ロールズ

ロールズ

 アメリカの政治哲学者、ジョン・ロールズ(1921-2002)のこと。1971年に出版された主著『正義論』は、リベラリズムを理論化したものとして広範な影響を与えた。

再配分(配分的正義)

 ロールズは、古典的な自由主義、いいかえれば経済学的な自由市場経済を称揚する思想、たとえば功利主義(最大多数の最大幸福)やパレート効率性*1を批判し、富の再配分や機械の平等といった、いわゆる福祉国家的な枠組みを擁護する立場に立つ。これをロールズを表現するものとして、正義の原理をふたつ立てる。

 ロールズは正義の第一原理として、すべての個人に対し平等に基本的諸自由を認めるべきとする。そして第二原理では、社会的・経済的な不平等が正当化される条件(再配分の正義)が示される。

  • 2-1)競争の機会を均等に与えた結果生じたものに限る。
  • 2-2)その社会で最も不利な状況にある人々の利益を最大化する場合に限る。

 この2-2)が「格差原理」と呼ばれ、功利主義やパレート効率性の概念と対立される。

 倫理研第6回では、情報社会において

  • リバタリアン的な身体の自己所有・自己管理・自己決定の方向性が強まること、
  • そしてリベラリズム的な他者への寛容や配慮といった志向性*2が弱まる方向性

という二点が確認された。そこでリベラリズムの残る可能性として、この配分的正義が目されることとなった。

東:

 ただ、ここまでの議論で見えてきたものはあると思います。来るべき情報社会の問題を考えるうえで、自由という観点、公的/私的という観点はともにすり切れている。それが分かっただけでも、十分に意味がありますね。

 ところで、こういうふうには考えられないでしょうか。近代社会はフランス革命で「自由・平等・博愛」という有名な言葉を手に入れた。21世紀の社会では、自由はかなり実現できる。博愛もコミュニケーションの支援装置を使っていけるかもしれない。しかし平等の達成は難しそうだ。

北田:

 リベラリズムの根幹として、「自由」ではなく「再配分」的な志向のほうを据えれば、かろうじて残る可能性があるわけです。逆にいえば、ロールズ的な議論の一側面――第二原理のほう――しか残りようがないのであって、自由――第一原理――を先に立てると、リベラリズムは死ぬしかない、ということかもしれない

智の再配分と「オープン」という組織原理

 設計研第6回で東浩紀は、設計研がしばしば理念とする「オープン」(オープンソース的なもの)が、ロールズ的な意味での智の再再配分と同型的であると論じた。

 智の配分については設計研の中で議論されてきました。放っておけばスケールフリーネットワーク(Scale Free Network)*3さながらに集中化するので、最配分のシステムを考えねばならないという問題です。

 他方、近代社会では富の配分が重要な問題として議論されてきました。いままでも何度か名前が出てきましたが、ロールズは『正義論』で「格差原理」という原則を提案しています。これはひとことで言えば、一番貧しい人間が多少金持ちになるのなら、一番豊かな人間がさらに金持ちになってもよいだろう、という基準です。つまり、みなが平等になるのは実現不可能だろう、しかしすごく貧しい人がすこしでも儲かるのであれば、大金持ちがたくさん儲かってもいい、という発想です。この考え方は智の配分に対しても適用可能です。すなわち、「智力」がもっとも少ない人(これは知能という意味ではなく、公文氏の議論における「智」の力という意味です)が多少その智力を伸ばせるのであれば、智力の集まっている人にますます情報が集まってもいい、という考え方です。これはカンですが、僕はどうも、オープンソースとかオープン・プラットフォームとかの話を聞いていると、この格差原理を思い出します。つまり、ロールズ的な思想はいまや情報技術的な洗練を遂げて実装されつつあるのかもしれません。ノージック的なリバタリアニズムだけではなく、一部ではロールズ的な知の再配分も起きていると言えなくはない。

 

再配分には「共同体」(再配分対象の境界設定)が必要――ピーター・シンガーの批判

 しかし東は設計研のオープンという議論は、本質的には組織という境界を「なめらか」にするものではない、と指摘する。なぜならオープンがもし智の再配分を意味するとすれば、それは共同体の枠を要請するからである。これを東は倫理学者のピーター・シンガー

ロールズ批判を援用しながら論じる。


 この格差原理の思想は、いまのところ再配分を根拠付ける議論のひとつの頂点だと考えられている。しかし、実はこの原理を適用するためには、再配分の対象の境界が確定している必要がある。

 このあいだピーター・シンガーの『One Planet』を読んでいたら、突然ロールズの話が出てきました*4ロールズ再配分の原理は、国民国家の枠でしか考えていない。グローバルな再配分については語っていない。これは単純ですがげっこうクリティカルな批判です。シンガーは、ご存知のように、動物愛護や生命倫理の分野で著名な倫理学者です。彼の仕事は、胎児はどこまでが人間か、類人猿にどこまで人権が認められるか、という問題を中心に据えている。つまり、人類の境界はどこに引けるか、という議論ばかりやっているひとです。そんなひとからすれば、確かにロールズ的な再配分原理は境界問題を消しているように見えるに違いない。つまり、ある共同体の中でうまい具合に富を再配分する方法はいくらでも考えつくけれども、問題の境界が不確定なときには再配分という発想そのものがは機能しない。同じことが智の配分についてもいえるのではないか。

 話が逸れましたが、僕がこのロールズ/シンガーの例で言いたかったのは、再配分という思想は根本的に共同体を前提とするということです。

「無知のヴェール」と匿名性

 またロールズは『正義論』のなかで、正義の原理を正当化するロジックとして、「無知のヴェール」という仮定を導入する。「たがいの財産や能力について十分な情報を持っていない」状態の下で社会を構成すれば、この正義の原理に必ず同意するという、「社会契約論」的な議論の展開を行っている。

 この無知のヴェールを、東は「情報自由論」において、「匿名性(存在の匿名性)」と引き付けて理解している。いいかえれば、プライバシーが十分に守られていること、プロファイリングされないという自由である。

筆者がここで考えているのは「匿名性」である。かつて、米国の倫理学者ジョン・ロールズは、人間がたがいの基本的な自由を尊重し、正義と公正を確立するためには、彼らのあいだに「無知のヴェール」が下りていなければならないと論じた(注3)。人間は、たがいの財産や能力について十分な情報を持たないからこそ、自分にとって不利になるかもしれない原理に同意することができる。言い換えれば、ひとはたがいに匿名的な存在であるからこそ、たがいの自由を尊重しあうことができる。

しかし、環境管理型社会の自由とは、本論でここまで論じてきたように、まさにその匿名性を放棄すること、「無知のヴェール」を自ら引き上げることで与えられるものだと言える。まず身分を明らかにせよ、そうすればこのポストモダン化され情報化された世界で存分に(あなたの資格に見合った範囲で)自由に振る舞って構わない、これが現代社会の基本原理である。個人情報の管理が重要な問題になるのは、この社会が、制度的にも技術的にも、「あなたはだれなのか」とつねに尋ね続けるシステムで動いているからなのだ。ユビキタス・コンピューティングから9・11以降のセキュリティ強化まで、その傾向は、さまざまなレベルで一貫している。

 

*1:註:パレート効率性 - Wikipedia

*2:註:たとえば北田暁大倫理研第3回で提唱したような、「脱社会的存在」を公的には許容しながら、私的にはその生の不毛性を訴えるような、アイロニカルな態度。

*3:註:大半のノードは少数のリンクと、そしてごく少数のノードが莫大なリンクを持つようなネットワーク構造。(はてなダイアリー - スケールフリーネットワークとは)グラフにすると「べき乗(Power Low)分布」を取る(参考:佐藤史隆, 廣安知之, 三木光範「複雑ネットワークの調査および問題定義」(ISDL Report、2003年))。

*4:註:こちらも、「倫理研第6回:共同討議第2部(4): 配分的正義――情報社会のリベラリズムの居場所」を参照のこと。以下引用する:『ピーター・シンガーは、ロールズの原理に関して、それはグローバルな共同体を想定するとあまり意味がないと批判していました(『One World』未邦訳 asin:0300103050)。ロールズの富の再配分は、国民国家という小さな単位のなかで、貧しいひとと富んでいるひとの関係を再構築しようという議論です。したがって、世界規模の共同体を想定すると適用できなくなる。ロールズは、「もっとも貧しい人間が豊かになるかぎりで貧富の格差は正当化できる」と述べたわけですが、そもそもいま地球上でだれがもっとも貧しいのか、だれにも分かりようがない。この批判は本質をついていると思います。問題は、富の再配分が共同体の境界を必要とするということです。しかし、いま話題になっていたような個人情報が資産運用される世界においては、誰が貧しく誰が金持ちなのかもわからなくなってしまうかもしれない。』

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