情報概念

情報概念

 東浩紀設計研第4回では、情報という概念はきわめて20世紀的な発明であったと語っている。

東:

 いまの八田さんの表現だと、社会の外部もないし、物理学の外部もないし、言語の外部もないということになりますね。僕はそういう話をしているわけではないんです。もっと素朴な話、たとえば情報技術ということが中心となって改革される領域の外部、というくらいの意味です。

 繰り返しますが、一方では情報技術の外部はないかもしれないけど、他方では「情報」という概念そのものがきわめて20世紀的なものでしょう、ということです。前に調べたことがあるのですが、"information"という言葉は1930年代まで現在のような意味では使われていません。シャノン以前は、intelligenceとあまり変わらない、たとえば諜報活動のような意味も強かったんです。ですから、僕たちはいま情報という言葉をすごく普通に使っているし、八田さんのように情報が世界を統御していると考えているわけだけど、実はこの発想自体が非常に歴史の短いものなんだという話をしているんです。もしかしたらあと二世紀くらい経つと、「情報」は古い概念になっていて、だれも使っていないのかもしれない。

 むろん、歴史が浅かろうが、将来古くなろうが、科学的には真実だからそうなんだとおっしゃるかもしれない。しかし、別の議論のレベルがある。たとえば倫理研では正義とか法という概念を扱っているわけですが、正義や法という言葉はとりあえず古代ギリシャまでさかのぼることができるわけ。しかし、インフォメーションという概念はそこまで遡行することはできない。

(中略)

 定量化可能というのが決定的なんだと思います。古くから、質料と形式、マテリアル(material)とフォーム(form)という対立がありますよね。しかし、情報という概念はこのどちらにも収まらない。そういう意味で、概念の発明といえる。

日本語における「情報」の語源

 仲本秀四郎「情報を考える」(丸善、1993年 asin:4621050737)によれば、はじめて日本語で情報という言葉が現れたのは、1876年に軍事書が翻訳されたとき、フランス語の「ランセーニュマン」の訳として使われたときである。ここでは、「敵の情勢を調査し、結果を報告する」つまり「敵情報告」が略して「情報」になった。

 そして公刊物としてはじめて日本語で「情報」という言葉が使われたのは、森鴎外によるクラウゼヴィッツ『戦争論』の邦訳で、ドイツ語の「ナハリヒト」を翻訳したものであるという。クラウゼビッツの「ナハリヒト」は「情報とは敵と敵国に関する我が知識の全体」とされ、いわゆる諜報活動は含まれていない。つまり鴎外がこのとき「情報」と訳したのは、あえて諜報と区別していた可能性が高いという。

シャノンの情報理論

 1948年、クロード・シャノンはBell System Technical Journalに投稿した論文「コミュニケーションの数学的理論」(“Mathematical Theory of Communications”)で、「情報理論」を開拓した。シャノンは、コミュニケーションを意味から切り離し、「ビット」(現在は「シャノン」と呼ぶ)という情報源の統計的性質(不確実性)にもとづき情報量を定義した。これによって情報を符号化し、ノイズを除去しつつ、発信先から受信先に対してデジタル的に通信するための、工学的な応用の領域を切り拓いた。

「サイバネティクス」のウィーバーによる「情報」の位置づけ

 東浩紀は『波状言論』18号(2004年10月号)での白田秀彰らとの対談のなかで、昨今の知的財産権をめぐる問題を、そもそも「情報を所有する・管理する」という思考が可能になっていることにあると論じている。そしてその文脈から、ウィーナーの「情報科学の誕生は、機械論と生気論、物質の世界と精神の世界という近代的な対立を乗り越える」という言葉を次のように紹介している。

ノーバート・ウィーナーが『サイバネティックス』(岩波書店、1962年)で、情報理論は機械論と生気論の二項対立を壊すんだ、というようなことを言っています。(中略)機械論と生気論というのは、物質とエネルギーと言い換えてもいいと思うけど、エネルギーの概念はもともと潜在性とか理念性と結びついているわけですね。物質とエネルギーの対立は、つまり、顕在性(アクチュアル)と潜在性(ヴァーチュアル)の対立だったわけです。

 しかしそこに、「情報」という第三項がやってきた。これは、20世紀

に起きたきわめて大きなパラダイム変換だったと思うんです。

(中略)

 情報は、いわゆる「アイデア」とは違うものでしょう。20世紀に入るまでは、世界には、経験的なものと理念的なもの、つまり、所有の対象になるモノと、所有の対象にならないアイデアしかなかった。でも情報は第三のカテゴリーなんです。アイデアは現実には所有できないけれど、情報はHDや光ディスクのなかに物理的に「所有」できてしまう。計量化したり複製したりできる。そこが問題の本質だと思う。

 これは、20世紀に入るまで人類が知らなかった、きわめて新しい概念だと思うんですよ。名和さんの『ディジタル著作権』は、ソシュールの「シニフィアン」「シニフィエ」図式で著作権をとらえています。著作物はシニフィアン(モノ)の管理を行う権利で、シニフィエ(アイデア)は決して所有できない、と彼は整理する。しかし、「情報」の概念は実はシニフィアンでもシニフィエでもない。ここが厄介なんです。情報の概念を導入することによって、シニフィエも管理可能な感じがしてしまう。

 またウィーナーについては、『波状言論』17号で次のようにも語っている。

「熱力学的な世界は、「物質」と「エネルギー」、原子論的なモノの領

域とそのあいだを満たす力の流れ、ドゥルーズふうに言えば、顕在的な

もの(アクチュアルなもの)と潜在的なもの(ヴァーチュアルなもの)

という二つのカテゴリーで成立している。それに対して、情報論的な世

界は、両者のどちらにも属さない「情報」という第三のカテゴリーをもっ

ている。そして、前回の末尾で参照したウィーナーの言葉に見られるよ

うに、情報の概念は、まさにその19世紀的二元論を止揚するものとして

現れている。(引用終わり)」

参考

  • 仲本秀四郎「情報を考える」(丸善、1993年 asin:4621050737
  • ノーバート・ウィーナー「サイバネティックス 第2版―動物と機械における制御と通信」(岩波書店、1962年 asin:4000053906