ised議事録

08-20倫理研第5回

E5

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(開催:2005年8月20日 横浜プリンスホテル 貴賓館/ 議事録公開:2005年10月8日)

概要

 倫理研はこれまで、情報社会における公/私(パブリック/プライベート)の区別を再構築することをテーマとしてきた。

 そこで高木浩光は匿名性とプライバシーの問題を取り上げる。まず高木は無断リンク禁止問題を取り上げながら、「なぜダメアーキテクチャは蔓延る(はびこる)のか。そして彼らは共存はできないのか?」と問う。解決案は、アクセス・コントロールによる技術的な棲み分けである。これは前回、加野瀬未友が私的領域確保として提案したものと等しい。これで「表現の匿名性/顕名性」をめぐる問題はひとまず解決できる。

 しかし、「存在の匿名性」――プライバシーや個人情報――をめぐる問題はそう簡単ではない。RFIDなどによるユビキタス化によって、プライバシー侵害という危険性があることは知られている。これもダメ技術である。しかしこれは「明らかにダメ」といえない。この「悪いアーキテクチャ」を改善させることは困難である。それでは「存在の匿名性」を擁護するための根拠はどこか? この問題は共同討議に引き継がれることになる。

 共同討議第1部では、まずゲストの崎山伸夫から、不正アクセス禁止法mixiのトラブル、そしてウィルス作成罪などを例に挙げながらコメントが行われた。崎山は問う。人々はアクセス・コントロールによる棲み分けではなく、ムラ社会的な「他者の排除」こそを望んでいるのではないか、と。その後に続く討議では。そのmixiをモデルケースに、「私企業によって運営されるネットコミュニティの公共性」の有無が問われた。

 白田秀彰は、こうした問題を一気に抽象的なレイヤーに引き上げる。次のようにである。いままで法の世界においては、「行為」と「存在」と「表現」の三領域に弁別されてきた。しかし情報は、行為(公)と存在(私)を「表現(計算・記録可能なもの)」という項目で繋げてしまう。たとえばコンピュータウィルスは、行為的な帰結をもたらす。にも関わらず、表現物である。プライバシーは個人そのものを示す存在である。にも関わらず、「個人情報」という表現物となる。このとき、むしろ問題は「表現の自由」という近代的な理念にこそあって、それがこの「行為/存在/表現」の境界を崩してしまうことにあるのではないか、と。

 この提起を受けて、討議第2部で東浩紀は、表現の匿名性存在の匿名性、あるいはmixi無断リンクの話といったばらばらに見える問題たちを、「認知限界」という軸を導入することで、ひとつなぎに整理する。そしてこの認知限界の問題がある以上、存在の匿名性は擁護できないのではないか? と問う。

 どういうことか。まず認知限界について。情報社会において選択肢の数が莫大に増えることで、人々は合理的な決定ができなくなってしまう。情報流通コストは下がるが、人々の情報処理能力はそれほどには上がらないからだ。これがサイモンの言葉を使って表現されるところの「認知限界」の問題である。

 では、なぜこの問題は存在の匿名性を減衰させるのか。人々はその認知限界ゆえに、判断・選択を肩代わりしてくれるレコメンデーション・サービス(デイリー・ミー)に依存するようになる。そのサービスは人々の個人情報――基本属性から嗜好情報や人間関係まで――を解析することで、その機能を実現する。このサービスを利用しなければ社会生活が送れず、意思決定に戸惑う人々はサイバーカスケードに連なる。つまり結局のところ、情報社会における認知限界という根本問題は、存在の匿名性を擁護することを原理的に不可能にする。こう東は論じるのである。

 それに対して白田は、実はそのデイリー・ミーのようなものとして近代国家は形成されたと指摘。人間関係などの「複雑性を縮減する装置」として近代国家に人々の存在を登録してきた。ゆえに東の議論はその延長上にある、と。

 よって白田はこう結論する。「もはや『存在の匿名性』は維持できない」という世界観を前提にしたところから、情報社会倫理を語るべきだ、と。そして白田はこうも語る。機微な情報の解析に手を触れる「リトルブラザー」が偏在するよりも、完全に非人格化された判断だけが行われる「ビッグブラザー」のほうがマシなのかもしれない、と。そのビッグブラザーを拘束する設計こそが――国民国家というリヴァイアサンを縛る憲法のように――情報社会における存在の匿名性を擁護するということになるのではないか。以上をもって、倫理研第5回は幕を閉じる。

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