ised議事録

01-1411. 設計研第7回:共同討議第2部(2)

世界の複雑さをそのままに反映するシステム

東:

 いかがでしょうか、鈴木さん。

鈴木:

 いやー……、想定の範囲外のコメントをされてびっくりしました(笑)。

白田:

 そうですか?

鈴木:

鈴木健
鈴木健

 はい、社会契約論のコアな話が続くのかなと思っていたのですが……、そうか、僕のやっていることは宗教だったんですね。

白田:

 そうですよ。

鈴木:

 自分ではそうは思っていないんですが、人からはよく言われるんですよ(笑)。実は。

白田:

 世界の因果関係について理解しつつ、より良い社会をつくろうというアプローチは宗教ですよ。それに対して国家や制度というのは、世界の構造をつくってみんなを当てはめていくというアプローチですから。

東:

東浩紀
東浩紀

 白田さんも気が付かれていると思うのですが、PICSYの話とSTNやGalapagosの話はレイヤーが異なると思うんですね。

 STNやGalapagosはコミュニケーション支援装置です。まあ、それはそれで便利でいいわけです。ところがPICSYは違っていて、白田さんは宗教的といわれたけれども、実際これは、自生的な秩序を支える生態学的な条件そのものを変更しようという提案です。社会学者の稲葉振一郎さんは、『「資本」論』という本で次のように論じています。ホッブズとロックの社会契約論の違いは、ホッブズが全員せせこましい所にぎゅうぎゅう詰めになっている人々を想定しているのに対し、ロックはアメリカのようなフロンティアに一人一人ばらばらにいる状態を想定している点にある、と。つまりホッブズとロックの議論では、エコロジカルな条件が異なるというわけです。これは面白い話だと思います。この理解を使えば、鈴木さんは、我々の世界はホッブズ的なぎゅうぎゅう詰めの世界になってしまっていると考えている。そこでロック的な社会契約を可能にするために、PICSYによってエコロジーをもう一度変えようという話をしているのだと、整理できます。確かにこれは、世界の条件そのものを変えようという話なので「宗教的」だけれど、鈴木さんの将来を考えた場合(笑)、「生態学的(エコロジカル)」とでもいっておいたほうが通りはいいでしょう。

 他方で白田さんは、世界の複雑さをそのまま合理化するという話をされていました。鈴木さんの目論見は、技術的な媒介によって、世界の複雑さをそのまま世界の構造に反映させるようなシステムをつくるというものである、と。ただし、白田さんも最後に指摘されていたように、それを人々が認知できるかどうかはまた別ですね。

白田:

 認知できないだろうと思いますね。

東:

 そう考えると、鈴木さんが最後にサイボーグの話をしたかったのはなぜか、その理由がわかります。鈴木さんは、それを人々は認知することができる、というより、人間はそのように生まれ変わると言いたいのでしょう。

白田:

 なるほど。

東:

 しかし、それはおそらく無理です。そうなるととても解離的な事態が出現する。たとえば、PICSYが実現し普及して、周りに親切に接していると自動的に自分の所にバックが来るようなすばらしい世界が実現したとする。しかし、人間はそれがどこからバックしてきたのか、絶対に分からない。この両者の隔たりは残ると思います。

白田:

 なるほど。

鈴木:

 どこからバックしているのかは表示できますよ。

東:

 「表示できる」と「分かる」は、まったく違うでしょう。いまの社会でも、かなりのことは表示できますからね。

白田:

 まったく分からないということはないけれども、「なぜ」その結果になったのかは分からないと思いますね。たとえば他人から高い評価を与えられるような行動をしている人が、経済的に――「経済的」という表現はPICSYの場合は正確ではないのかもしれませんが――富裕になるという現象があったとして、それは結果としては総体的に観察できるでしょう。しかし、それがなぜ富裕になったのかは分からないわけです。

東:

 これは言いかえれば、悟りの状態がいいのかどうかという問題でもある。良くないといえば良くないわけです。なぜなら、人間みんな悟っていたら、産業革命は起きていないだろうから(笑)。世界の複雑さをそのまま受け入れていると、人間はなにもできずに、生産性も上がらない可能性がある。

鈴木:

 これ以上生産性は上がらなくていいと思うんですけどね。

東:

 経済的な話だけではないんです。もっと具体的にいえば、PICSYが実現すると世界はこうなるわけです。なんとなくラーメンを売っていたら、10年前に近所に住んでいた人が実は松井だったので、ラーメンを売るだけでどんどんお金が入ってきた。自分はすごく金持ちになってしまった。しかし、隣で蕎麦を売っていた人は、松井が偶然ラーメンのほうを好きだったために、あまり金が入らない。こういったことが頻繁に起きてくれば、財産は結局運の巡りにすぎないという話になってしまう。これでは、誰も美味しいものをつくろうと思わなくなるでしょう。美味しいものをつくることと、富が蓄積されることに明確な関係がないのだから。逆にとても不味いラーメンを売っていたとしても、毎日ラーメンを食べていた人がビッグなメジャーリーガーになったら、突然お金が入ってくる。これがPICSYというシステムですよね。頑張ったからといって報われるわけでもない世界。それはたしかに仏教的な感じはする。でもそれでいいんですかね。

 また、こういう問題もある。僕は以前にも設計研で交通事故の例を出しました。交通事故は、実際なにが原因なのかと問い詰めていけば、運が悪いからとしかいいようがないレベルに行きつく。しかし、我々の社会は、これをとりあえず運転者の責任だとみなすことで秩序を維持している。それに対してPICSYは、いわば、交通事故で運転者が人を轢いてしまった場合、そこには色々な原因があるとみなすようなシステムです。たとえばガードレールがなければ市の責任。道路が滑っていたら、これは誰にも責任はないので、社会全体の責任負担。通行人も運転手の注意を引きつけたので少しは責任がある。そうしていくと、結局運転者の責任は数パーセントしかなかったりする。

 僕が疑問に思うのは、なるほどそれは「現実の複雑さをそのまま反映している」システムなのかもしれないが、それで秩序は保てるのだろうかということです。

鈴木:

 安全でも安心でもないだろう、と。

東:

 というよりも、そもそも私たちは、は世界を単純化することで初めて、秩序の意味を内化し、行動できるのではないかと思うのです。

鈴木:

 でもPICSYの複雑化のレベルは、まだまだ甘いと思っているんです。というのもPICSYにせよ、なめらかな社会契約にせよ、それは人間のレベルにしか落としていないからです。人間に対する帰責性を連鎖させているだけであって、帰責性を数値化しているわけですね。脳の中の神経接続は非常に濃いので、とりあえず人間を帰責性の対象にしておけばいいと僕は思っていたんですね。しかし、現実はもっと複雑です。その複雑さは結構やばいところまで複雑になってしまうのではないか、というのがサイボーグの話だったんですよ。ただ、全体社会という間接的なものを媒介するのではなくて、人間の連鎖だけで社会秩序を可能にしましょう、というのが僕のいいたかったことです。

東:

 わかります。さて、話が拡散してきたので、ここでちょっと戻したいと思います。

 鈴木さんと同じように、僕も、たしかに白田さんのコメントはもっと違った方向から来ると思っていました。倫理研での白田さんの発言と関係するかたちで、法の自動実行や社会契約についてコメントはありませんか?

白田:

白田秀彰
白田秀彰

 おそらく鈴木さんからすれば、通常我々が行っている「合理的な因果関係の範囲の想定下において、誰が責任を問われるべきか」という帰責問題への回答は、どうしてもステップなものに見えるんだと思うんですね。もし鈴木さんの目指す世界が完全に実現する状態が訪れたとして、──それはもはやWeb 4.5だか4.6だかわかりませんが(笑)──それはもはや法や国家といったこと自体が問題にならない世界です。鈴木さんはWeb 4.2で「法律の自動実行」が始まるといっているので、それは過渡的な状態にすぎないと鈴木さんは思っているのではないでしょうか。

 次に、法は自動実行されるべきかという問題があります。これはおそらく、鈴木さんの持っている「法」のイメージに関わってくると思うんですよ。社会契約論においてルソーやホッブズが考えている「秩序を生み出すもの」は、どちらかというと「法律」に近い。人為的にルールが決められていて、それを実行していくというイメージなんですね。これに対して、鈴木さんはロックを評価している。ロックの社会契約の概念というのはとてもイギリス的で、自然社会におけるあるべき状態であるとか、自然社会に存在するルールといったイメージに基づいています。以前私が講演したときのラテン語による区別を用いれば、ルソーやホッブズはLex(法律=書かれた法律)に近く、ロックはJus(法=調和した状態)に近いといえます。そして鈴木さんのいう「法」というのは、前者の国会が決める「法律」というイメージではなくて、後者に近いのではないかと思うんですね。

 鈴木さんの頭の中には、行政がロボットのように「法律」を自動実行するのではなく、もっと先の段階が見えているはずです。それはおそらく、たくさんの人間の総体的な行動において、全体として正しいこと(Right)であると評価された事象だけが、制度的にも自動的にも強制される社会状態なのだと思います。この段階になると、もはや議会もありません。みんなが他人のことを思いやりながら、他人に対して愛を持って行動し、さらに「普通はこういうふうに行動するはずだ」という帰結も総体的に観察可能であるようなシステムがあるだけです。それはどういうシステムなのかはわかりませんが、こうしたシステムに基づいて、それぞれの人間は自分自身の限界を認識しながら、「他人がどう思うか」「自分の行動がどう社会に影響するか」といったことをできる限りの範囲で斟酌しながら行動する。要は思いやりを持つということですね。思いやりをもった選択を繰り返していけば、自ずと社会の中に法らしきものが発見され、これがシステム的に担保されるという回路を構成している社会。これこそが、鈴木さんの目指している社会状態なのだと思います。

 これを「法の自動実行」というべきかどうかはわかりません。むしろこれはニルヴァーナと呼ぶべきでしょうね。簡単にいってしまえば、我々のあるべきと思う法が自動的に実行されている状態です。少なくともこれは「法律」の自動実行ではなくて、「法」の自動実行というべきでしょう。かくあるべしという社会状態へと自ずから成る社会。東さんは、悟りの状態がいいかどうかわからないとおっしゃっていましたが、少なくとも鈴木さんは悟りのほうがいいと判断されているんだと思います。ご本人がどう思っているかはわかりませんが。

鈴木:

 非常に近いものがあります。ただ微妙な修正を入れますと、僕は性善説の立場では必ずしもありません。要は性善説性悪説の彼岸にいるんだと思います。また、仏教に近いというご指摘なんですが、実は最近それに気付き始めていたんですね。PICSYは足かけ5年くらい取り組んでいるのですが、実は仏教的なのかもしれないとお正月に考えていました。やはりそうだったのかと思うのは、元々僕は研究として複雑系の領域をやっていたので、複雑なものを複雑なままに受け入れるといったことは考えていたんですが。ただ、自分の研究とPICSYはまったく関係のないものだと考えていた。しかし、最近そこに内的な関係があるんじゃないかと自分で気付き始めていた今日この頃だった。そしてここにきて、白田さんからずばり指摘されたわけです。

白田:

 もう確定でしょう(笑)。

鈴木:

 そうなのかなあ、という感じです(笑)。

 縁起という言葉がありますよね。因縁生起という意味ですが、そういった世界観は世界の在り方に近いと思うんです。しかし、それを人間は認識できないんですよね。そんなに簡単にできるものではないし、もちろん僕もできていません。

白田:

 旧来の宗教家は「私の教えに従いなさい」というわけですが、鈴木健はそれを実際に動くシステムとして実装しようとしている。まさに次世代の宗教家という気がしなくもないですね(笑)。



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