ised議事録

01-141.設計研第7回:鈴木健 講演(1)

題目:「なめらかな社会の距離設計」

設計研第7回:なめらかな社会の距離設計

鈴木健 SUZUKI Ken / 設計研第一回~第七回

http://www.picsy.org/

東京大学大学院総合文化研究科 博士課程 / PICSY / 国際大学GLOCOM 研究員
1975年生まれ。大学院では複雑系の理論認知科学の研究を行う傍ら、電子貨幣・地域通貨の研究を続け、現在、「伝播投資型貨幣」というコンセプトに基づいた"PICSY"の理論研究・実装に取り組む。共著書に「NAM生成」(太田出版、2001年)、「進化経済学のフロンティア」(日本評論社、2004年)。またPICSYプロジェクトは2002年度、経済産業省管轄 独立行政法人情報処理推進機構(IPA)の「未踏ソフトウェア創造事業」に採択、同年度の天才プログラマー/スーパークリエータに認定される。新しい貨幣の経済理論の探求と貨幣システムの設計構築、即ち社会科学とエンジニアリングをダイレクトに接続しながら、自らの思想の具現化を目指している。

0. はじめに

 これまで設計研の第4回から第6回まで、僕は司会役を担当させていただきました。前回村上さんに設計研の議論をまとめていただいているので、今日はようやく司会という重荷から解放され、好きなことが喋れるぞという心境です(笑)。

 本日の講演のタイトルですが、「なめらかな社会の距離設計」というものです。キーワードは「距離」です。我々が生きている世界には、さまざまな距離の感覚というものがあります。たとえば物理的な距離ですね。日本から見たらコンゴは遠い気がして、アメリカのほうが近い気がします。こうした物理的な距離以外にも、経済的な関係や文化的な関係にも距離が存在します。人間関係にも「遠い人」と「近い人」がいますよね。我々の認知的感覚として距離というものが存在しますが、この距離の感覚を我々はどのようにして変えていけるのかというのが、今日のテーマになります。

 今日の構成ですが、まず「情報社会とはなにか」について簡単に説明します。その次に、いま僕が作っているソフトウェアを紹介することで、「なめらかな社会」とはどういうものなのか、具体的に示していきたいと思います。そして最後に、「実は『なめらかな社会』などといっている場合ではないのかもしれないぞ」と思わざるをえない例を紹介して、講演を締めたいと思います。


1. 情報社会とはなにか

 情報社会とはなにか。研究会も13回目にして、このような問いが出てきてしまうのはそれ自体問題かもしれません(笑)。ともあれ、ここでは簡単に、情報社会を論じる2つの系譜について紹介しておきたいと思います(図:情報社会論の2つの系譜)。

図:情報社会論の2つの系譜
図:情報社会論の2つの系譜

 ひとつはメディア社会論としての系譜で、ヴァネヴァー・ブッシュ*1、マーシャル・マクルーハン*2アラン・ケイ*3といった固有名を挙げることができます。彼らの議論はこういうものです:人間は有史以前からメディアの能力を獲得していった。音声言語、文字言語、印刷技術、そしておよそ100年前にテレビ、そして30年前にパソコンが出現した。こうしたメディア的な変化というものが、我々の世界との触れ合いの仕方やコミュニケーションの仕方など社会全体に対して影響を与えていく。――これがいわゆるメディア社会論のコンテクストです。

 もうひとつは産業社会論としての系譜で、梅棹忠夫*4、ダニエル・ベル*5アルビン・トフラー*6ピーター・ドラッカー*7といった固有名を挙げることができます。いいかえれば、この系譜は文明論的なものといってもいいでしょう。彼らの議論は次のようなものです:かつて狩猟・採集生活を行っていた人類は、農耕というものを発明した。これによって穀物を蓄積できるようになった。すると貧富の差が生まれて、役割分担や分業制が発達した。さらに工業社会というものが、この2~300年のあいだに発達してきた。そしてこれに続いて、「情報社会」が到来するのではないか。――このように産業社会論では、人類の社会進化の歴史を通じて、産業的な変化が社会にインパクトを与えてきたと考えます。

 さて、この2つの情報社会論をおさえておくことによって回避できる、よくある勘違いをふたつ指摘したいと思います。第一の勘違いは、「情報社会とはインターネット社会である」というものです。いいかえれば、「インターネット上で起きていることが情報社会である」という考え方です。たとえば2ちゃんねるを分析すれば情報社会についてわかったつもりになるという見方がそれにあたります。しかし、これは「工業社会は自動車社会である」というのと同じ誤謬を犯しています。たしかに自動車は、工業社会の代表例であったかもしれません。自動車には、自動車独自の社会というものがあります。自動車産業という社会もあれば、道路を走るときのコミュニケーションのマナーやトラブル処理ルールという社会もあります。倫理研でよく議論される2ちゃんねるの問題というのは、いうなれば「自動車が普及しはじめたので、どうも交通事故が多い」というのに似ています。しかし、それはまったくもって工業社会の本質ではないのです。ネットでいまなにが起きているのかという現象論は、たしかに大事なことかもしれませんが、同時代的現象自体が情報社会の本質ではないということを認識しなければなりません。それでは、あまりにも近視眼的すぎるのです。

 第二のよくある勘違いとして、「人類社会は昔から情報社会である」というものがあります。昔から人間は情報を使っているのだから、いまはじめて情報社会に至りつつあるわけではないという議論です。これも「昔から工業社会だった」と主張するのと同じ誤りです。たしかに工業社会が訪れる以前にも、工業というものはありました。しかし、いまから2,~300年前に起きた工業社会への移行は、それ以前とは根本から違っています。この「根本的に違うなにか」という感覚が、いま現在の情報社会化の動きにも見出せるわけです。いまはまだ根本的な変化は起きていないけれども、現在の情報社会は産業革命初期に近い段階にあるといえるのではないでしょうか。我々は文明論として情報社会を捉える必要があります。文明論的な視点から見れば、情報社会は未だ到来していないのであって、だからこそ「情報“化”社会」とも表現されるわけですね。

 その一方で、佐藤俊樹さんのような論者もいます。情報社会というのは、情報社会を論じる人々の欲望が論じられているだけであって、決して訪れることはないという意見です。けれども僕は、おそらく数百年スパンで見たとき、情報社会は着実に文明論的な影響を与えると思うんですね。果たしてそれはどういうものなのか。これが今日のテーマになるわけです。


文明を設計する

 ただ、少なくとも情報社会において「文明を設計する」ということは、おそらく具体的ななにかを設計することではないと思います。情報というものの性質から考えると、それは世界の相互作用、情報の相互作用のあり方を設計するということになるでしょう。ではどのような設計をすればいいか。たとえば僕が現代社会の問題を考えるとき、いつもこう思うんです。百年二百年も前に比べて、現代文明の生産性は飛躍的に増加したにもかかわらず、なぜ1日8時間も働かなければいけないのか(笑)。なぜこれほど生産性が向上したにもかかわらず、貧困と飢餓に苦しむ人々がいるのか。こうした問題は、どうやら単に生産性が拡大しただけでは解決できない。つまり、コミュニケーションのレベルや社会システムのレベルにメスが入らなければ変わらないのではないでしょうか。

 工業社会段階において、人類は自然環境に対するコントローラビリティを高めてきました。いいかえれば、物理的なレベルで人類は勝利を収めてきたわけです。それにも関わらず、問題は依然として山積しています。これは結局のところ、コミュニケーションのレベルや社会のレベルの問題に対して、我々が対処しうる余地が残されていることを意味しているのです。ここにこそ、情報社会を設計する真の目的があると思います。


正義からゲームへの転換

 現代社会の特徴を一言で言い表せば、「正義」から「ゲーム」への転換が起きているということに尽きます。19世紀20世紀は正義の時代でした。みな正義について論じていたわけです。しかし最近では、誰も正義について論じず、その代わりにゲームを論じるようになってきています。

 「正義」というのは、敵と味方を区別することを強要します。敵と味方を区別した上で、その線引きには正当な理由があるということを主張するのです。何らかの絶対的な理由によって「我々は正義である」と主張するというロジックで動いているのが正義です。これに対して「ゲーム」とは、敵と味方を区別するけれども、その線引きは恣意的であるというものです。たとえばスポーツやビジネスがそうです。たとえばキリンビールアサヒビールが争っているときに、どちらかに正義があるという話ではありません。みんなゲームだと分かって争っているのです。

 現代社会というのは、「もはや正義なんてどこにもないから、ゲームのなかで戯れて遊ぼうじゃないか」という社会ともいえます。さて正義にせよゲームにせよ、通底するのは敵と味方をいったん区別してその中でなにかを為す、という世界観のなかで我々は生きているのです。

 しかし、僕はそうした世界観自体がそもそも問題をもたらしているのではないかと考えています。それは想像力と共感の問題です。たとえば、外国で飛行機が落ちました。日本で飛行機が落ちました。近くに飛行機が落ちました。こうしたニュースが飛び込んできたその瞬間、心臓はどのように反応するでしょうか。近くで飛行機が落ちたときの反応と、地球の裏側で飛行機が落ちたときの反応には、どうしても違いが生じるはずです。ここに、人間の持つ認知的な距離感の違いを見て取ることができます。では、外国で飛行機が落ちました、乗客に日本人がいました。その人の名前が自分の家族なのだとしたらどうでしょうか。距離はぐっと近づくわけです。たとえ物理的に離れていたとしても、距離の感覚、想像力の範囲、共感の範囲といったものは違ってくるのです。

 では、世界のどこかで物語やイベントが起きたとき、我々はどのように距離を感じているのでしょうか。ひとつの考え方は、「世界全体で起きたことは自分のものとして引き受けましょう」というものです。これはある種の倫理として皆さん教わっているものですね。地球の裏側で起きたことであっても、自分の身に起きたこととして引き受けるのが、正しい人間の生き方がである。そう教育を受けてきた人が多いと思うんです。

たしかに、それはすばらしいのかもしれません。けれども、すべての人間がそのようにして生きていけるわけではありません。実際には、自分に近しい人や、自分と関係のある共同体に対して、より近接しているという感覚を持っているものです。

僕は東京、横浜に関係しているので、距離的には沖縄や北海道は遠い。僕は沖縄には行ったことがないけれども、ひめゆりの塔の話を聞けば感傷的な気分になる。それは日本人としての感覚がもたらすものです。外国にも、その国ごとにそうした感覚を持つ場所がありますが、ぼくが必ずしも共有できるわけではありません。ある種の社会システム、たとえば近代国民国家といった存在は、共感の感覚の範囲に対してきわめて強い影響を与えているということは、このように歴然とした事実としてあります。

 つまり、「世界に対する離散化された想像力」というものがあるわけです。ひとつは、世界全体を引き受けんとする規範的な想像力です。これは現実的には不可能です。あまりに世界全体を引き受けすぎた人間は、東さんの言葉を使えば「動物」的な拒否反応を示してしまう。内ゲバのような、わけのわからないことを始めたりする。そういう無理なことはやめざるをえない。その一方で、離散化された範囲に限って想像力を適用し、部分最適をしていこうとする、いわゆるゲーム的な世界観がある。これにも僕は問題があると思う。後者の態度は、いまの経済なり政治なりに大きな影響を及ぼしています。それをどうにかしたいというのが僕のモチベーションになります。

2. 私的所有の生物学的起源

 さて、こうした距離をめぐる問題について、僕は生物学的なところに起源を置くことができると考えています。今日のためにムービーをつくってきたので、ご覧ください。

 このムービーの流れは、40億年の生命の歴史を追うというものになっています。生命はまず単細胞から始まり、多細胞生物へと進化し免疫プロセスを生み出します。そして身体を動かし制御するという体性感覚を持つことによって、身体の所有感覚が生まれてくる。次第に自己の身体だけではなく、「なわばり」という身体外部の所有感覚も生まれてきます。

図:私的所有の生物学的起源 図:私的所有の生物学的起源 図:私的所有の生物学的起源


 コミュニケーションをするようになると、不確定な他者の振る舞いを推測するために、本当は存在しない他者の心を、「存在するものとして推論する能力」が生まれます。これが「心の理論」といわれるものです。心というものは実際には存在しないのかもしれないが、「心は存在する」と見なす考え方は存在するというわけです。この他者の心を推論する能力を、今度は自分に適用することで、自己意識が生まれます。これによって、自分の行為は自分の所有物であるという感覚が生まれるわけです。

図:私的所有の生物学的起源 図:私的所有の生物学的起源

 こうして人間の歴史が始まります。人は土地をめぐるなわばり争いをしながら、複雑な人間相互の関わりをつくっていきます。次第に、小さい自由度で大きい自由度を制御するべく、「王」という存在にあらゆる判断を委ねるようになります。そしておよそ400年前に、王の代わりに「全体」という概念をつくることで、社会契約という発想が生まれました。そして現在に至るわけです。

図:私的所有の生物学的起源

 要するにこのムービーでいいたいことは、内側と外側を分ける究極的な根拠は存在しないということです。設計研第4回でも論じたのですが、人類の歴史とは、生命誕生以来、あらゆるものを概念的に離散化する歴史だったといえます。本当はきっぱり切り分けることはできないのに、我々はあらゆるものを内と外に切り分けて考えている。これを「なめらかでない概念」と僕は呼んでいます。たとえば内側と外側を分ける、敵と味方を区別する、ネットとリアルを分ける、それから生命と機械を分けるといったものですね(図:なめらかでない概念)。本来これらの境界は曖昧なのに、我々はこれを分けて考えているのです。

図:なめらかでない概念
図:なめらかでない概念

 それでは、なめらかな社会というのはどういうものだろうか。ここでアンチテーゼとして6つほど挙げてみたいと思います。

  • 1. 反俯瞰:世界全体を見渡すことはしないということ。
  • 2. 反蛸壺:自分の周りやコミュニティといった、ある特殊な範囲の内側だけを見ないということ。
  • 3. 反コミュニティ:社会全体か中間集団か、俯瞰か蛸壺かというように、ゼロかイチかで物事を見ないということ。
  • 4. 反最適化:全体最適であれ、部分最適であれ、ある共同体のなかで最適化することをしないということ。
  • 5. 反正義:いかなる絶対的正義も認めないということ。
  • 6. 反ゲーム:対等な関係間のゲームではなく、「距離」に応じたコミュニケーションへ。

 これらを満たすものが、なめらかな社会であると考えています。

 さてそうなると、新しい「世界の認知距離」というものを設計しなければなりません(図:「世界の認知距離」を設計する)。我々の知覚をなめらかなものに変えるということは、すべてをイチかゼロかとデジタルに切り分けないということであり、これはいいかえればアナログの距離をつくるということです。ちなみに「なめらか」の反対概念には、「フラット」と「ステップ」というものがあります。フラットはたとえば完全市場のことです。ステップは内と外を離散的(デジタル)な関係に切り分けるものです。たとえば国家という存在は、ステップに内側と外部を切り分けて、内側だけをフラットに(平等に)扱うものとして捉えられます。

図:「世界の認知距離」を設計する
図:「世界の認知距離」を設計する

 情報社会における新しい距離設計は、次の3つの領域にまたがることになります。下の図は公文俊平氏の著作*8から拝借したもので、軍事化・産業化・情報化という近代化の三局面を表したものです。このそれぞれの局面、つまり情報化に対しては「なめらかなメッセージング」を、産業化に対しては「なめらかな貨幣」を、そして軍事化に対しては「なめらかな社会契約」を対応させることで、新しい認知距離を設計できるのではないかと僕は考えています。

 そこでここから先は、いま僕がつくっているソフトウェアや論文について具体的に紹介していきたいと思います。


図:近代化の三局面
図:近代化の三局面

*1:註:ヴァネヴァー・ブッシュは、アメリカの工学者。コンピュータ科学の古典的論文「As We May Think」(邦訳は西垣通編著『思想としてのパソコン』(NTT出版、1997年 asin:487188497X)に所収)の著者として知られ、同論文では「memex」と呼ばれるシステムを考案し、パーソナル・コンピュータやハイパーテキスト等の原型となった。参考:ヴァネヴァー・ブッシュ - Wikipedia

*2:註:isedキーワードマクルーハン」参照のこと。

*3:註:isedキーワードアラン・ケイ」参照のこと。

*4:註:梅棹忠夫は、日本の比較文明論者で、1960年代という早い段階から、「情報生産論」などの論考を提出した(『情報の文明学』(中央公論新社、1999年 asin:4122033985)に所収)。参考:梅棹忠夫 - Wikipedia

*5:註:ダニエル・ベルは、アメリカの社会学者。主著に『脱工業社会の到来』など。参考:ダニエル・ベル - Wikipedia

*6:註:アルビン・トフラーは、アメリカの未来学者、文明論者。主著に『第三の波』など。isedキーワードである「プロシューマー」を提唱した。参考:アルビン・トフラー - Wikipedia

*7:註:ピーター・ドラッカーは、アメリカの経営学者。参考:ピーター・ドラッカー - Wikipedia

*8:註:公文俊平情報社会学序説』(NTT出版、2004年)。

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