セキュリティの論理の暴走

セキュリティの論理の暴走

不安のスパイラル、セキュリティの論理の暴走

 倫理研第2回で東浩紀は、バリー・グラスナーの論じているような不安意識のスパイラル的な増大が、一種のセキュリティの論理の暴走を招いていると論じる。

 現状は、漠然たる不安に煽られて監視技術を導入するのはいいけれど、それによるメリットははっきりしないし、むしろ新しいリスクが次々発見されることで体感治安は悪化するばかり、という感じだと思うんです。それに対して、僕はつぎのように思います。

 社会が許容できるリスクの全体量がたとえば10だった――数は何でもよいですが――として、最近それが30まで増えてきてしまったので、監視技術の導入によって10まで戻す。それはよく分かる。ポストモダン化に伴い社会の多様性が上昇し、したがってリスクも上昇したから環境管理型権力を使う、というこの選択はやむをえない。

 しかし、社会の趨勢は必ずしもそうではない。むしろ、リスクの全体量があまり変わっていないにもかかわらず、10を5にできる、3にできる、1にできる……と際限なく監視を強化し始めている。アメリカのテロリスト対策などに、そのような過剰な妄想を感じます。しかし、リスクをゼロにしたいのなら、それこそ、市民生活を徹底的に監視し、古典的な全体主義国家を作るしかない。環境管理型権力を使えば、多様性を保ったままかつてなく「安全・安心」な生活ができる、という幻想に捕らわれて、とめどもなく技術を強化しているのだとしたら、これはセキュリティの論理の暴走とでも言うべき事態ではないでしょうか。

 たとえば「ゲーテッド・コミュニティ」や「バイオメトリクス」「RFID」などは、こうした過剰な「セキュリティ化」「監視社会化」と連動した動向といえよう。

環境管理型権力の条件と監視社会の公準

 こうした過剰な「セキュリティの論理の暴走」を防ぐにはどうすればいいのか。倫理研第2回で東は、ある程度のセキュリティ化はやむを得ないとしつつも、「監視強化のかわりに僕たちが何を得るのか」にすべてはかかっているとし、次のように語っている。

僕は共同討議の冒頭で、自由と管理の共存がポストモダン社会の特徴なのだ、と述べました。言い換えれば、自由と管理は「共存」しなければならない、ということです。身体のレベルでの管理が進むときには、主体のレベルでの自由はそのぶん拡大しなければならない。住基ネットや電子パスポートが整備されるのであれば、そのぶん、日本社会は、多様な価値観をもつひとびとが、多様なライフスタイルを選んで社会生活を送ることができるようなオープンな社会に生まれかわらなければならない。ここらへんが、いま白田さんがおっしゃった新しい価値観のヒントになるのかな、と思います。

 

情報社会の二層構造

 しかし問題は、セキュリティ化によって自由が拡大するどころか、限りない不安がかきたてられ、自由と多様性が失われるばかりであることだ。つまり「セキュリティの論理の暴走」とは、逆にいえば、「情報社会の二層構造」における、多様性の論理とセキュリティの論理のバランスが崩れた状態を意味する。

図1:ポストモダンの二層構造
図1:ポストモダンの二層構造

上図1では、情報社会におけるアーキテクチャの作動論理は以下のように描かれる。

図2:ポストモダンの二層構造
図2:ポストモダンの二層構造

 しかし、ある任意のコミュニティが、アーキテクチャの保守というセキュリティの論理と、自らのコミュニティの価値の保守を混同してしまうと、過剰なセキュリティ化によって多様性が狭められてしまう。

 こうして、監視技術を本来目的とすべき多様性の創出のために用いず、より恣意的に用いる方法が日本社会で一般化しつつあることを、東は「監視技術の道徳主義的利用」と名づけ批判している。(isedキーワード「監視技術の道徳主義的利用」参照のこと。)