ised議事録

01-1412. 設計研第7回:共同討議第2部(3)

テクノ・アナーキズムの可能性――国家の存在理由はどこにあるのか

東:

東浩紀
東浩紀

 ……ええと、設計研の議論も、最後の30分になってどうもニルヴァーナ的な境地に達してきたようです(笑)。では僕も、司会の役割を放棄し、自分の考えていたことをしゃべっておきたいと思います。

 このisedの1年間、僕自身はいったいなにを理想としているのか、ずっと考えてきました。心情的なレベルでは、その理想は鈴木さんのアイディアに近い。たとえば、いまの行政機構は欠陥が多い。だから、機械的に自動実行できる部分は自動にしたほうがいい。間接民主制にも欠陥が多い。選挙権にしても、一人一票ではなくて、一人千票くらい持つようにして、それを専門領域ごとに分散できる仕組みにしたほうがいい。それで予測市場かなんかで、選挙権も動的に交換できるようにすればいい。

 こうした新しい秩序を考えると、頭のなかで反論として強いのは、やはり軍事です。戦争は国と国がやるものです。カール・シュミットは『政治的なものの概念』の中で、政治とは「友」と「敵」を分けることだと言っている。

 シュミットが「敵」というとき、それは存在論的に殲滅すべき対象です。シュミットの考えでは、政治は、「得だ」とか「正しい」といった価値判断とは一切関係がない。政治的な判断とは相手が敵か味方かを判断するのみである。つまり、「その相手と組めば利益があると判断したので、相手と組む」といった発想は、すでに政治ではない。それは経済的合理性にすぎない。同様に、相手が正しいのかどうかも無関係です。とにかく、相手が友か敵かということを考えるとき、政治なるものが立ち上がる。これはとても面白い考えだと思います。

 このように考えるシュミットにとって、国家民営化論は論外のはずです。民営化してしまえば、それは単なる私的団体にすぎず、国家ではないからです。シュミットは1920年代から1930年代に仕事をした人ですが、当時はゲゼルシャルトとゲマインシャフトといった議論が活発で、フランスにもアナルコ・サンディカリストがいたし、国家解体論はそれなりに議論されていたんですね。シュミットは実は、こうした議論に対して反論している。ですから、実はカール・シュミットの議論は、今日の僕たちの議論に対する反論にもなっているんですね。

 そんな文脈のなか、ではシュミットに対する再反論はないものかと、僕はつねづね考えてきました。なぜ国家はできるのか。その理由をホッブズまで遡って考えると、国家が必要なのは、要は個人間の暴力を封じ込めるためです。ノージックもそう考えている。つまり、個人を放っておくと殺しあうかもしれないから、国家は必要だというわけです。だとすれば、裏返せば、個人の暴力を封じ込めるシステムさえつくることができれば、国家は必要ないという話にならないか。

 そのようなシステムは果たして可能なのか。ユビキタス・テクノロジーは、原理的にはそのために現れてきたのではないか。たとえば次のような社会を想像しています。人間は生まれた瞬間にチップを埋め込まれて、どこでなにをやっているのかが、あるていど機械によってモニタリングされる。そのデータは強力なセキュリティで守られていて、個人が個人のプライバシーを侵すようなかたちでそのデータが覗かれることはない。しかし、暴力の抑止効果は極めて強い。それは監視社会ではあるけれども、人が人を監視するリトルブラザー的な監視社会ではなく、極めて非人称的な――倫理研の言葉を使えば「ビッグイット(BIg It)」的な*1――監視社会である。このような社会をあるていどグローバルな規模で構築できるのであれば、国家はもはや必要ないのかもしれない。

白田:

 テクノ・アナーキズムというわけですね。

東:

 そうです。

 しかし、むろん、それでも国家は必要とされるかもしれません。そのときは別の根拠があるはずです。たとえば所有権の確保です。ロックやルソーは、自分の土地が脅かされる危険に対し、それを守るのが国家だと考えた。しかし、それもまた国家でなくても守れるのかもしれない。

 国家の最終的な根拠が個人間の暴力の調停だというのは、実に具体的な話で、要はセキュリティの話なわけです。といっても、これにも二種類あって、9.11以降のブッシュ政権によるナショナル・セキュリティ政策というのは、「こっちは自由主義陣営で、向こうはテロリスト国家だ」という典型的な友/敵の図式になっている。しかし、その一方で、もっとミクロなセキュリティがある。あるいはなめらかなセキュリティがある。「こいつは危険度100なので入国禁止だけれども、あいつは危険度60だから入国可能」という監視です。つまり、セキュリティは、本来は友と敵をはっきりと区別するものではない。だから、9.11以後につくられた国家間の友/敵の図式と、セキュリティの論理とは、しばしばテロリズム対策ということで混ぜて考えられているけど、明確に区別する必要があると思う。そしてもし、後者のセキュリティでテロリズムを押さえ込めるのであれば、国家の存在理由は果たしてどこにあるのか。最近僕はそんなことを考えています。

白田:

白田秀彰
白田秀彰

 近代国家が立ち上がったとき、もうひとつの理由として「統一市場をつくる」というものがありました。つまり近代国家の根拠には、第一に暴力に対する安全圏を確保するということ、第二に分散していた中世的市場をある一定の産業規模に合わせた大きさに拡大するということ、この二点があったわけです。ところが現在の市場システムは、もはや国家の枠を超えて動いている。かつて国家の形成した統一市場の枠は壊れてしまっているわけで、経済団体からすると国家の枠はむしろ邪魔にさえなってきている。東さんがおっしゃるように、暴力を抑止する機能さえ代替できれば、国家はなくなると思いますね。

東:

 鈴木さんの構想を実現するには、グローバルな環境管理型権力によって、個人間の暴力を抑止するシステムを構築する必要がある。そのシステムさえあれば、なめらかにさまざまなものが繋がっていく社会は実現可能かもしれない。しかし、それがなければステップの国家は維持されていく。

白田:

 そのシステムをつくるほうが、大量破壊兵器を数多く抱える均衡というわけの分からない状態よりも、よっぽど安上がりだと思いますよ。

東:

 そもそも戦争とは変なものです。自然状態であれば、300人位で誰かをリンチすることはありうるかもしれない。しかし、300万、3000万の規模で人間が集まって、みんなでお金を出し合い、武器をつくり、どこかに攻めるというのはありえない(笑)。

白田:

 それこそ近代というのは、ひとつの型を国民に強制し、教育によって人々を洗脳するというシステムだからこそ、それだけの規模で動員できてしまう。みんなが自分の主体的な判断によって行動することができたら、そんなに集まるわけがないんですよ。5人集まるのだって大変なんだから(笑)。


*1:註:倫理研第6回講演で辻大介が提案した呼称。以下に引用する:「白田さんが問題提起されていたのは、ある種の認証性・人格性を帯びたリトルブラザーが乱立する状況ではなく、むしろ人間がその情報管理に一切関与できないという意味で、非人格的なビックブラザーによる管理のほうがよい、というものです。「非人格的」と形容するのであれば、ブラザーという呼称は不適切ですので、ここでは仮に「ビッグイット」(Big It)と呼んでおきたいと思います。」(倫理研第6回:辻大介講演(1)

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