固有名

固有名

 固有名詞のこと。isedでは、帰責性(「これは誰々の責任である」と責任を帰することで、現状とは異なった可能性を想起する契機)として理解される。

東浩紀固有名

 その背景は以下である。東浩紀は『存在論的、郵便的』(新潮社、1998年 asin:4104262013)のなかで、分析哲学・言語哲学者のソール・クリプキの固有名/可能世界論と、柄谷行人の固有名論(単独性)と、デリダのエクリチュール(書かれるもの・文字)論を接合しながら論じている。

 クリプキ*1/柄谷*2は、固有名はその「確定記述」すなわち属性や定義付けの束に還元できないと論じる。アリストテレスという固有名には、「アレクサンダー大王を教えた男」という確定記述が可能だが、私たちは「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」という可能世界を語ることができる。

 もし固有名が確定記述に還元できるとすれば、この可能世界の仮定は論理的矛盾になってしまう。逆にいえば、固有名は諸性質の束に還元できないということを意味する。これをクリプキは、共同体による命名行為(baptism)によってその名が名指されることで、固有名には「固定指示子」という剰余が宿ると論じる。そして柄谷は、端的にその個体を「このもの」として指示される「単独性」と呼んだ。

 こうした議論はともすれば言語の神秘主義的な解釈につながるものとして批判されるか、あるいはその「語りえぬもの・不可能なもの」をフックとして否定神学*3化される。

 これに対して東は、単独性という剰余は、固有名そのものに宿るのではなく、コミュニケーションによって固有名を「訂正する可能性」が伝達している、と読み替える。訂正可能性とは、いいかえれば言語行為がしばしば失敗することを意味する。つまり、この伝達経路の不純性(これを東はデリダの読解から「誤配可能性」と呼ぶ)こそが、言語の単独性をもたらし、同時にその単独性を脅かすのである。

固有名帰責性――そうではなかったかもしれない世界を想起するための

 この固有名が持つ誤配可能性の議論を、東は「帰責性」の議論に適用する。たとえば設計研の議論は、しばしば情報社会の主体たる「設計者」は存在しないと論じる(設計研第3回: 共同討議 第1部(1): 設計者は存在するのか/デファクト競争における正統性の不在設計研第4回: 井庭崇 講演(1))。それはいいかえれば市場競争(デファクト・スタンダード)を受容し、あるいは経路依存性に抗する論理を持たないことを意味する。これに対し、設計研委員の八田真行は、「そこでデファクトの標準がサブオプティマル(次善最適)、つまりもっとも最適ではないもので落ち着いてしまった場合、どうすればいいかという問題がでてくる」と問うた(設計研第3回: 共同討議 第1部(2):デファクト・スタンダードの公共性とは――八田真行からの応答)。

 

 そこで東は、すでに普及してしまったデファクトのスタンダードやプラットフォームに対する批判意識を喚起するには、固有名が必要ではないか、と論じている。上記のように、『存在論的、郵便的』で固有名は「訂正可能性」を宿すと分析された。いいかえれば、固有名には、そうであったかもしれない複数の可能世界の記憶を宿しているということ、「そうではなかったかもしれない可能性」を呼び起こすという機能がある。

 「設計者」という言葉が不適切なのはおっしゃるとおりです。ただ僕がここで言いたいのは、それでも設計者――それは人間である必要はなく、抽象的なものでもよいのですが――を仮定しておくことは、ある種の倫理的な要請として必要なのではないかということなんですね。

 それはなぜかというと、現状に対する責任というか、原因を帰責させる宛先として、設計者という概念は必要だということです。「誰も設計者はおらず、自発的に秩序が生まれた」という思想は、事実認識として正しくても、思考停止に陥りがちです。逆に「誰かがやったからこうなったんだ」と認識しておけば、「そいつがやらなければまた違った世の中だったのかもしれない」という議論を立てることができる。なにか現状はおかしいんじゃないかというとき、別の社会の方向性もありえたという認識さえあれば、それを足がかりにして社会をよくする構想が抱ける。

 この意味において、設計者を考えることと、倫理を導入することは表裏一体だと思います。設計者がいないとすれば倫理もなく、自己生成的で一回限りの、経路依存的な歴史だけが生成していることになる。すべてが「しょうがないよね」で終わってしまう。

(中略)

井庭:

 そこでお聞きしたいのは、たしかに設計者の責任の問題は重要だと思うんです。ただ、たとえばたとえば村井純さんは日本の「インターネットの父」といわれるわけですが、ネットワーク犯罪が起きるたびに記者がやって来て、「あなたはどう思われますか、責任がありますよね」と聞かれて困るんですよ、という(笑)。これはこれで責任という言葉が肥大してしまっていて、おかしいと思うんですよ。なにかが導入されてくるプロセス自体を問題にするならばいいと思うんですが、誰か個人に責任を帰属させてしまうのは極論すぎるのではないか。

東:

 それはちょっと違う話だと思います。僕が言っているのは、因果性のことです。なにかが原因でこれが結果だという因果関係を想定するというのは、原因が違えば異なる結果になったかもしれない、という仮定法の想像力に裏打ちされている。つまり、因果的な世界把握と可能世界の想像力は必ず対であって、因果性が設定できなければ社会変革の意志も存在しえない。

 個人にどこまで責任を問うべきか、というのは法的な問題ですね。

因果性と帰責行為

 この責任(帰責行為)とは、いいかえれば、「因果関係のネットワークの肥大」を切断する社会的な機能とも考えられる。

 我々は二種類の社会に対する見方を持っているということなんです。PICSY的な原理で見れば、全部が繋がって、このコーヒー一杯の後ろにネットワークが広がっているということも真実です。しかし、それだけでは社会は動かない。その因果のネットワークを切断するときがある。それはつまり、このコーヒーを出した責任は僕にあるということです。この責任という切断のことを、僕は固有名と呼んでいた。それはブランドであろうが会社であろうが構わないんです。

 ではすべての繋がりをなるべく反映する社会システムをつくろうというとき、この切断機能や責任機能はどうすればいいのか。それを考えるべきではないかと思ったんです。

 この責任概念と因果関係の違いについての論点については、倫理研第6回で辻大介が論じた、“right to be let alone” としてのプライバシーの社会的機能=責任のインフレーションの回避、という議論も参照のこと。

 なぜ放っておいてもらう権利というものが、特に近代社会で必要とされるようになったのか。私はこう考えます。それは「責任を問われる“行為(act)”の領域」と「責任を問われない“振る舞い(behavior)”の領域」を分節する必要が出てきたからではないか。そしてこの必要性それ自体、私たちが認知限界を持つ存在であるところに由来しているのではないだろうか、と。

 より具体的に説明するために、北田さんの『責任と正義』という本のなかから、「責任のインフレ問題」*4という問題を借りてきたいと思います(北田[2003:p.14-31,62-4])。まず、あるひとつの動作を記述するときには、因果系列をたどることで幾通りもの記述が可能です。たとえば、私が人差し指を動かす。そのことによって(by)部屋の明かりをつける。これは一般に、「辻は部屋の明かりをつける」と記述できます。そして部屋の明かりをつけたことによって、寝ていた妻を驚かせてしまうとしましょう。そうするとこの動作は、「辻は寝ていた妻を驚かせる」という行為として記述できる。さて、この悲鳴が、複雑系でいうところのバタフライ効果のようなものによって、北米でカトリーナ台風を引き起こしたとしたらどうか。台風はニューオリンズに上陸して甚大な被害をもたらしたわけですが、その因果系列をたどっていくと、「辻はニューオリンズの人々を死に至らしめた」という記述が可能になってしまう。これは分析哲学の行為論の分野で「アコーディオン効果」といわれているものです。かといって、私がアメリカの法廷で「お前がニューオリンズの人々を殺したのではないか」と裁かれてはたまりません。仮に指を動かすことで本当に暴雨風が起きていたとしても、限定された合理性の持ち主の私にとって、これは予見可能な範囲を完全に超えています。これが責任のインフレにあたるものです。

 そしてこの責任のインフレを回避するための社会的な仕組みというあたり点に、放っておいてもらえる権利としてのプライバシーの萌芽があるのではないか。つまり「辻が指を動かすことによって暴風雨を引き起こした」というのは、仮に因果関係の記述としては適切だとしても、これは責任を問われるような“行為”ではなく、「責任追及を免れる=放っておいてもらえる」“振る舞い”として記述される必要があるのです。

作者性(オーサーシップ)、民主主義

 この固有名の機能については、設計研第6回において、東は集団著作物の評価や民主主義の問題とも接合して議論している。

 固有名が必要だと考える理由をふたつ挙げます。ひとつは集団的著作権の限界です。僕自身、批評家という仕事をしていてこのことは実感します。たとえば、集団でつくった映画やアニメがあります。末端まで数えて100人200人で制作したとします。原理的にはその集団に対して細かく富を配分すること可能です。細かく貢献度に応じて印税を細かく配分するという仕組みは、おそらく簡単にできる。しかし、智=評判の配分はきわめて難しい。評判のゲーム(=智のゲーム)は定義上固有名を必要とするからです。「この映画は誰々監督のものだ」「この演出は誰々のものだ」という表現を使わない限り、評判そのものが成立しない。というより、評判そのものが固有名を前提としている。

 これは実践的に重要な問題です。僕の実感では、小説や映画に比べてゲームやアニメーションの批評をしにくいのは基本的にこの問題に依存している。ゲームやアニメについては、「これは誰の作品だ」ということを簡単に言えない。すると批評や分析がきわめて難しくなる。逆にいえば、我々がものを見たり考えたりするとき、「それが誰々のものだ」というクッションは、分析や批評の行為に対して本質的な役割を果たしている。これはもしかしたら、人間の認知限界なのかもしれません。

 近藤さんがはてなをやっていることの機能は、この点で重要だと言える。近藤さんがこういうことを選んだから、はてなはこうなっている。近藤さんがそうじゃなかったら、はてなは違うサービスになったかもしれない。近藤淳也という固有名を媒介することで、私たちはそのような可能世界のはてなを想像することができる。そしてその想像力があるからこそ、異なるサービスを要求することができるし、問題提起もできる。もし近藤さんもおらず、株式会社はてなの住所も書いておらず、SNSやblogサービスが自動生成されるのだとしたら、その質についてユーザーはほとんど想像力を働かせることができないのかもしれない。つまり、現状に対する批判精神を呼び起こすフックとして、固有名の機能は決定的に重要なのだと考えられる。誤解しないでほしいのですが、これは指導者や職人が必要だという主張とは違います。そうではなくて、むしろ「作者性」の問題です。この設計研では集団作業を支援するプラットフォームのかたちがいろいろと考えられてきましたが、そこでこの固有名の機能はどうなるのだろう、というのが僕の問題提起です。

 もうひとつ。固有名が必要とされるかもしれない別の理由は、近代社会が行政組織と民主主義のハイブリットで成立している点にあります。行政組織は文字どおりツリー型の階層構造をとっていますが、民主主義は(理想としては)ネットワーク型です。これはかなり乱暴な整理ですが、トーマス・マローンは民主主義と市場を同じネットワーク型として捉えているので、ここではマローンに倣ることにしましょう。詳しくは「情報社会を理解するためのキーワード20」を見てください。

 ではなんでこんなハイブリッドが必要なのか。たとえば、私たちは集団で日本社会を運営していると思っています。しかし、いざ問題が起きると「トップに立っている人間が悪い」といいます。これは変です。民主主義の理念では、責任をみなが持っていることになっている。しかし、みなが持つ責任は結局無責任でしかない。責任を問うためには固有名が必要なのです。「社会がこうなっているのは小泉が悪いからだ」というように、私たちは固有名を立てないと意義申し立てができない。そこで、固有名をもたない=分散型の意志集約装置を採用しながらも、中核には固有名をもつ=ツリー型組織構造をも維持している。それが近代社会だと思います。

 誰かのせいにすることを「帰責性」と呼びます。誰かに責任を帰することで現状を変えるというのは、言いかえれば「再定義可能性」のことです。環境管理型権力再定義可能性を必要とするということは、「このシステムっておかしいんじゃないの」という異議申し立ての可能性がなくてはならないということを意味します。そしてそのためには、固有名や責任者が必要なのかもしれない。集団でものづくりをすることはできる。しかし、そのつくったものに対して異議申し立てや改良や再定義をするときは、帰責先としての固有名を必要とする。あるシステムが「みながつくった」ということが強調され、脱固有名化されると、そのシステムへの批判能力は失われていく。ここは少し真剣に考えるべきところかと思います。

 設計研の議論は「民主主義 2.0」とでも言うべき世界に踏み込んでいます。私たちがいま持っている民主主義はヴァージョン1.0であって、階層的な行政組織とセットで初めて機能する民主主義でしかない。しかし今後は、もしかすると、たとえばすべての条文に対して一回一回国民が投票して、しかも自分が関心のある政策にだけ投票できるよう、投票権を細分化することができるかもしれない。たとえば、僕は文化政策に投票権を使いたいけれども、環境問題には投票権を行使したくない。そこで、興味がある人とない人のあいだで投票権を売買できるようにすればどうか。投票権の証券化もできるかもしれない。そうやってシステムを洗練させてば、あらゆる国民が、それぞれの関心領域や専門性に応じて立法と行政に関われる“Democracy 2.0”の世界を作れるかもしれない。しかし、そのとき帰責性はどうなるのか。「いまの社会がこうなっているのはなぜ?」という問いの行き先はどこになるのか。これはむしろ倫理研的な問題提起ですが、差し挟んでおきたいと思います。

 

*1:註:『名指しと必然性』(産業図書、1985年 asin:4782800223

*2:註:『探求II』(講談社学術文庫、1994年 asin:4061591207

*3:註:東の定義を引用すれば、「○○(ex.神)は存在しない、というかたちで存在する」といったように、「否定的な表現を通してのみ捉えることができる何らかの存在がある、少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般」のこと。

*4:註:北田暁大『責任と正義―リベラリズムの居場所』(勁草書房、2003年 asin:4326601604)での概念。北田は、行為記述と責任付与の関係について、語用論・分析哲学の見地から次のような例を出して検討している。『「野球の試合において、Aが突如大声で「危ない」と叫んだ場面を考えてほしい。周囲の状況としては、この発話の直前には投手の投じた球が打者Bの頭部に当たりそうになる事態があり、さらに発話の直後にはベンチでくつろいでいたCが心臓発作で倒れるという出来事があったとする。そして、Aの挙動が居合わせた野球仲間により事後的に「Aは、音声を発したのだ(D)」「Aは、Bに球に当たらないように警告したのだ(E)」「Aは、Cに(意図的に)心臓発作を起こさせたのだ(F)」というようにD、E、Fによって証言されたとする。ここで勘案されるべきは、証言者それぞれの解釈図式の相違などということではなく、外延的に措定可能な一つの出来事=行為の記述が複数の適切な形をとりうること、したがって、三つの証言が同一の人物によっても語られうるということである。(中略)行為の事後的かつ三人称的な記述は、行為の帰責者とされる者の身体的振舞いの「どこからどこまで」区切りを入れるか(出来事の特定化)、当の記述を真たらしめる信念・知識・意図をいかにして行為者へと帰属させるか(行為の個別化)、という二点の捉え方によって、「正しい」記述を複数個持つこととなってしまう』(p.7から引用)

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