ised議事録

01-148. 設計研第7回:共同討議第1部(4)

「効率化」とは異なる情報化の方向性をめぐって

村上:

村上敬亮
村上敬亮

 鈴木さんと東さんの議論は、このようにブリッジできるのではないでしょうか。鈴木さんは、ITによってタコツボを横に繋ぎたいと考えている。その「最初の一撃」はどこからくるのか、という議論で空転しているわけですね。東さんや楠さんは、ネットワークを放っておくと縦のタコツボ化は助長されてしまうと考えている。ネットワークがタコツボのあいだに落ちてくるものを発見するのに役立つのであれば、関心空間は自然に広がるので結構なことですが、どうもそうはならないのではないかという予感を持っているわけです。

 ここで問題になっているのは、言語学的にいえばスキーマ、つまり「意味付けのきっかけ」の問題です。タコツボのあいだに落っこちてくるものというのは、言語空間のアーキテクチャが潜在的に共有されていないとそもそも発見できません。これまでのITの時代では、歴史に基づいたコンベンションなり環境なりといったものが自ずとベースを築いていたので、意味づけのきっかけをつくりやすかったと思うんです。だから縦と横のアンバランスはそれほどには生じなかった。ところがITには、これまでまったくコンベンションを共有してこなかった横軸を繋ぐことが期待されてもいる。少なくとも、歴史や伝統といった観点からみて、保守主義的に「そこはそうなんだ」と言い切れないような部分をポンと繋いでしまうところに、ITの面白さがあると語られている。にもかかわらず、むしろそれゆえに、そこにはスキーマの共有可能性がないわけですね。そこに共通の意味空間ないしは言語空間のようなものをつくりだすというモチベーションは、一体どこからくるのか。そのための最初の一撃はどこからくるのか。それはITによってもたらされるのか。それともITとは関係のないものによってもたらされるのか。このあたりが議論になっていると思うんですね。

 鈴木さんの話が突然飛んでしまうように見えるのは、端的にいえば、その最初の一撃は「感動」によってもたらされるという話になっているからです。たとえば日本のマンガが「発見」されて、世界共有の言語空間をつくりつつあるというような現象があるとき、僕自身はそれほど漫画通ではないので分かりませんが、おそらくなにがしかの非言語的な感動が最初の一撃として共有されたのでしょう。鈴木さんの議論というのは、ITはそうした機会を積極的に増やすことはないけれども、ITによって間接的に人がたくさん動くようになれば、感動の機会は増えるんじゃないか、というように聞こえます。つまり鈴木さんは、「ITと切り離したところの感動がなにより重要であって、それをいつでも拾い上げるためのプラットフォームを構築したい」と考えている。それに対して東さんは、「鈴木は楽観的なことばかりをいっているけれども、ITによる縦のタコツボ強化作用が暴走したらどうするんだ」と疑問を呈しているのではないでしょうか。

東:

 僕は要するに、「放っておいても、みんなが旅行をしてどんどん感動を広げていくだろう」とは思えないんです。最初に近藤さんが指摘したように、ここにいる人たちはすごくアクティブな人たちだからそれでいい。どうせ放っておいても、どんどん新しいことに飛びついてくれる(笑)。しかし下流社会論じゃないけれど、「放っておいたら放っておかれたまま」という人々だっている。そして、情報社会化は、むしろそういうひとを増殖させているように見える。

鈴木:

鈴木健
鈴木健

 海外旅行の例がまずかったのかもしれません。いま日本で海外旅行に行く人は、年間で延べ一千万人いますよね。これは百年前であれば考えられないことです。なぜそれができるようになったのか。飛行機が早くなったという理由もありますが、要するに時間的な意味での距離が近くなったからです。

 これは「なぜ同じ学校に行かないといけないのか」「どうして同じオフィスで働かないといけないのか」ということの本質でもある。つまり大人が一ヶ所のオフィスに集まって仕事をしていると、親と子供の関係は強いので、子供は同じ場所に住み続けることになり、結果として一ヶ所の学校に通うようになる。そうではなくて、親が移動しながら仕事をするようになれば、子供はそれについていくわけですよね。実際僕自身がそうだったんです。親にくっついてヨーロッパを回っていた。これができたのは、僕の父親が特殊な職業だったからです。しかし、あらゆる職業とはいかないまでも、かなりの職業で頻繁に移動をするようになれば、そしてそれをITが支援できるのであれば、子供はそれについていくようになる。そのことによって、色々なものを小さいときから身体的に獲得していくことができる。世界への想像力といった感性を養うのは、幼少期に受ける影響が特に大きいですからね。だから頻繁に移動をするようになれば、想像力の範囲は広がるはずで、両者は大きく関係しているというのが僕の考えです。

井庭:

井庭崇
井庭崇

 いまの話とすこしだけ関係するんですが、今日の議論を聞いていて、情報社会における「情報化」の方向にはいくつかの種類があると思うんですね。現段階で進められている方向性というのは、時間の効率化、空間の透明化といった「効率化」であって、これはどんどん味気ない世界をつくっているように感じられる。それに対して鈴木さんは、もっと現場に行って身体的・感覚的な方向性を豊かにしようという。鈴木さんの方向性は、いまのネット社会では実現できていないのはたしかでしょう。即物的な情報化に対するオルタナティブとして、質的・感覚的なものを豊かにする情報化はありうるのだろうか。僕はここに関心を持つんですね。

 ひとつ例を出してみます。大学生のころ、Mosaicが徐々に普及し始めた時代のインターネットに比べると、たしかにいまのGoogleは便利なんだけれども、ネットサーフィンのあり方を変えてしまったと思うんです。昔のネットサーフィンは、森の中を視野も定まらないままに辿っていると、徐々に全体像が分かってくるという感じだった。しかし、いまのネットサーフィンは、検索結果の一個目を見たらすぐにバックして、二個目を辿ってまたバックして……という感じでしょう。これはどういうことかというと、もはやウェブは文字通りの「ウェブ」ではないということです。ウェブが網の目の構造である必要性はまったくなくなってしまった。むしろ巨大なデータベースをみんなでつくっている状況に近いわけです。これはたしかに効率的で、非常に便利なのでみんな使っている。しかし、これはかつて想像されていた情報社会とは違うような気がします。あまりにもフラットすぎて、距離のない世界という印象を受ける。それは便利だけど、味気なくてつまらない。こうした流れに対して、鈴木さんは時間ないしは空間の距離感を考え直そうという提案をされているわけで、それはとても面白い試みだと思うんです。

東:

 Googleの話はそのとおりですね。いまやネット上の人々の動線は、リゾームやネットワークどころか、Googleを中心としたツリー状になっているかもしれない。Googleの検索結果のページがあって、そこにアクセスは極端に集中しており、人々はそこを基点にワンホップしかウェブを見ていない。

井庭:

 そうです。かつてはネットサーフィンというと、リンクを辿っていくことで色んな道を探索する感覚から、周辺的な情報を得ることだったと思うんです。しかし、いまは情報の断片どうしの関係性だけを見るようになってしまった。いわゆる身体知的、感覚的な知見を得る機会が少なくて、形式的な情報の後追いしかできなくなっているという気がします。

鈴木:

 身体知的ということでいえば、SNSが出始めたころ、僕はOrkutに最初に入ったんですが、人の顔写真をどんどんクリックしていく感覚がすごく面白かったんですね。クリックすると次の人の顔が出てきて、次の写真をクリックするとまた次の友達が出てくる。何ホップも延々とクリックしたものです。多分、SNSに入ったばかりの人はみんな同じことをやると思うんですよ。でも、しばらくするとやらなくなってしまう(笑)。友達の新着日記しかみなくなるわけです。僕は結構SNSに可能性を感じていたので、これは結構深刻な問題だと思います。SNSは人間を辿っていくという新しいネットサーフィンのありかたを示していると思ったのですが。

東:

 それには規模の問題が重要だと思います。素朴な指摘になって申し訳ないのだけれど。

鈴木:

 つまりノイズの問題ですよね。規模が大きくなると、人間から見た場合のノイズがどんどん大きくなるということです。つまり、SNS全体から見ればノイズではなくても、その人の視点から見たらノイズになってしまうという問題。3ホップも辿れば数万人になってしまう状態では、これはもうノイズですよね。一万人なんていう数字は、自分とは全然関係のない世界です。これをSNSベースでフィルタリングしようというのが、今日のSTNの目論見だったんですね。これは試みのひとつであって、他にもたくさん方法はあると思う。アイディアを出して色々実装していく必要があると思いますね。


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