気が読めると思い込んでいるために、変なことが起きているのではないか。

辻:

 そうです。かつての作法を引きずってしまっている。ネット上の流動的な関係性に適応するために、空気を読むのとは別の戦略が編み出されていくかもしれません。

東:

 それは希望の持てる話です。ネットのコミュニケーションが多くなってくれば、ネットでは空気が読めないということに、日本人が気付く可能性もある。素晴らしい結論だと思います。本当にそうだといいと思いますね。

 といったところで、たいへん長い長い研究会でしたが、これで締めたいと思います。委員の皆さんも、長い間ありがとうございました。たいへん充実した一年間でした。ここでいったん終了してしまうのは残念ですが、今後も、GLOCOMとも僕とも、なにかのかたちでお付き合いいただければと思います。

 それでは、会場の皆さん、委員の方々に拍手をお願いいたします。

(会場より大きな拍手)

*1:註:矢野直明氏のブログ→サイバー閑話: IT技術は日本人にとって「パンドラの箱」?

*2:註:『信頼の構造』(東京大学出版会、1998年 asin:4130111086)において、山岸俊男は、見知らぬ他者に対する「一般的信頼」の度合いを調査すると、流動的で個人主義といわれるアメリカのほうが、非流動的で集団主義といわれる日本よりも高いという実験結果を示す。山岸によれば、その原因は次のように説明される。流動性の低い日本型社会では、場の空気を読むことでコミットメントの関係をつくる作法が発達している。それに対して流動性の高いアメリカ型社会では、「どの人が信頼に値するか」を見抜く社会的知性が発達している。上記の議論については、倫理研第6回で辻大介が紹介している。→倫理研第6回:辻大介講演(3)

perasuraperasura2006/04/08 17:24嫌韓と韓流の重なり合いというのは、日本の宗教人口の話を想起させます。世間一般のレベルにおいて、現代で言うところの神道と仏教、その信者数を合計すると実際の総人口よりも多くなる、というのは有名な話だと思います。
近代より前の時代から、民衆レベルではどちらにしてもはっきりとした区別のあったものではないそれらの信仰は、現実的行為としても、思考類型としても曖昧なものとしてありました。神道(神祇信仰)は現世利益に関わりを、仏教は死後来世に関わりを主に持つと言われていますが、それは人が生きる現場において、その都度都合の良い方を、当の思想の体系に基づいて構築された世界観によって選択してきたのだと言えると思います。近代以降の学校教育現場に限定されない、思想的にもっとも強力に広大に作用していたであろう宗教的な範疇の問題として、日本という国ではおおよそダブルスタンダードこそがスタンダードとして機能していたということです。
現在日本の情報社会における「空気を読む」「予測市場」という状況を世界に知らせようとするのなら、そのときには、諸外国とは異なる価値観として、人間の尊厳としての自由の問題とセットで、宗教における状況も材料とすることが出来るのではないか、とふと思いました。

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/12131210