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社会科学の用語では、教科書的に以下の3つを区別する。
ised@glocomキーワードとしては、設計研第3回にて、東浩紀が楠正憲の講演における「情報社会における設計はすべてデファクト・スタンダードを握るための市場競争に委ねられる」と分析したが、その図式を批判的に検討するために提起した区別。
東浩紀
(中略)一般には行政と市場の差異というのは「正統性」にありますね。Justification(正当性)ではなくlegitimacy(正統性)のほうです*2。市場のアクターにはレジティマシーはなく、勝負したら勝った、負けた、ということでしかない。しかし行政は「ねばならない」という行動原理で動いている。だからこそ権威を必要とする。となると、企業も個人も行政もすべて同じプレイヤーとしてひとつの平面上で争う、というモデルはいささか単純かもしれません。
また東浩紀はそれに続いて、デファクト・スタンダードには、QWERTYキーボードに見る「経路依存性」が強いとし、この「経路依存性(偶然勝っただけのもの)」と「正統性」とを区別する。「すべてを市場競争の勝ち負けに委ねてしまうだけでは、そこに正統性を問うことや、責任=因果性を問うことができず、他にありうる社会の構想する契機が社会から減衰していくのではないか、という危惧が提示されている。
一方、こうした東による「市場競争」や「デファクト・スタンダード」の批判に対して、設計研第3回では、「市場競争を通じた正当化」がありうるのではないかという視点から議論が提示され、正統性と正当性という二点が交差する展開となっている。
こうした「デファクト・スタンダード」や「経路依存性」に対する批判は、社会学者宮台真司による911以降のアメリカ政治体制の批判(ネオコン批判)と通低する。
冷戦体制の終焉以降起こったことは、基本的にはレジティマシー(正統性)問題です。正統性とは社会学の基礎概念で、自発的服従契機の存在を意味します。内容が正しかろうが正しくなかろうが、しかるべき資格を持つ人間が、しかるべき手順を経て決定したことについては、誰もが従うべし。そういった期待が一般になされます。これが正統性です。
(中略)
先に述べたように、冷戦終結後「米国的なるもの」の意味が変わりました。米国の覇権追求的なエゴでさえも西側を共産主義の脅威から守るための公共的振舞いに見えた時代が、終わりました。米国の覇権エゴはまさしく覇権エゴとして見えるようになり、かつてと同じように振舞うのでは正統性(自発的服従契機)が調達できなくなりました。
また宮台は、ウェーバーの正統性をめぐるテーゼを、「予期」や「了解」をめぐる社会システム論の立場から、「決定への自発的服従契機の存在」と把握している。
また設計研第3回で東浩紀は、正統性と知識人論を重ねた議論についても触れている。
東浩紀
この議事録が出るころにはすでに時効だし、あのトークショーでの質問は半ば公的な発言だったと思うので言いますが、八田さんもご存じのとおり、あのとき宮台さんは、「この騒動のなかで僕はいまライブドアに助言する立場にある。そういう立場の人間がジェネラリストで、それはいまも企業や行政から必要とされている」とおっしゃった。ライブドアを持ち出したのは宮台さんなりにファンサービスでしょうが(笑)、しかし、ここでライブドアの名前が出てきたのはけっこう本質だと思ったんです。
こういうことです。そもそも、そのトークショーでは知識人論というか、今後の知のありかたが話題になっていました。知識人や学者が、今後どんな役割を果たせるのか。そこで、僕と北田さんの結論としては、旧来の知識人のように政治や社会現象一般にコメントを寄せるようなジェネラリストはこれからは必要とされなくなり、専門的なスペシャリストだけが生き残っていくだろうということだったんです。
それに対して宮台さんはジェネラリストが必要だと主張されたわけですが、そのとき出てきたのはライブドアだった。誰が知識人を必要としているかというと、ほりえもんが必要としている。なぜほりえもんが知識人を必要とするかといえば、むろん宮台さんがそれに乗っているとは思わないけれど、自分を支える言説が欲しいからです。じゃあ、なぜほりえもんは言説が欲しいのか。なぜ稼いでいるだけではだめなのか。それは要は、デファクトで勝っているだけだからだと思うんです。市場原理だけで正統性なしに勝利を収めた人間が、なんとかその現実を正統化しようとするとき、ジェネラリストが必要となる。裏返せば、いまやジェネラリストにはそんな役割しかないのではないか。
デファクトなものには正統性がない。経済学の言葉で言えば「経路依存性」が強い。平たくいえば「偶然で勝っただけ」のものがたくさんある。有名な例はQWERTY配列のキーボードですね。いまや知識人の言説は、偶然で勝っただけのものに対して「それは偶然ではないのだ」という虚構の必然性を与えることでしかなくなっている。今日の話とは多少ずれますが、僕はそれに危惧を感じてます。