ネタ的コミュニケーション

ネタ的コミュニケーション

ネタ的コミュニケーション――すべてを「ネタ」として扱いスルーする作法

 倫理研第4回で、白田秀彰北田暁大の「嗤う日本のナショナリズム」を引きながら、2ちゃんねるに中心的に見られる「総ネタ化」を次のように指摘する。

 加野瀬さんは「ブログにおいて受け手や書き手が成熟すれば、炎上は無くなる」とおっしゃっている。つまり自分が批判されたときにはスルーして流してしまうというような、ある種の大人の感覚を持つということですね。要するに「すべてをネタ的に扱え」、と。つまり、なにを書かれたとしてもネタなんだという感覚です。ということは、ネット上でユーザーが成熟するということは、2ちゃんねる的な嗤いの感覚を一般化し、総ネタ化してしまうこととイコールではないか。

 さらにネタ化ということであれば、2ちゃんねるでブログや他のサイトを観察する行為を「ヲチ(ウォッチ)」と呼びますね。ここに表明されているのは、自分たちは誰かがやっているベタなネタ、つまりベタなコンテクストを高みから見下ろすんだという感覚です。こうしたネタ化というのが、おそらく2ちゃんねる的なコミュニケーションの感覚と呼べるものでしょう。

 たとえば2ちゃんねるには「ネタにマジレス カコワルイ」という常套句が存在する。これは、単なるネタ的、お遊び的な書き込みに対して、マジ(本気)=ベタ(素)にレスポンスしてくる人間に与えられる言葉である。この言葉には、マジ=ベタな人間に対して、常に一定の距離を置く感覚、つまり「メタ」な位置から「ヲチ(ウォッチ)」するという感覚が表われている。

 2ちゃんねるにどっぷり浸かり、このメタ意識(ベタへの警戒意識)が肥大してくると、常にすべての書き込みがネタである可能性を想定しなくてはならなくなる。一見マジに見える書き込みに対しても、「これは釣りか?(マジに見えるネタか?)」と構えるようになるといった具合にである。

 逆にいえば、どんな誹謗中傷やくだらない書き込みがあったとしても、「すべてはネタだから」と受け流すタフネスが、2ちゃんねるでは求められたともいえる。この点について倫理研第4回では、このタフさは決して2ちゃんねるに限られたものではなく、日本社会、特に「噂の真相」の存在を前提としていた出版文化の作法が受け継がれたものである、と議論されている。

北田暁大(以下、北田):

 加野瀬さんが「強い人」という表現をされていましたが、おそらくふたつの「強さ」があると思います。ひとつは、いわゆる通時的な責任をきちんと引き受けることができる自律的な主体であるということ。つまり白田さんが想定されているような意味での強さですね。そしてもうひとつは、いまのこの日本のネット社会と呼ばれるもののなかで生きていくために必要とされている強さで、それは2ちゃんねる的な「スルーする力」といいますか、一種のタフネスみたいなものだと思うんです。

 たとえば炎上が起きると、そういう強さを求めるメタコメントが多く見受けられますよね。「この人はなんでこんな細かいことにいちいち反論して自分で事を荒立ててるんだ」とか、「スルーできない人は結局弱いんだ。自意識過剰なんだ」とか。自意識過剰だ!という極め付きに自意識過剰な批判がなぜ批判たりうるのか、そもそも不思議なところですが(笑)。

 ともあれ、2ちゃんねる化された身体性を求めるというか、2ちゃんねる的な意味での「成熟せよ」という要請がいまは非常に強いと思うんです。それは白田さんのいう意味での強さとはまったく異なるにもかかわらず、両者は混同されているのではないでしょうか。自律的主体として反論するという振る舞い自体が、その人の言説主体としての「弱さ」、スルーする力の欠如の証拠として回収されてしまう。「スルーする力」の規範化は自律としての強さを駆逐してしまいかねない。

東:

 これもまた重要な指摘だと思います。いま北田さんは、2ちゃんねる的な意味での成熟とおっしゃったんですが、僕は個人的には、そのような「攻撃されてもやりすごす強さ」は、日本の出版メディアで育まれてきたものだと思うんです。たとえば、いまはなくなりましたが、『噂の眞相』という雑誌がありましたね。僕も何度か記事になったことがありますが、普通に考えてそれはまあ腹は立つわけです。しかし、編集者のあいだには、『噂の眞相』の一行記事でなにを言われていても、「そんなものに敏感に反応しているのは馬鹿だ。スルーして勲章だと思え」といった雰囲気があった。そして、その感覚を若い作家や批評家に押しつけるわけですね。それは日本の言論界をたいへんスポイルしてきたと思います。

 いずれにせよ、2ちゃんねる的な「強さ」を求める風潮というのは、実は日本の出版文化が以前から持っていたものだと思うんです。いかがでしょう。

北田:

 まさにそういうことなんです。80年代以前からも実はそうなんですが、とりわけ80年代以降において、ネタ化する/される感性というものが規範化してくると思うんですね。やり過ごす強さに、過剰に倫理・道徳的価値を認めるようなコードができてしまったのではないか。その意味で2ちゃんねるというのは非常に80年代的文化の正当な後継者である、といえるでしょう。

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暴走するインターネット』

 またこうした「ネタ化」「嗤い」といったコミュニケーション特性については、鈴木謙介『暴走するインターネット』(イーストプレス、2002年 asin:4872573021)のなかで、2ちゃんねるの特徴として表現されていた。コミュニケーションが、前後の意味に照らした応答ではなく、文脈をズラした応答へと接続され、そのズラしそれ自体をコミュニケーションとして享受する作法のこと。

 「全てがネタである「かのように」振る舞うネタ的コミュニケーションは、どんなに本気のコミュニケーションをしようとしても周囲から「ネタ」として言及される対象になるという可能性を孕んでいる。もちろん本気でレスを返してもよいのだが、ネタとして了解されているものに本気でレスを返すと、「マジレス」と揶揄される(そしてマジレス自体がネタとして消費される)ことになる。別にマジレスを返すことが禁じられているわけではないが、それも一つのネタだよね、と了解されることを禁じることは誰にもできない。」

(『暴走するインターネット』第9章)