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10-08倫理研第6回:目次

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(開催:2005年10月08日 国際大学GLOCOM/ 議事録公開:2005年12月8日)

概要

 倫理研第6回では、存在の匿名性プライバシー)の考察から出発し、行政の機械化から、個人情報を資産運用化する世界まで、監視社会のありうる未来が考察される。同時に、情報社会倫理的問題として、新しい再配分の仕組みが見出される。

 辻大介は、「認知限界の存在ゆえに、存在の匿名性は擁護できない」という前回の結論から、存在の匿名性を擁護することを試みる。まず、人間の行為はダブル・コンティンジェンシーに揺らぐために、チューリング・マシンとしての機械はその不完全性ゆえに予測を誤謬する可能性があることを示す。さらに、プライバシーには、過剰な責任のインフレ的追求から切断する社会的機能があることを論じる。その上で、辻はビッグイットを否定しつつ、ローカルなローカルな環境管理型権力(リトルイッツ)を容認する方向を示唆する。PICSYをめぐる思考実験を元に、リトルイッツが存在の匿名性を奪う範囲を、あるコミュニティにおける信頼の底上げを果たす程度に限定する、という枠組みを提示する。

 共同討議第1部では、まず北田暁大から、辻の議論は「存在の匿名性の擁護」ではなく、「ゆるい管理社会の容認」ではないか、という指摘が行われる。なぜなら辻の議論は、動物的合理性の領域と人間的合理性の領域との領域をいつのまにか混合しているからだ。すなわち環境管理型権力は前者を管理するが、その恩恵によって、後者の領域において機能するはずの、非ナッシュ均衡型信頼を底上げする、という論法を取っている。また北田は、辻がいうように「情報を知られること」と「責任を問われること」は、厳密に区別できないと指摘する。よって、ローカルに分散したリトルイッツという「限定つき容認」を疑問視する。

 これに対し、白田秀彰は、むしろ「より強い管理社会=ビッグイット」の可能性を論じる。具体的には、それは行政の機械化である。そもそも国家システムにおいて、人間的な推量の重視される司法や立法は機械化は避けるべきだが、行政は機械的に作動することを理想とされてきたからだ。そこにはメリットが大きいことが説得的に論じられる。

 続いて第2部では、鈴木健から、Web 2.0のスキームを拡張するかたちで、監視社会の(単一のビッグイットか~ローカルに分散したリトルイッツか)の行く末が予測される。鈴木は、ユビキタス化するWeb 4.0 の世界では、すべての個人情報は個人領域のライフログに格納され、プライバシーは完全なる自己情報コントロールの下に置かれるだろう、と考える。そしてこの仕組みを下に、組織をバーチャル化し、なめらかな社会関係を結ぶ可能性が示される。しかし、この鈴木の議論に対して、mixi的な人間関係の管理技術というエンパワーメントは、むしろ人々を分断と排除に向かわせるのではないか、という反論が行われる。

 さらに、この資産運用の延長線上さながらの「個人情報を自己管理する」というライフログ・モデルは、身体の自己所有という権原を突き詰めた、サイバーリバタリアンの夢であると東は指摘する。そこで、リベラリズムの立場から問題提起が行われる。すなわち、自分の人生全体を資産として管理し、人間関係や信頼関係までもが投機対象となる社会が訪れるとき、そこでの再配分の仕組みをどう考えればよいのか? つまり、倫理研第3回でも北田によって検討された、情報社会におけるリベラリズムの居場所は、自由のエンパワーメントではなく、再配分や匿名性(無知のヴェール)にあることが確認されるのである。

 これまで倫理研は、情報社会における公的空間/私的空間の確保や、動物的自由と人間的自由の相克といった観点をめぐって思考してきた。しかしこの本討議の帰結は、こうした観点はもはや擦り切れており、来るべき情報社会における再配分をめぐる思考へと、歩みを進めることを示している。このように東は締めくくり、倫理研第6回は終幕する。

 

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