ised議事録

01-1410. 設計研第7回:共同討議第2部(1)

鈴木健の構想は「宗教」である――白田秀彰からの応答

東:

 では白田さんからコメントをお願いします。

白田:

 今日は設計研に呼んでいただいて、とてもよかったです。私は鈴木健さんの「なめらか」という概念をなんとなく怪しいなと思っていたのですが、今日ついに悟りを開きました(笑)。鈴木さんが教祖だとすると、第一使徒になってもいいというぐらいに理解しました(笑)。

東:

 危ないなあ(笑)。

白田:

白田秀彰
白田秀彰

 それが実際危ないんですよ。鈴木さんの構想というのは、実は国家や政治ではなく宗教に他ならない。鈴木さんの構想の分かる人は、鈴木健教、なめらか教というのに入信することを意味するのです。

 まず、──いろいろとコメントしたいことはあるのですが── 今日の鈴木さんの話はシステムの話ではないと思います。「IT=情報化ではない」と彼は繰返し主張していましたが、それでは彼の考える情報化や「なめらか」とはなにか。それを理解するには、次のように国家と宗教の違いを考えてみるのがいいと思うんですね。

 これまで社会制度を構築する方法として、ひとつは国家や政治、もうひとつは宗教という二種類の方法がありました。鈴木さんの言葉を使えば、国家というのはステップなものです。国家とは、ある特定の概念モデルを人々に内部化、内面化してもらうことで、その概念を共有する人たちが構成する社会システムといえます。

 そのために必要なのは、以前倫理研でも議論したように、認知限界を克服することです。我々は世の中で起きているすべての諸現象を把握することはできない。そこで「世の中とはこういうもの」「近代人とはこういうもの」「合理とはこういうもの」といったモデルに単純化するわけです。その単純化の方法には複数のパターンがありえますが、とりあえず一応の正当なパターンを決定し、それを全体に強制することで、ひとつの部分均衡をつくりだす。これが国家というシステムだったわけです。

 いいかえれば、国家とは人間の生物学的な認知限界に合わせて社会のイメージをつくり、そのイメージを普遍化させることによって社会を維持するシステムです。それはわりと成功してきたのですが、皆さんもお気付きのように、この複雑怪奇な世の中をあるひとつのモデルに押し込めようとすると、社会主義や資本主義といったモデル間競争が起きるようになります。またこれはすべてに当てはまることですが、ある単純化をするとその単純化からこぼれ落ちる価値というものが出てくるので、それをどうするのかが随所でよく問題になっていますね。

 ともあれ近代と呼ばれるこの数百年間、我々はそれまで混沌としていた状態からあるひとつの理念モデルに沿って社会を築いてきました。それゆえ近代は、その単純化や画一化によってさまざまな問題を生み出してしまったわけです。ここまでの流れをいったん承認することにいたしましょう。

 さて一方、近代化の過程において、完全に周辺に追いやられた社会制度があります。それが宗教です。宗教にはおよそ二種類あるといってよいかと思います。第一に、──私はイスラム教についてはほとんど無知なので議論からは除外しますが── おそらくキリスト教やユダヤ教といったタイプの宗教があって、これらは特徴として構築的な教義を持っています。ただし、イエス本人は教義的ものを伝えていないようです。彼が明言したと思われるのは「愛」だけです。聖書に書き込まれている教義というのは、直接の弟子たち、そして後世の弟子たちがイエスの言動から解釈したものです。こうした構築的な教義が形成された理由は、イエス亡き後の弟子たちが、ローマ帝国と対抗しうる教会組織を構築する必要に迫られたからです。国家システムの真似をすることで教会システムができてしまった、という皮肉な背景があるわけですね。

 次に宗教の第二のタイプとして、仏教的な世界観というものがあります。仏教の教えとは、「非常に複雑な世界を複雑なまますべて受け入れよ」というものであると私は理解しています。これは悟りないしはニルヴァーナといわれるものに相当します。たとえば仏教の教えには、「他者を区別するな」であるとか、「諸物は連動して動いているのだから、それらの影響について考えよ」といったものがあります。私にはよくは分かりませんが、おそらくキリストのいう「愛」も似たようなことではないかと思うんです。もっと分かりやすい言葉でいえば、「他人を思いやる」ということです。

 ところが、──これは鈴木健さんもおっしゃっていましたが──他者を含むすべてを認識し理解することは不可能ですから、社会を構成する大きな要素として想像力や共感力が重要になる。これはアダム・スミスの『道徳感情論』や、西垣通さんの『基礎情報学』でも同様に議論されていることです。この論点については、以前Hotwiredで書いたことあります*1

 この想像力あるいは共感力といったものは、アダム・スミスのレベル、つまり近代を立ち上げたレベルにおいてはある特定のモデルが想定されていました。これがさきほどの国家というシステムです。国家システムとは、ある特定のモデルに基づいて人間と社会を単純化し、そのモデルを教育によって国民全員に普遍化させることで、世界を維持するという方法です。ところが釈迦のいう想像力や共感力とは、「すべてをそのまま受け入れよ」という非常に困難な要求をしているわけですね。相当厳しい宗教的なトレーニングを積むことで、ごく一部の人間だけが悟りに入ることができたわけです。私は悟りに入ったことがないので分かりませんが、悟りとはおそらくそのようなものではないかと思います。

白田秀彰
白田秀彰

 それでは、なぜ鈴木健的世界は「宗教」だといえるのでしょうか。鈴木さんがPICSYを通じて描こうとする情報社会というのは、近代の枠組みを乗り越えた世界のことであると私は理解しました。こういうことです。近代とは、複雑なものを単純化して合理化しようとする時代でした。世界はある単純なシステムの下で動いているという想定の元で、すべてを因果法則に基づいて説明しようとしてきたわけです。ところが鈴木さんのいう「なめらか」というのは、いいかえれば我々の認知を超えるような複雑性をそのまま合理化するということです。

 たとえば我々の世界では、他人に親切にしたからといって、その親切がきちんと自分に因果応報で戻ってくるとは限りませんよね。誰かに親切をしたら、その人に刺されたなんていう話は昔からよくある話です。これに対して仏教的世界観は、「他人に善いことをすればあなたにも善いことがありますよ」と、ここ数千年来一貫して唱えてきたわけです。ところが現実にはそうはならなかった。鈴木さんは、おそらくそこに神による世界設計の失敗を見ているのだと思います。そこで自分がなんとかするぞ、というわけです(笑)。

 鈴木さんは、「自分の為している行為がどのように他者に影響していくか」という複雑な因果関係の計算と実行を、機械に代替させる世界を設計しようとしている。つまり、これは合理的に因果応報が実現されるシステムをつくるということです。鈴木さんは、このシステムあるいはインフラストラクチャによって、いわゆる宗教的な、――つまりこれまで「思いやり」や「愛」によって実現すると語られてきたけれども、決して成功することのなかった――社会制度を、いま一度実現しようとしているのではないか。こう私は理解したわけです。

 鈴木さんはいろいろな情報システムを提案されていますが、要点はこの世界で起きている人間関係と因果関係を書き換えることにあります。社会全体として特定の型を強制しなくとも、ある他人に対して思いやりをもって善いことをすれば、自分にも善いことが返ってくるという構造を築くことで、他者への関心と社会の統合性を維持しようとするわけです。ですからやはり鈴木健さんの発想というのは、ロック的な前提、つまり性善説に基づいている。いいかえればリバタリアンのいう自生的秩序の発生を前提にしているんですね。「善いことをすれば善いことが返ってくるという環境下であれば、人は善いことをするようになるのである」というわけです。これまで現実の世界というのは、善いことをしたからといって善いことが返ってくるとは限らない「不完全な状態」にあった。そこで鈴木さんは、PICSYというコンピュータにアシストされた行列計算システムを導入することによって、宗教がここ数千年間失敗してきた福音的な世界をつくろうというわけです。鈴木健さんは、そうしたシステムを構築できると一貫しておっしゃっている。そうしたシステムさえ構築できれば、あとは人間が性善説に基づいて新しい社会契約に入っていくのである、と。

 そして鈴木さんは、第一に「そうしたシステムを実装することにまず全員が合意してほしい」ということ、第二に「システムを動かすのに必要な限りでの情報のオープンネスを受け入れてほしい」ということ、この二点に関して人々が納得さえすれば、より望ましい社会的連帯が形成されるというわけです。このふたつは価値中立的な提案であって、そうした条件の下で発生する社会というのは、日本やアメリカやmixiといった、ある特定のパターンに依拠した人間関係で定まる社会とは異なり、あらゆる人間関係の連合で均衡を取るようになります。だから「なめらかなのだ」と鈴木さんはおっしゃっているのだと思います。

 さて、この構想について私がどのように論評をするのかといえば、システムについては評価できませんけれども、もし鈴木健さんのいうシステムが実装できるのであれば、おそらく鈴木健さんの目指す世界は実現できるのではないかと思います。とにかくポイントは、「複雑なものを複雑なまま合理化する」というアイディアです。これを可能にすることで、初めて鈴木健的な情報社会は完成するのだと思います。

 最後に、鈴木さんはサイボーグの話を持ち出してきました。皆さんいったい何の話と繋がっているのかと思われたかもしれません。鈴木さんがどう思われているかはわかりませんが、これは多分こういうことだと思います。鈴木さんは、一貫して社会の構造を生み出す世界の因果関係の変更を目指している。コンピュータの支援を受けることで、現在とは異なる因果関係を紡ぎ、新たな世界をつくるというわけです。ただし、因果関係とは別にもうひとつの重要な要素があります。それは人間が世界をどのように認知するかという問題です。その認知の変化というものが、サイボーグ技術によって引き起こされるということを鈴木さんは考えているのではないか。

 つまり鈴木さんはふたつの主張を展開しています。第一の主張は「世界の因果関係は情報技術によって変更可能だ」というもので、第二の主張は「人間の認知パターンはサイボーグ技術によって変更できる」というものです。こうまとめると、さすがにマッド・サイエンティストに近づいている気もします。ただ鈴木さんご自身は、「現代社会のもたらした問題点は分かっているし、どこを操作すればいいかも分かっている」と考えていると思います。つまり鈴木さんは、「僕に任せてくれれば、そういう部分についてちゃんとモディファイした、新世紀がやってきますよ」というわけです。鈴木さんは……新世紀エヴァンゲリオンを思い出しました……福音を説かれているといえましょう(笑)。



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