ised議事録

01-144.設計研第7回:鈴木健 講演(4)

題目:「なめらかな社会の距離設計」

設計研第7回:なめらかな社会の距離設計

5. なめらかな社会契約

 ここまで、情報のレベルではなめらかなメッセージング、経済のレベルではなめらかな貨幣という新しい仕組みを提案してきました。そして最後に、「なめらかな社会契約」という国家のレベルを扱いたいと思います*1。そのための思想的パスとして、まずラッセル*2の『西洋哲学史』の次のような記述に目を向けておきましょう。

ルソー以降、みずからを社会改革者と目するひとびとは、二つのグループ、すなわちルソーに追随する者とロックに従う者にわかれてきた。時には両者は協力したのであり、両者が互いに相容れぬものだと考えない個人も多くいた。しかししだいに、その不両立はますます明白になるにいたった。現在では、ヒットラーはルソーの帰結であり、ルーズヴェルトチャーチルはロックの帰結である。

 ルソーというのは、皆さんも教科書などでご存知のとおり、『社会契約論』などの書籍によってフランス革命に影響を与えた人物です。「むすんでひらいて」の作曲家としても有名ですね。なんとなくルソーといえば偉い人だというイメージを皆さんお持ちだと思うのですが、ラッセルはそのルソーこそが「ヒットラーを生んだ」というわけです。それはなぜか。ルソーは『社会契約論』で次のように書いています。

そして統治者が市民に向かって「お前の死ぬことが国家の役に立つのだ」というとき、市民は死なねばならない。

 ルソーは決して右翼だったというわけではありません。彼は合理的に考えた結果、上のように書いているんですね。社会契約論の系譜を比較することで、それは明らかになります(図:社会契約説の比較)。社会契約説という概念を最初につくったのはホッブズ*3だとされていますが、これをロック*4とルソーはそれぞれ別様に発展させています。まず前者のロックは、市民がお互いに自然権を持っていると考えます。そして市民たちは、その自然権を信託する契約を相互に結んでいる。そして市民の集合たる政治社会は、統治者に対してこの自然権を「信託」しているとロックはみなすわけです。つまり、決して統治者に対してこの自然権を譲り渡したわけではないので、統治者に対する抵抗権や革命権を市民は保持している、とロックは考えるわけです。このように、とにかくロックはピアな契約概念というものを徹底しています。結婚とは夫婦間の契約に過ぎないのだから、離婚もOKといった考え方ですね。単にそう説明するだけでなく、実際に社会はそのようにして成立してきたと説明しています。

 このロックに対して、ルソーはこう考えます。かつて自然状態において、個人はそれぞれ孤立していた。ルソーはここに社会という全体概念が持ち込まれたとみなします。そして各個人は、その全体に対して自然権を「譲渡」するとルソーは考える。権利を譲渡してしまった以上、市民はその命令には従わなくてはいけないというわけです。


図:社会契約説の比較
図:社会契約説の比較

 簡単にいえば、ロックにおいては個人と個人が契約を結ぶのに対し、ルソーにおいては個人と全体が契約を結ぶという考え方の違いがあります。そしてこの思想的パスを受けて、僕自身はロックに肩入れしたいと思うんですね。

図:技術的パス Web 4.0
図:技術的パス Web 4.0

 次に技術的なパスについて考えてみます(図:技術的パス Web 4.0)*5。最近バズワードとしてWeb 2.0という言葉が流行していますが、これは簡単にいえば「みんなの情報を集めて、機械で処理できるようになったウェブ」ということですね。実際1995年頃のウェブというのは、個人ホームページが主な時代で、データはサーバごとに分散しているけれども連携はできないという状態にありました。これをWeb 1.0だとすれば、このデータを相互に連携するようにしたのが現在のWeb 2.0になります。しかし、その連携はまだ弱いものに留まっています。今後もっと強い連携を求める動きが出てくるでしょう。そうすると、「ASP SP(アプリケーション・サービス・プロバイダのサービス・プロバイダ)」とでもいうべき、ASPを提供するためのプラットフォームが出てくるようになります。これはサービスの開発と実行環境を同時に提供するというものです。たとえばning.com*6や、Salesforce社の開始した「AppExchange」などに見られる動きですね。これを来るべきWeb 3.0の段階としておきましょう。このWeb 3.0においては、データが一箇所に集中していくようになります。

 この次の段階であるWeb 4.0に入ると、データは集中から分散へと向かい、XMLは遍在するようになります。Web 2.0の段階では、たとえば映画のレビュー情報であれば、映画レビューサイトや個人ブログといった場所にばらばらに存在しています。これを同じXMLスキーマで統一することで、横連携が可能になるわけです。このXML情報は、あらゆる個人情報や生活情報に広がっていくと考えられます。何を読んだのか、何を食べたのかという一切合財の個人情報は、Web 4.0時代になると、自分のblogサーバーに一括して蓄積するようになります。というのもユビキタス時代になると、松下やソニーのそれぞれ開発する情報家電デバイスが、相互に連携する必要が出てきます。しかし、各社ごとにサーバを用意して、いちいち毎回連携をしていたのでは大変です。それならば、最初からデータを一箇所に集中させて、各デバイスがそこに情報を取りに行くほうが余程簡単なんですね。というわけで、blogはすべての個人情報を蓄積する「Lifelog(ライフログ)」になっていくと考えられるわけです。このライフログにはあらゆる情報が蓄積されるようになるので、かなり危険だともいえます。またすべての情報について、いちいち個々人が判断して設定を施すのは面倒です。こういったリスクやコストを負担すべく、個人情報保護産業が形成されるようになるでしょう。

 ユビキタス社会というのは、要するにそれまでパソコンやケータイといった特定のデバイスだけがコンピューティング能力を持ってネットワークに接続していたのに対し、ドアや椅子といった一個一個のものがネットワークに接続するようになるということです。たとえば、椅子に座ったら、この人は体重が重いので座ってはいけませんとか、なんでもできるわけです。パソコンなら、ディスプレイから光が出たり、スピーカーから音が出たりといった物理的な相互作用を起こしていましたが、ユビキタスではその範囲が無際限に広がるようになります。

 つまりWeb 4.0の段階に入ると、プログラミングをするということは、単にネットワーク上のコミュニケーションを媒介するといった次元に留まらず、ありとあらゆる物理的な影響力のコントロールが可能になることを意味するわけです。ドアを開かなくする、椅子に座れなくする、といったコントロールが可能になる。ここでようやく、先ほど検討した社会契約論と議論が重なるわけです。すなわちユビキタス社会とは、さまざまな契約を「自動実行」できる社会ではないか。この段階をWeb 4.1と呼んでおきたいと思います。

 Web 4.1においては、民事契約をXMLなどで記述し、それに基づいて契約が自動実行されるようになるでしょう。たとえば次のような例が考えられます。

  • 例1:ライフログに蓄積されたデータの公開範囲によって、付き合い方の範囲が決まってくる。あるビルに入るために必要なデータの公開範囲をビルの管理側が指定する。ユーザがそのデータを公開しなければそのビルには入れない。
  • 例2:まわりにタバコを吸う人しかいない場合に限り、タバコを吸ってもよいとする。過去にいつタバコを吸ったかというデータがライフログに残っていれば、タバコに火を点けることができる。もちろん、「自分はタバコを吸わないが、他人がタバコを吸うのはかまわない」という人の前では吸うことができる。そうした情報もライフログに保存する。

 つまり、いまならマナーや法律で禁止されているこれらの行為は、Web 4.1の時代になると、そもそもドアが開かなくしたり、タバコが着火できなくしたりするといったかたちで制限できるわけです。ドアやタバコの中に埋め込まれたユビキタス・デバイスが、周りの人間や状況を自動的に判定し、契約を自動実行するということ。東さんの言葉を使えば、これは「環境管理型権力」そのものといえます。

 さらにWeb 4.2の段階に入ると、白田さんがおっしゃったように、政府の法律も自動実行できるようになるでしょう(図:Web 4.2)。近代社会には立法・行政・司法という三権があります。このうち、立法と司法は人間がやるべき仕事だけれども、行政というのは立法されたことを着実に実行することが期待されていました。しかしいま現在、行政を人間が担うことで、むしろ曖昧さや柔軟性が生じており、これがさまざまな問題の原因にもなっている。であるならば、行政は機械がやるべきではないか。ただしこれは危険なアイデアでもあります。適正な運用をするためには、少なくとも自動実行されるプログラム・ソースを公開することが必須でしょう。他にも検討しなければならないことがいくつもあるでしょう。

図:Web 4.2
図:Web 4.2

 さらにこの先も考えることができます。Web 4.3というのは、そもそも立法自体をWeb 4.1的なピアの契約から構成しようという社会で、僕はこれを「構成的社会契約」と名付けています。いまの我々の社会では、選挙で国会議員を選び、彼らが官僚たちと共同で法律をつくっているわけですが、個々人どうしの契約からどこまで国家レベルの秩序に持っていくことができるかを考えてみたいんですね。たとえばこういう仕組みが考えられます。選挙権や投票権といったものは、いまだと選挙というある任意の瞬間に、「一人一票」という離散的なかたちで与えられていますね。しかしWeb 4.3の世界では、「あるイシューに関しては0.1の投票権、別のイシューは0.3」というように投票権を分散させることで、ダイナミックなガバナンスを実現するようになると考えられます。これはいうなれば「なめらかな民主制」とでも呼びうると思います。

 ルソーとロックの思想を、Web 4.1からWeb 4.3までにそれぞれ対応させると、図のようになります(図:Web 4.3)。Web 4.2はルソー的国家で、Web 4.3はロック的国家です。つまり、ルソーはステップ的なんですね。ルソーのいう「社会全体」というのは、結局のところ、ある限られたメンバーシップにとってのコミュニティを指すものです。だから、ルソーによれば社会が死ねといったら、構成員は死なねばならないわけです。しかし、なめらかな社会はそうではないのです。

図:Web 4.3
図:Web 4.3

 Web 4.1以降の社会を実現するには、どのような技術が必要とされるだろうか。そこで考えたのが、「サイバーラング」という言葉です。サイボーグという言葉がありますが、これはサイバネティクス(cybernetics)のサイバー(cyber)と、オーガニゼーション(organization)のオーグ(org)をあわせた造語で、機械と有機体を合体させるという意味合いを持っています。これに対しサイバーラングというのは、自然言語と人工言語を合体させるという意味です。これはどういうことかというと、人間と機械の役割を分離して、それぞれの得意分野を担ってもらうという考え方なんですね。つまり、自然言語でやっていることを人工言語に置き換えようというわけではなく、あくまでサイバーラングの関心は「得意分野の振り分け」にあります。つまり、条件を指定して、その条件が起きたときの具体的な処理をプログラミングで書いてしまおうということです。このプログラミングというのは難しいものではなくて、義務教育レベルを受けていれば誰でもできるものでなくてはなりません。また、間に人間を介在させるワークフロー的な処理もできるものです。

 その興味深い例が、以前設計研でも紹介したAmazon mechanical turk*7です。これはプログラムで人間の動作を規定するという試みなのですが、なにもロボットのように人間を操縦するというものではありません。人間にしかできない処理は人間にやってもらう、ということなんですね。たとえば「ホームページを作成する」という一連の仕事があったとして、「このホームページのデザインに適している写真を選ぶ」という仕事があるとします。Amazon mechanical turkでは、まずホームページ作成という一連の作業フレームワークをコーディングしておいて、「このタイミングで写真を人間に選んでもらう」と人工言語で記述しておくわけです。実際に仕事が走り始めて、あるタイミングに達すると、Amazon mechanical turkに参加している人間に対して実際に複数の写真が表示されます。そしてそのサイトに適した写真を選ぶ人が実際現れると、その人に対して仕事の対価が支払われるのです。つまり、仕事全体のスキームは機械的に記述されているんだけれども、人間にしかできない作業はそのときに応じて人間にやってもらうというわけです。

 このように、サイバーラングは、ちょうど法律の反対物だと考えるとわかりやすいかもしれません。現在の法律とは、自然言語のフレームに人工言語的なものを導入しているのに対し、サイバーラングとは、人工言語のフレームに自然言語的なものを導入するというものなんですね。

 最後に構成的社会契約の課題について触れておきます。カール・シュミット*8という政治哲学者がいるのですが、彼はなかなか冷徹な分析をしていて、「政治とは敵と味方を区別することである」と定義しています。つまり、僕の言葉を使えば、政治とはステップな関係をつくることだというわけです。ステップなものをなめらかにするのが僕の関心ですが、このシュミットの認識はある側面において正しいといわざるをえない。それはすなわち戦争の問題、暴力の問題、安全保障の問題です。強大な暴力を持った敵が現れたとき、果たして誰が敵で、誰がこれに抗する味方なのか、例外的状況においてこれを区別し認定するのが、政治の本質である。こうシュミットはいうわけですね。そしてそのような発想をしてきた国家こそが、これまで生き残ってきたという歴史的経緯があります。果たしてそのとき、「なめらなかな国家」はシュミット的国家に抗して生き残ることができるのか。「なめらかな国家」は、「なめらかではない国家」にあっさり滅ぼされてしまうのではないか。これが構成的社会契約の第一の課題です。

 第二の課題は生殖の問題です。なめからな国家において、果たして人口は維持されるのか。誰も子供を生み育てるということを選択しないようでは、そもそも社会全体を維持することができないわけです。非常に個人主義的なスキームである構成的社会契約な社会では、彼らがそのような選択をするとは限らないのです。第三に、誰もが自由に契約できる構成的社会契約の社会は、かえって多様性となめらかさを失うのではないかという危惧もある。おそらくこれらがなめらかな国家を実現する上での課題になるのではないかと思います。


6. サイボーグ(BCI)のネットワーク化は自我を変えるか

 ここまで話してきたことを簡単にまとめておきます。今日は3つのレベルに渡って、「なめらか」というキーワードについて提案をしてきました。すなわち智・情報のレベルではなめらかなメッセージングについて、産業・経済のレベルではなめらかな貨幣について、国家・軍事のレベルではなめらかな社会契約について、それぞれ具体的な提案をしてきたわけです。しかし、最近サイボーグ技術というものが出てきていて、「サイボーク技術によって、自分が考えていたのとはまったく異なる世界に一気に持っていかれてしまうのではないか」という懸念を僕は持ち始めているんですね。最後にこの話をしたいと思います。

 ご覧になった方も多いと思うのですが、2005年11月、NHKスペシャルで「サイボーグ技術が人類を変える」という番組が放映されました*9。この番組では、人工の「手腕」「耳」「眼」といったサイボーグ技術だけでなく、脳にパーツを埋め込むことでパーキンソン病を克服する技術や、考えるだけで直接コンピュータを制御できる「Brain Control Interface(BCI)」といった技術が紹介されています。BCIはいますぐにでも欲しいくらいです(笑)。かつてはSFでしかなかったサイボーグ技術が、いまや驚くべきスピードで実現されているんですね。

 僕はこういった技術に5,6年前から興味があったのですが、当時はまだほとんど実現しているものはありませんでした。しかし、この番組で紹介されているように、サイボーグ技術は急速に実現化されつつあって、これは僕の想像をはるかに超えるスピードです。おそらく5年から10年くらいでかなり実用化されてくるんじゃないかといわれています。このことが与える社会的な影響力は非常に大きいと思うんですよ。

 そもそもコンピュータ・サイエンスの歴史では、AIとIAの対立の歴史がありました。AIとは、Artificial Intelligenceつまり人工知能のことです。これはチューリング*10、ミンスキー*11ブルックス*12といった研究の系譜で、「人間と同じようなことができる機械を人工的につくる」というものでした。それに対してIAとは、Intelligence Amplifierつまり知能増幅器のことです。つまり「人間ができることを機械によって増幅する」という発想であって、いま皆さんが使っているパソコンやインターネットはそういった考え方の延長にあるものです。こちらはブッシュ、エンゲルバート*13アラン・ケイといった研究の系譜に属しています。西垣通さんは、コンピュータの歴史はこのAIとIAが交錯しながら発達してきたと論じているのですが*14、社会的な影響力という観点でみればIAの側に軍配が上がっているといえます。機械には機械の得意なものがあり、人間には人間の得意なものがある、という決着がついたわけです。

 さて、このAIとIAの対立というのは、ロボットとサイボーグの関係に置き換えることができます。ロボットはハードウェア版のAIとでいうべきもので、完全に人間と同じようなロボットをつくろうという発想ですが、これは実現できないだろうと思います。研究それ自体は僕もとても好きなのですが、向こう100年200年で実用に耐えるものが出てくる可能性はない気がする。むしろハード版のIAであるサイボーグ技術やBCI技術のほうが、これからどんどん伸びていくと思われます。Brain Computer Interfaceとユビキタス・ネットワークがともに実現すれば、世界のどこかにあるデバイスを考えただけで動かすことができるようになるわけで、これはかなり様々な社会システムに影響を与えていくことが想像されます。

 では、この技術は根本的になにを変えるのでしょうか。それは我々の自我や自己の概念にほかなりません。現時点の神経工学の技術では、感覚野や運動野といった神経系との接続に留まっていて、連合野や前頭葉といった高次の領域と接続したとき、どういったことが起こるのかはまだわかっていないんですね。おそらく自我や自己といったものは残るのではないかという考え方も根強くあります。たしかに進化や形態形成の歴史は非常に長いので、それほど簡単に崩れないだろうと僕も思うんです。

 しかし、脳科学には「分離脳」という事例があります。右脳と左脳の間を通っている脳梁というパイプがあるのですが、てんかんの症状を緩和するためにこれを切断する手術があるんですね。この手術をすると、右脳と左脳がまったく別の行動をすることがあって、あたかもふたつの自己があるかのように振舞い始めるのです。たとえば患者のそばに奥さんがやってくると、患者の右手は「いらっしゃい」と振舞うのに、左手は「あっちへいけ」と振舞うことがあるのです。その他にも解離性人格障害(多重人格)のような症状もあります。このような事例を鑑みると、脳の高次の部分とのBCIが可能になったとき、なにも起きないとは考えにくい。そのとき、自我や個人といった概念はどうなるのだろうか。こういった問題を、いやがおうにも考えざるをえないと思うわけです。

 まとめると、次のように整理できます(図:サイボーグとポストモダン)。かつて印刷物と物流というメディアの登場によって、思想的には「個人主義に基づいた全体主義」という概念が構築されました。これが近代という時代です。その根拠は心身二元論でした。そして今日僕が話してきた「なめらかな社会」というのは、印刷物や物流といったメディアがPCやインターネットに置き換わっていくことで、「全体主義がなくなって個人主義になる」という一言に要約できるわけです。この僕の議論は、「人間」という存在を前提にしています。その根拠とは、「ひとつの脳の中にひとつの心がある」ということです。いいかえれば、「あまたあるメディアの中で、脳内の情報伝達こそがもっとも接続距離が近くて密である」という端的な事実性からきているのです。しかしBCI技術は、「脳内の物理的距離と接続の距離は相関しない」という帰結をもたらします。このBCI技術などの台頭によって、「人間=脳内接続が一番距離が近い」という前提さえも崩れてしまうとすれば、今日話してきた内容はすべて成立しないのです。果たしてそのような社会は訪れるのか。訪れたとき、なにが起こるのか。この問いは完全にオープン・プロブレムで、誰も答えることができません。だからこそ、いまからこうした議論をしておくべきだと思うんですね。isedは今回が最終回ですので、おそらくこの問題をじっくり議論するわけにはいかないのですが、もしこのような場が今後なんらかのかたちで続いていくとすれば、この最後の問題について議論していきたいと思います。


図:サイボーグとポストモダン
図:サイボーグとポストモダン

 今日の議論は、「距離」という視点に着目することで、「なめらかな社会」という提案をしてきました。情報技術というものは、世界の距離を再定義することを迫ります。それを逆手にとって、情報技術によって世界の距離を再設計してしまおうというのが今日の話でした。したがって、その背景となる価値観は情報技術の外部にあるものです。そして最後に、BCI技術の進展がもたらすであろう「距離」の変化に注目することで、今日の議論の射程を超える視点を示唆しました。今日の話を聞いて、同じような問題意識をもってソフトウェアを書く人がひとりでも増えれば望外の喜びです。

 以上になります。どうもありがとうございました。



*1:註:以下の「なめらかな社会契約」についての論考は、鈴木健構成的社会契約試論」(『InterCommunication No. 55』第15巻第1号、2005年)でもフォローすることができる。

*2:註:バートランド・ラッセル - Wikipedia

*3:註:トマス・ホッブズは、17世紀イギリスの政治思想家で、『リヴァイアサン』などの古典的著作で知られる。トマス・ホッブズ - Wikipedia

*4:註:ジョン・ロックは、17世紀イギリスの政治思想家。その主著『市民政府二論』は、講演中でも触れられている「革命権」などの概念を提示することで、名誉革命立憲君主制への確立)を思想的に正当化したといわれる。また自然法・自然権の考えに沿って、自己所有権を正当化する議論を展開し、リバタリアニズム(自由至上主義)の源流ともみなされる。ジョン・ロック - Wikipedia

*5:註:以下のWeb 4.0をめぐる論考は、倫理研第6回での鈴木健による応答(Web 4.0の未来とライフログ――鈴木健からの応答)もあわせて参照のこと。

*6:註:以下の鈴木による記事を参照のこと。→PICSY blog: Ningは次のgoogleか?

*7:註:以下の鈴木による記事を参照のこと。→智場web:「Web2.0と新しいフォード主義」(国際大学GLOCOM

*8:註:カール・シュミットは、20世紀ドイツの政治学者で、ナチスの御用学者だったことで著名。主著に、講演中にも触れられている「友/敵理論」の展開された、『政治的なものの概念』など。参考:カール・シュミット - Wikipedia

*9:註:関連情報として、以下のページを参照のこと。→NHKスペシャル補遺 - SCI(サイ)第54回 「脳とは何か」を解き明かすサイボーグ研究最前線 - 立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」 - nikkeibp.jp

*10:註:アラン・チューリングは、20世紀イギリスの数学者で、コンピュータ科学の基礎をつくった人物の一人。現在のコンピュータの基礎モデルとなる「チューリング・マシン」の構想や、人工知能の試験方式である「チューリング・テスト」の提案などで知られている。参考:アラン・チューリング - Wikipedia

*11:註:マーヴィン・ミンスキーは、アメリカのコンピュータ科学者・人工知能研究者。主著に『心の社会』。参考:ちえの和WEBページ:コンピュータ偉人伝:マービン・ミンスキー

*12:註:ロドニー・ブルックスは、アメリカのコンピュータ科学者・人工知能研究者。主著に『ブルックスの知能ロボット論―なぜMITのロボットは前進し続けるのか?』。

*13:註:ダグラス・エンゲルバートは、1960年代に、現在のパーソナル・コンピュータの基礎的な環境である、マウス・インターフェイスやマルチウィンドウ・システムなどを開発した人物。アラン・ケイにも大きな影響を与えた。参考:ちえの和WEBページ:コンピュータ偉人伝:ダグラス・エンゲルバート

*14:註:西垣通編著『思想としてのパソコン』(NTT出版、1997年 asin:487188497X

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