ised議事録

01-146. 設計研第7回:共同討議第1部(2)

情報技術は想像力や関心の幅を拡張するのか――近藤淳也からの応答

東:

 それでは近藤さんに、最初のコメントをお願い致します。

近藤:

近藤淳也
近藤淳也

 鈴木さんの講演に、はてなでPICSYを使った人事システムの実験を行ったというお話がありました。まず最初に、この事例について紹介したいと思います。その次に、「距離の適正さ」というテーマに関して自分なりの問題意識を持っているので、想像力と関心という観点から論じてみたいと思います。

 まず事例からです。去年の12月に、はてな社内のボーナスの配分として、PICSY人事評価を実施しました。はてなも社員数が増えてきたので、適切な人事評価をどうすべきか、ちょうど私も考えていたところだったのですが、個人的にはGoogleのPage Rank的な仕組みがよさそうだと思っていたんです。そのころちょうど鈴木さんとPICSYの話をするきっかけがあって、それならマッチしそうだねという話になって、実際に実験をする運びとなりました。

 今回の実験では、利益連動ボーナス額の配分に使用しています。これは規定報酬外になるので、さすがに給与全額に適用するという過激なことはやっていません。今回は13人で相互評価をしています。スライドに記入シートの項目を貼ってあります(図:PICSY人事評価)。「一年間の会社への貢献度をもとに、100点満点で単位期間ごとの平均貢献度を採点してください。目標に対する達成度ではなく、一番多い人を100として他の人を相対的に評価してください」というお願いをして、記入シートに点数を書いてもらいました。それをPICSYのアルゴリズムで計算するわけですね。

 実際にはどうだったのでしょうか。まず金額がかなり大きいので、みんな真面目に、相当時間をかけて取り組んでいたと思います。次に、経営陣が考えていたほどには評価に差は出ませんでした。よくよく考えてみると、「自分が真ん中より下の順位になるだろう」と思っている人は評価に差をつけません。というのも、差をつけないほうが得だからです。そういう戦略が実際に行ってみると見えてきました。

図:PICSY人事評価
図:PICSY人事評価

鈴木:

 一番得をする戦略は、自分を評価してくれる人を評価することなんですね。

近藤:

 鈴木さんもおっしゃるように、GoogleのPage Rankと同様、PICSYにもSEO的問題があるわけです。SEO的なテクニックが、PICSYにもほぼそのまま使えてしまいます。これは真面目にやると随分差が出るではないかと思いました。ともあれ、今回算出された評価順位はすべて妥当であると思われたので、一定数の減算以外の処理は行わずに、そのまま配分に利用しています。

 問題はいくつか見えてきました。まず、「自分を評価すべきかどうか問題」というものがあります。他人は評価できたとしても、自分をその順位の中に並べることはできない人をどうするのかという問題ですね。次に、「お互いの業務をよく知らない問題」というものがあります。この場合は、「あの人の評価を信じます」という委譲をしたり、あるいは空白にして「他の人の平均点を使ってください」としたり、あるいは鈴木さんのおっしゃっていた「カンパニー」のようなフィルタを利用したりするわけですが、この問題は案外に大きかったです。人が増えてくると、この問題はより大きくなると思います。また、「最後の一ヶ月問題」というものもあります。最後の12ヶ月目に頑張ることで、みんなの印象に残りやすくなり、みんなから評価されやすくなるわけです。これは評価の期間を短くすることで対策できます。

 以上が、実際にPICSY人事評価をやってみての感想になります。来年も実施するつもりですで、オンライン上で情報公開をしていきたいと思っています。

 次に、議事録の共有について、一言だけコメントしたいと思います。私の会社でもミーティングを公開しているのですが、最近は音声録音に大きな可能性があると思っています。議事録の公開にはいろいろとコストがかかるものですが、音声録音は録音ボタンを押すだけなので、一番コストがかかりません。その割にいいところもあります。たとえば、「言い方がムカつく」といった感覚というのは、議論には上ってこない問題ですが、実際にはネックになることが多いものです。音声録音をすることで、そういった問題を改善するチャンスが増えます。また、Podcastがかなり普及してきているので、音声データのなかから重要情報を抽出する技術は今後大きく発展すると思います。音声はテキストに比べて情報を抽出するのに時間がかかりますね。5分のデータから情報を取るのに、まるまる5分かかってしまうわけです。これがアメリカのほうでは、すでにPodcastの検索エンジンが登場しています。テキストを入力すると、そのテキストを含むPodcastを検索できるうえに、再生ボタンを押すとそのポイントから再生できるんですね。この分野の技術は、数年間で相当普及が進むでしょう。かなり可能性がある分野だと思います。ちなみに、業務中の私の発言のうち、いまや50%以上が録音されています(笑)。社員であれば、近藤の発言はほぼ聞けるという状況にあります。

近藤淳也
近藤淳也

 ここまでは具体的な話だったのですが、ここからは想像力と関心の行方というテーマで、普段から感じていることを話してみたいと思います。

 認知限界といった話も出てきましたが、人間には興味や関心の範囲に限りがありますよね。しかし鈴木さんは、「より広い想像力や認知力を持つべきである」という暗黙の前提を持たれているという気がします。たとえばSTNであれば、2ホップ先、3ホップ先、さらにその先……といった具合に、「遠くの人に興味を持ったほうがよい」という価値観が込められている。PICSYであれば、「直接取引をした人の向こう側にも想像力を働かせるべき」という価値観が入っている。しかし、興味が広いほうがよいという価値観は自明なものでしょうか。

 これは経験則ですが、全員参加の活発なミーティングというとき、せいぜい15人くらいが限界ではないかという気がします。その限界をもたらしている原因はなにかを考えてみますと、まず参加者のスキルの問題があります。適切な意思表示ができるかどうか。客観的な理解ができるかどうかといった問題ですね。これはある程度改善可能でしょう。その次に、物理的限界があります。早口で話したらどこまで聞けるかどうか、といったような限界ですね。これも情報システムによって拡張可能でしょう。システムの限界は、音声を誰でも録音できるようになれば、どんどん進化していくと思うんです。しかし、一番の問題は想像力の限界です。相手がやっていることに、どれだけ想像力がまわるのかという問題ですね。これは結局のところ、情報技術ではあまり変わらないと思うんです。これはミーティングに限りません。STNやPICSYが浸透していくには、想像力や各個人の関心の幅にかかってくるところが大きいのではないでしょうか。

 実際、これまで物理的限界が最大のボトルネックだったと思うんですね。つまり、離れた人どうしの情報伝達が一番のボトルネックだった。しかし、いまやシステムが人間の想像力の限界を追い越し始めているわけです。私が興味を持つのは、その追い越したあとどうなるのか、そのときシステムの優劣を決める要素はなにか、といった問題です。システムをつくる側としては、システムが人間の想像力の範囲を超えた時点で、その優劣を判断する要素は変わってくるのだろうと思います。

 次に、人間の想像力はどこまで変化するのでしょうか。習慣や努力や教育によって、想像力の限界は広がるのでしょうか。考えたことを図にしてみました(図:想像力、関心の行方(1))。中心円が、いま現在の社会において、個人の取得できる情報量の限界です。その周囲に、潜在的に欲求している情報量があります。つまり、本当はこれくらいのことを情報として知りたいだろうという余地があるわけです。しかし、情報技術はこの範囲を超えていきます。情報社会においては、取得可能な情報量の限界が興味の範囲を超えてしまうということです。さらに一番外側には、全世界の情報量があります。しかし、世界のすべてを知ることはそもそも不可能です。ではこのとき、新しい想像力と関心の範囲はどこに線引きされるのでしょうか。それはどのように設定されるのでしょうか。

図:想像力、関心の行方(1)
図:想像力、関心の行方(1)

 すこし視点を変えてみましょう。そもそも「適正な」想像力や関心といったものは存在するのでしょうか。あるいは、それはいかにして規定されるのでしょうか。たとえば企業の開発者であれば、売り上げを意識しているわけですよね。こうした「目的ある組織の内側での最適化」を、適正な想像力だと呼べるのか。あるいは食べ物を捨てるとき、飢餓に苦しむ人々のことを考えてみる。この「遠くのことを考える」というのは、適正な想像力だといえるのか。あるいは自動車で二酸化炭素を排出するとき、孫がどれくらい苦しむかといったことを考えてみる。この「時間軸の距離を超えて想像する」というのは適正といえるのか。あるいは友達が10人より100人のほうがよいということは自明なのか。このように、その時々で最適さを規定する基準は変わりうるわけです。

 それではどの基準によって規定されるべきなのでしょうか。基準のひとつに、各個人の興味に任せておけばよいという考え方があります。しかし、各個人は勝手に知りたいと思う情報を探せば果たしていいのでしょうか。たしかに、誰かが決めるよりはそれが自然なのかもしれません。もしかしたら、資本が市場で取引されるように、情報に関しても市場がつくられていくのかもしれないと思います。それに対して、「幅広い関心なんか持ちたくない」という人もいますよね。おそらくこの会場にいる人は、情報の好きな人しかいないと思いますが(笑)。ただ多くの個人にとって、「いま取得できる情報の限界」と、「本当はこれくらいのことが知りたい範囲」とのあいだの余白は、それほど大きくないと思うんですね。この点に関しては、もっと定量的な研究が行われてもいいんじゃないかと思います。

 また、かつては社会的分業というと、たとえば牛肉を食べるときに屠殺のことを想像しながら食べるといったことがあった。しかし、今後情報量がどんどん大きくなっていけば、偶然的理由から分業せざるを得なかった状態から、「知ろうと思えば知ることができる」という状態に移り変わっていくわけです。そうなると、社会的分業の意義についても再定義する必要が出てくるかもしれません。

 こうした議論を突き詰めていくと、最後は教育制度の設計に行き着くのかなと思います。義務教育というのは、『これだけは共有すべき』という情報共有の国家的システムだといえなくもない。つまり「その社会に存在する個人であれば、最低限これだけの情報は持っておくべきだ」という議論をするとき、最終的にその「べき」を実現するのは義務教育が担保するところが大きいのではないかと思います。

近藤淳也
近藤淳也

 最後に、下のようなグラフを描いてみました(図:想像力、関心の行方(2))。横軸が人口の分布で、縦軸は求める情報量です。一番左がたくさん情報を求める人で、一番右が情報をあまり求めない人になります。黄色の線は「潜在的な情報欲求曲線」を表していて、たとえば一番左の人は、あればあるほど無限に情報が欲しいと思っています。一般的な人は、ちょうど中間に分布しています。そして一番右の人は、情報はまったく必要ないと思っている。このグラフは、ちょうど「なめらか」の曲線を横に倒したような形状になっていると思います。

図:想像力、関心の行方(2)
図:想像力、関心の行方(2)

 そして赤の線は、「個人が取得可能な情報量」、すなわちいま現在物理的な限界によって押さえ込まれている、個人の取得可能な情報量の分布を表しています。情報社会になると、この赤の曲線はどんどん上に上がっていきます。情報を取ろうと思えば、いくらでも情報が入るようになっていくわけです。そのとき果たしてどうなるのかという話を今日はずっとしてきたわけです。

 そこでグラフは3つの領域に分かれています。一番左の領域Aは、「これまでもっと知りたかった情報を多く取れるようになる」という人々です。真ん中の領域Bは、「すこしだけ余分に情報を取れるようになる」という人々が大多数存在しています。一番右は、「そもそも情報が多く取れるようになったところで意味はない」という人々です。おそらく領域Aというのは、「学者の高速道路渋滞現象」のような状態です。ある一定の知識レベルであれば、誰でも高速道路のようにすぐ到達できる。しかし、そこから先は大渋滞が起きて、どういう差異化をするのかという競争になるわけです。領域Bでは、「専門家の大衆化」が起きます。すごく狭い範囲に異様に詳しい人たちが、たくさん出てくるようになるという話ですね。規模の面で見ると、ここがもっともビジネス・インパクトを持ちますし、たくさんの人間を相手にした理論が必要になってきます。少なくとも私にとっては、ある一部の人の興味を満足させるだけではなく、多くの人に受け入れられる要素を発見することが重要な課題になっています。おそらく鈴木さんの提案するSTNやPICSYが社会に行き届くかどうかは、この領域に到達するかどうかが非常に重要なキーになると思います。

 最後のコメントですが、鈴木さんは「脳内の物理的距離と接続の距離が相関しなくなる」という話をされていましたよね。神経接続をするようになれば、脳が身体の中にあることの意味はほとんどなくなるというわけです。しかし、これにはすでに反例があります。それはインターネットです。インターネットというのは、どのサーバにどのコンテンツが入っているかは基本的に関係のない世界であって、すなわち物理的距離と接続距離は相関していません。にもかかわらず、人々は「はてな村」のように、ドメインによって「場所」を認知しているわけです。この例からもわかるように、完全に距離がゼロになる世界はおそらく実現することはないと思います。以上でコメントを終わります。

東:

 ありがとうございました。では鈴木さんから応答をお願いします。

鈴木:

鈴木健
鈴木健

 色々ありましたが、一言でいえば「鈴木健は押し付けがましい」というコメントだったと思います(笑)。たしかにご指摘のとおりなのですが、誰も欲求していないことを僕はなぜ押し付けようとしているのか。この押し付けがましさはどこからくるのか。それが問題になると思います。

 人間は欲求のままに振舞っていると、居心地のいいところに落ち着いて、「楽しいからいいじゃん」といってタコツボ化していきますよね。僕はそれに対して、「いいじゃん」という気持ちと「だめじゃん」という気持ちを両方持っています。これは実は両立するんですね。「いいじゃん」というのは、タコツボで本人が楽しいならいいじゃんということです。それに対して、「だめじゃん」というのは、タコツボ化自体がタコツボ化を可能にしているプラットフォームを壊してしまう可能性があるからです。いいかえれば、タコツボ化を放置すると、結果的にタコツボ状態を維持できなくなるということです。たとえば皆がタコツボ化し、コミュニケーションが成立しなくなって、仲違いから戦争を始めてしまえば、タコツボ状態は維持できないわけですよね。そうなるとまた全体主義に回帰してしまう。こうしてタコツボ化と全体主義化の振動を繰り返してきたのが、人類の歴史だともいえるわけです。

 しかしそうではなく、タコツボ化の状態を維持するためには、多少押し付けがましさが必要なのだと思います。押し付けがましいといっても、倫理的にこうするべきだという話ではありません。それが維持できるような環境を、システム的に設計することが重要です。もちろん、規範的な教育も必要でしょう。それがまったくないというのはまずい。ただ、人類はこの200年間ほど、規範的なものを徹底的にやってきました。これ以上規範的に頑張るのは辛いということで、人類はタコツボ化の状態に入ってしまったのではないか。であるとすれば、いかにしてタコツボを環境的に維持できるかということが重要になる。ただし、本当にタコツボなのはまずい。あくまでマルチ・コンテクストのタコツボでなければいけない。だから多少押し付けがましくとも、タコツボの外側に対する想像力を喚起するような認知空間を設計したいんですね。つまり僕が押し付けがましいとすれば、プラットフォームの維持にとって必要である場合に限るということです。

 次に想像力と関心の限界というお話ですが、非常に見事な分析だと思いました。近藤さんは実務家の方ですが、実は理論も相当イケますね(笑)。さて、僕は情報取得能力の高い人とそうではない人の差はたかがしれていると思うんです。学者のなかには、普通の人より100倍情報取得能力が高いと思い込んでいる人がいますが、全然そんなことはない。そんな学者でも、魚釣りができなかったりする(笑)。他にも一輪車に乗れなかったりする。これも知識のひとつです。仮に情報取得能力が100倍高かったとしても、世界は広いのであって、それほどすごいことなのか。対数をとればただの2でしょう。たいして違わないんですよ。

 つまり、想像力や情報取得能力を議論するとき、量というのは本質ではなく、質的なもののほうが重要だと思うんですね。質的というのは、外部に対する開かれ方の感覚や、世界に対する見え方の感覚ということです。10倍広い分野を押さえていたとしても、それはたいしたことではない。むしろ「10倍広い分野をおさえているから、俺は世の中を分かっているんだ」というような感覚の方が問題だと思う。こうした世界に対する見えかたは、システムを変えたり知覚を変えたりすることによって、情報取得能力100倍の人も普通の人も分けへだてなく変化していくと思います。

 それから、脳内の物理的な距離について僕がいいたかったのは、この世界は近代的自我なるものを中心にして動いているということです。たしかにインターネットの世界には「はてな村」といった偏りが生じていますが、これは近代的自我があるからこそ存在し、近代的自我は脳の接続の強さがあってこそ存在するものです。近藤さんの指摘は「物理的な距離と概念的な距離は必ずしも一致しない」というものでしたが、これはそのとおりです。ただ僕が指摘したかったのは、脳の中の物理的な距離が生物的にどうなるのかという問題です。そもそも「概念的な距離」といったものを作り出しているレイヤー、つまり自我や自己の意識といったものが今後変わっていくかもしれないという話なんですね。ということで、議論のレイヤーが違うのかなと思います。

東:

東浩紀
東浩紀

 近藤さんのコメントは、むしろ倫理研の議論と密接に関係しています。

 僕の理解では、近藤さんのおっしゃっていることはこういうことですね。情報拡大の余地はもはや個人的な趣味の範囲に限定されている。情報技術は個人の関心領域を拡大するだけだろう。つまりタコツボを拡大するだけだろう。同じ問題意識はいくども倫理研で議論され、結局結論は出ませんでした。

 ではそれでは、オルタナティブを提案したほうがいいのか、オルタナティブを提案するとしても、それは結局教育制度になってしまうのか、それとも技術的な解があるのか。そもそも、オルタナティブは可能でも必要でもなく、タコツボが増殖していけばそれでよいのか。これは難しい問題だと思います。

 さらに厄介なのは、この議論は社会的な状況とも関係しているということです。近藤さんのグラフは、実際には横に伸びたり縦に縮まったりしますよね。たとえば最近の「下流社会」の議論は、要は領域Bの右側の人口が増えているという話です。つまり、情報を習得することに意欲がわかない人たちが増えている。日本の場合、韓国などとは違って、「情報を習得し、知的になれば階級も上昇する」というイデオロギーが崩れたところにGoogleなどの便利なツールが登場したので、今後ますますそういった人たちは増えていくでしょう。

 そこで僕は、近藤さん個人の考えを聞いてみたいんですね。近藤さんとしては、タコツボを強化するようなサービスをどんどん提供して、ビジネス・インパクトを持ちたいと思っているのか(笑)。簡単にいえば、領域Aの人を増やすサービスをつくりたいのか、領域Bの人を増したいのか。

近藤:

 個人的な願望としては、領域Bの人を増やすことが一番近いと思いますね。

 あと今日の議論に関していえば、質的な想像力を変えるよりも、むしろ「目的地」を定める方が説得力を増すのではないかと思います。「様々なことにどんどん関心を持つべきだ」という議論にはきりがないと思うんですよ。

東:

 どうでしょう。むしろ、これまで僕たちの社会はその目的を設定していて、それが不可能になっているからこういう状況になったのではないですか。

 たとえば僕はずっと東京に住んでいますが、北海道出身の人も沖縄出身の人も同じ日本人ということで、なんとなく連帯している。そして北海道や沖縄について勉強する。でもその原因はなにかといてば、日本という国家がつくった教育制度によって、「目的地」が設定されていたからですよね。これまで目的地は、技術の外部である社会制度や国家によって設定されていた。それは今後はどのように設定されるべきなのか。

近藤:

 つまり、誰がその目的地を決めるべきか、ということですね。

東:

 そうです。

近藤:

 うーん、基本的にはなりゆきまかせだと思っています(笑)。ただ、それはなめらかに決まっていくと思うんです。国だけが決めていた要素はどんどん減っていき、インターネットサービスのプロバイダーが規定する部分や、各自が勝手に雑誌を読んで補完する部分が増えていくでしょう。こうした様々な多様化の中で、現実的には個人の興味関心にしたがって、成り行きに沿って決まっていくんだと思います。

東:

 つまり、目的地の再設定は無理だろうと。一般的な言葉でいえば、教養の再構築は無理だろうということですね。

近藤:

 ただし一方では、小学校・中学校のような義務教育制度もあるわけです。そこにはなんらかの正当な理由が欲しいわけで、考え直す必要はあると思います。

東:

 さきほど、近藤さんは「義務教育は『これだけは共有すべき』という情報共有の国家的システム」という表現をされていました。これは価値観や道徳ではなくて、情報そのものの共有が重要だという意味ですか。

近藤:

 ある程度はそうです。

東:

 共通のデータベースがあったとして、そのなかの情報をどのように解釈するかは個人の自由だけれども、成人になったらそのデータベースにはかならずアクセスする、といったイメージでしょうか。

近藤:

 そこまで限定的に情報という言葉は使っていません。価値観という意味も含めて、情報という言葉を使っています。

東:

 なるほど。



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