動物化

動物化

 東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社、2001年 asin:4061495755)における鍵概念。東は90年代後半以降のオタク的消費文化を分析するにあたって、ヘーゲル哲学講義で名高いフランスの哲学者、コジェーヴによる「動物」という概念を導入する。

 動物化とは何か。コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』は、人間と動物の差異を独特な方法で定義している。その鍵となるのは、欲望と欲求の差異である。コジェーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しかもたない。「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する。(中略)

 しかし人間はまた別種の渇望を持っている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。(中略・引用者補足:その例としてフランス思想系の人間たちが挙げてきたのは『女性に対する欲望』だが、)性的な欲望は、生理的な絶頂で満たされるような単純なものではなく、''他者の欲望を欲望する''*1という複雑な構造を内側に抱えているからだ。(中略)人間が動物と異なり、自己意識を持ち、社会関係を作ることができるのは、まさにこのような間主体的な欲望があるからにほかならない。(中略)

 したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏―満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。

(『動物化するポストモダン』P.126-128)

 もともとコジェーヴは、この動物という言葉を第二次大戦後のアメリカ消費社会を批判する際に用いている。対照的に、日本文化を、「与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、『形式化された価値に基づいて』それを否定する行動様式」、つまり形式主義的なスノビズムを日本の特徴とみなした。その顕著な例は切腹だが、これは岡田斗司男が語った日本のオタク論(オタク的感性の、江戸時代にまで遡行する特徴)や、2ちゃんねる論(→北田暁大の「嗤う日本のナショナリズム」)に至るまで、このスノビズム的解釈は日本文化論の基調低音をなしてきた。しかし東は、ジジェクや大澤真幸の議論を引きながら、このスノビズムの不要(=動物化)を新しいポストモダン文化の特徴と捉える。

 東はこの概念を、オタク文化だけではなく文化一般に当てはめる。「アメリカ型消費社会の論理は、五〇年代以降も着実に拡大し、いまでは世界中を覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。」このアメリカニズムの議論は、かつては

 この動物化の議論を、権力論の文脈に置き換えたのが「環境管理型権力」の概念である。

無限のメタ化に耐えられない性質

 動物化とは「単に人々がバカになった」という話ではない。それは情報化と密接に関係しているという論点については、isedキーワード無限のメタ化」「認知限界」を参照のこと。


関連

*1:引用者註:原文は強調点

* はてなダイアリーキーワード:動物化