存在の匿名性

存在の匿名性

 ised@glocomのディレクター東浩紀が、「表現の匿名性存在の匿名性(情報自由論9)」(『中央公論』2003年4月号)のなかで提唱している匿名性の概念。対概念として、「表現の匿名性がある」。

  • 表現の匿名性:「ひとが能動的な表現行為を行い、しかもその責任者の名前を隠したいときに必要となる匿名性」(能動的匿名性)
  • 存在の匿名性:「ひとがただ存在しているだけのとき、そこで名前が奪われ知られるのを防ぐために必要な匿名性」(受動的匿名性)
    • 具体例:消費行動における匿名性。プライバシー・個人情報を渡さないこと。Amazonのレコメンデーション(購買履歴をマイニングされること)を拒否すること。

 そして東は、この後者の存在の匿名性という問題こそが、情報社会、特にインターネットというインタラクティブな情報メディアにおいて問題になるという。それは「情報の発信と受信のあいだをかぎりなく曖昧にする、新しいタイプの情報環境」であるからだ。

 表現と存在、という対置が分かりにくいのならば、両者を「能動的な匿名性」と「受動的な匿名性」として理解することもできるだろう。かつて後者の匿名性は問題にならなかった。受動的な顕名性、すなわち、自分の意志とは関係なく勝手に名前が奪われる、という事態が考えられなかったからだ。その台頭は、情報の発信と受信のあいだをかぎりなく曖昧にする、新しいタイプの情報環境の整備に起因している。

 本論が注目したいのは、顕名/匿名の概念が、能動的な表現行為に関わる狭いものから、存在のすべてを覆う広いものへと変わっていく、この変質である。

東浩紀表現の匿名性存在の匿名性(情報自由論9)」(『中央公論』2003年4月号)より引用。

 

ネットワークから切断する権利/存在の匿名性東浩紀

 この後者の「存在の匿名性」について、東浩紀は「ネットワークから切断する権利」としても表現している。設計研の第2回で、このプライバシーの権利を、匿名性の議論と結び付けている。

東浩紀

匿名であることの権利、言い換えればネットワークから切断する権利を提案しています。これは、具体的には、ユーザーがその見返りとして提供されるサービスやアクセス権を欲していないのであれば、個人情報の提供は求めるべきではない

 

匿名=市場/顕名=コミュニティ

 さらに「匿名」(実名をかくして知らせないこと)の対概念として、東は「顕名」という言葉を立てている。そのうえで、

  • 匿名=市場(貨幣)
  • 顕名=コミュニティ(言語)

という概念軸を設置している。

 高木さんも最後に触れてくださったのですが、この存在の匿名性表現の匿名性という概念は、僕がいまから2年くらい前に「情報自由論」で提案したものです。そして最近さらに考えていることがあって、「IT-PLUS」という日経のサイトに書きました。それはこういうものです。「顕名/匿名」というものの性質を歴史的に考えると、顕名はコミュニティ的、匿名はマーケット的なものだったのではないか。たとえば政治的にものごとを決定する、なにか合意形成や――このGLOCOM FORUMのテーマは「情報社会の合意形成」というものですが――意思決定をしていくというとき、これは顕名でないといけない。しかし、物を買う・サービスを提供するという場合は、コミュニティとコミュニティのあいだの関係になるので、これは匿名的になされてきた。顕名=コミュニティ/匿名=市場という構図は、おそらく人類社会的にも長いことバランスが保たれてきたと思うんです。

 

 以下のコラムでは、昨今の匿名性=悪とする単純な図式に疑念を呈し、歴史的に市場・貨幣の持ってきた匿名的な性質(コミュニティとコミュニティの間に成立する関係)に着目しつつ、匿名性についての性格を明らかにしている。

匿名性は、人間社会の発展に障害になることもあれば、そうでないこともあると答えざるをえない。おそらく、もっとも正確な答えは、人類は時と場合に応じて匿名の範囲を使い分けてきた、というものである。私たちは、政治的な意志決定や美的判断においては、顕名的なコミュニケーション(参加者相互の個人情報があるていど共有されるコミュニケーション)を重視する。他方、財の交換においては、多くの場合そうではない。

 市場とは、本質的に、価値判断を共有しない人間のあいだで行われるコミュニケーションの場だということである。ここに匿名がもつ両義性を解く鍵がある。

(中略)

 共同体の成員は価値判断を共有している。裏返していえば、価値判断を共有していない人間は共同体の成員ではない。したがって、共同体内で完結するコミュニケーションにおいては、参加者が名前を顕し(顕名になり)、参加資格を呈示することが重要になる。私はだれで、あなたはだれか、ということが、コミュニケーションの質を維持するうえで決定的なものとなる。政治的な意志決定や美的判断において、顕名にならないと信用されないのはこのためだ。

 しかし、市場は共同体と共同体のあいだに成立する。市場の参加者は、そもそも各自異なった価値判断をもっている。したがって、相手が顕名になってもそれがなにを意味するのかよくわからない(どこどこのムラの誰某だと言われても、違うムラの人間にはよくわからない)し、逆に相手が匿名でもあまり気にならない。だからこそ、財の交換においては顕名は小さな役割しか果たさないわけだ。

 まとめよう。私たちは顕名的なコミュニケーションと匿名的なコミュニケーションの双方を必要としている。その理由は、私たちが、共同体の内部でのコミュニケーションと外部(市場)でのコミュニケーションの両者を必要としているからである。

 

存在の匿名性は擁護できない?

 倫理研委員の高木浩光は、第5回講演のなかで、この「存在の匿名性」を奪う仕組みについて論じている。たとえば携帯電話のサブスクライバIDやRFIDなど、プライバシーの侵害の恐れがある「ダメアーキテクチャ」を問題にしているのである。

 まず高木が論じるのは、「無断リンク禁止問題」(リンクによって繋がりたい・繋がりたくない)という表現の匿名性のレイヤーにおける争いは、技術的な線引きによって共存が可能だろう、ということだ。つまり、リンクを勝手にできる世界とそうでない世界を、アーキテクチャによって切り分ければよい。(→isedキーワードアクセス・コントロール」)

 しかし、プライバシーの問題はそうではない。「明らかにダメとはいえないけれども、問題があるといえる技術」については、なかなかその状況を修正することは困難だからだ。つまり存在の匿名性の領域における問題は、技術的な棲み分けでは解決しがたい。

 そしてこの問題はさらに困難なものとして立ち上がる。東浩紀は、「認知限界」という問題をここに付け加える。なぜなら人間には認知限界(情報処理能力の限界)があり、情報が増えすぎると合理的な判断ができなくなる。ゆえに、人々は判断を肩代わりする「デイリー・ミー」のような情報システムに依存するようになる。そのとき、かの情報システムに個人情報(プライバシー)を売り渡して、自分の選択をデータマイニングによって代理してもらう必要が出てくるからだ。そうでもしないと、人々は「サイバーカスケード」に陥ることになる。それでは社会秩序は維持できない。それを防ぐには、情報認知限界の問題があるかぎり、存在の匿名性は擁護できないということになる。

 「情報社会の二層構造」を用いて換言すれば、以下のようになる。