無限のメタ化

無限のメタ化

 設計研第1回: 共同討議 第2部(4)にて、鈴木健情報社会の本質として論じたもので、ソフトウェアの計算機論的な性質上、無限にルールを書き換えることが無限に行うことができることを指す。

 アラン・チューリングの「チューリング・マシン」というモデルは、ヒルベルト・プログラムと呼ばれる数学上の問題を証明するために、「ユニバーサル・チューリング・マシン」(万能チューリング・マシン)がありうることを示した。これは、あるチューリングマシンの振る舞いのルール自体を、他のチューリングマシンがデータとして読み込むことができる、つまりある時点でのプログラムがデータとしてメタ的に読み込めることで可能となっている。

 東浩紀はこれを、あるコードとそれに対するメタコード、計算されるものと計算するもの、変数と式が、同じ形式で表すことができるということであり、つまり「メタレベルがたえずオブジェクトレベルに組み込まれてしまうのが情報社会の本質」として表現した。

 このチューリング・マシンについては、鈴木健のブログでも解説されている。

繋がりの社会性

 設計研第3回で東浩紀は、現代消費社会の欲望を「繋がりの社会性」的だとしたうえで、人間が「無限のメタ化」に耐えられないがゆえに、こうした問題は起こるのではないかという。

 つまり、情報社会においては、アーキテクチャが地理的なコミュニティ形成を妨げるために、なかなか「常識」が収束しない(倫理研第2回白田秀彰の講演。関連isedキーワードフィードバック・サーキット」参照のこと)。逆にいえば、そのおかげで「情報社会の二層構造」でいうところの「コミュニティの層の多様性」は獲得できる。

 またCMCでは、あるコミュニケーションが含むメッセージや内容は無限に「かっこ入れ」されてしまう特性が加速する(関連isedキーワードコンテクスト闘争の前面化」)。その結果、情報社会においては言語コミュニケーションによって「価値」が定着しにくい。つまり共通の価値観に基づいた合意形成が困難となる。

僕が言いたいのは、欲望のシステムの話です。こうした末期的な事態を「再帰的な構造」といえば聞こえはいいんですが、それだけではないだろうと。

 繰り返しになりますが、「いいものだから人は欲望する」という次の段階に、「他人が欲望しているから自分も欲望する」という段階がある。ここまではいい。しかし、人間はそんなにメタ構造には耐えられない。「他人を欲望する、他人を欲望する他人を欲望する、その他人を欲望する他人を……」という無限のメタ化が始まれば、そこにはもうシニカルさは存在せず、隣がなにか書いているから、とりあえず自分もリンク張っておくか、という動物的な反応にならざるをえない。

(中略)

 そして問題は、これでは全員にとってコントロールが効かないということです。消費者ひとりひとりが『電車男』をどう思っていようが、関係ない。賢いもなにもないんです

 第一段階はこうですね。「ドストエフスキーはいい、電車男はダメだ、だから俺は電車男を買わない」。第二段階は、「でもベストセラーになっているみたいだから買う。つまらないけれど、あえて買う」という段階です。しかし第三段階は、「電車男はヒットしているらしい。じゃあアフリエイトで紹介しておくか」となる。つまり、ベストセラーにみんなアフィリエイトのリンクをはるようになる。こうなると『電車男』の良し悪しは関係ない。とりあえず繋がっておけば小さいお金が入ってくるよね、ということになる。こういうコミュニケーションのなかで、ウェブじゅうに電車男という単語が蔓延してしまっている。

 こうした議論を受けて、「無限のメタ化」というキーワードを提出した鈴木健は、

たしかに人間は「無限のメタ化」に耐えられない。というか、無限のメタ化が理論的に可能であるということと、有限時間にそれが起こるかは、まったく別の問題なんですね。実際には無限のメタ化は不可能です。ただ、いまはすごくルールのメタ化の速いために、あたかもそういうふうに見えている。

と受けている。


無限のメタ化に耐えられない性質

 動物化とは「単に人々がバカになった」という話ではなく、情報化と関係しているという論点について、東のブログにて補足されている。

以下、引用する。

人間は、確かに情報を外部化(デリダ風に言えば、「エクリチュール」にすれば)、いくらでも階層的な思考を展開することができる。しかし、情報の適切な外部化ができない場合は、あまり複雑なメタゲーム(カギカッコの重複)には耐えられないのではないか。つまりは、「彼は……と言った」とか「彼は「彼は…… と言った」と言った」とかは頭の中で再現できるのかもしれないけれど、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」あたりからどうも処理できなくなってくるのではないか。そして、この限界は、僕たちの生活やコミュニケーションの様式をかなりのていど決めているのではないか。

僕の動物化論の基盤はここにあります。北田さんは、社会が複雑になってくるにつれて、メタゲームがどんどん発達すると考えている(あえて簡単に要約すると)。しかし僕は、社会があまりに複雑になると、メタゲームは有効に機能しなくなると主張しているのです。

人間社会は、もともと伝言ゲームでできています(これはデリダの哲学の中核にある教えで、僕自身の趣味としてはここからプラトンの『ティマイオス』や言語行為論の話に行きたいのですが、それはまた今度の機会にしましょう)。つまり、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」といったことの繰り返しで、遠くの情報を手に入れる、というのが人間の基本的な行動様式なわけです。

近代社会が作り出した「マスメディア」は、そのような伝言ゲームを集約する機能を備えていました。つまり、Aが言った噂話、Bが言った噂話、Cが言った噂話……をすべて集約し、いちど「新聞が言った」「テレビが言った」という単一の発信者を通過させ、読者/視聴者に送り届ける機能をもったわけです。

僕の考えでは、近代社会においてアイロニズムが人々に共有されたのは、まさにこのメディアの集約過程、言い換えれば伝言ゲームの停止過程があったからです。人間は二階のメタゲームぐらいは脳内で処理できる。だから、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだ」という回路を働かすことはできるわけです。ここにこそ、メディア論者が注目してきたような、情報の送り手と受け手の相互依存関係が生まれます。

しかし、ネットワーク社会の誕生はその集約過程を内側から崩壊させてしまった。僕たちをいま取り巻いているのは、「……とテレビが言っていた」だけではなく、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」「「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」というシニカルなのも正直どうかと思うよ」といった無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁きであり、このような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。

したがって、僕は決して、人々がバカになって、メタゲームをしなくなったと主張しているのではない。そうではなくて、人間にはもともと生物学的に(それこそ動物的に!)世界把握の階層数に限界があり、現在の情報環境はそれを超えた複雑さを備えている、と主張しているのです。言い換えれば、メタゲームはいまでも行われているのかもしれないけど、それはもはや何の意味もない、と主張しているのです。

近代社会の「大きな物語」は、伝言ゲームの複雑性を縮減してくれる装置でした。しかし、僕たちはそれを手放し、グローバルな伝言ゲームへと足を踏み入れてしまった。この荒野においては、アイロニーはほとんど役に立たない。僕はむかし、このような荒野のことを「郵便的」と形容したことがあります。

ひとびとが動物化するのは、世界が郵便的だからです。近代社会が作り上げた巨大な郵便局(大きな物語)はいまや壊れてしまい、ひとびとは、自らの生物学的限界を超えた情報処理支援装置に囲まれて、無限の伝言ネットワークのなか、メタレベルの志向の宛先を見失ったまま、局所最適に基づいて動物的に生きるしかなくなってしまった。これが僕のすべての議論の中核にある世界認識です。

 またこの議論は、倫理研第5回にて「認知限界」というタームで議論された。