脱社会的

脱社会的

 倫理研第1回で、辻大介によって提案される。情報社会倫理を考える際に射程にいれるべき存在として、宮台真司のいう「脱社会的」存在へのまなざしを向ける必要性が指摘された。

宮台真司

 社会学者宮台真司のキー概念。神戸の酒鬼薔薇聖斗事件と、それ以後の「キレる少年たち」とマスメディアで騒がれた、凶悪な少年犯罪連鎖の背景を分析するもの。

 まず大前提はこうだ。現代社会は、産業社会段階において社会全体に共有されていた目的や物語が達成された以後という意味で、「成熟した近代」となった。そこでは各種共同体(企業・地域・学校・家族など)が流動化・空洞化し、「承認から見放された人」を大量に生み出してしまう。これが現代社会の諸問題の根本的な原因であると宮台はいう。

 たとえば「終わりなき日常を生きろ」で分析するように、オウム真理教の事件の本質は、通常社会の外(アジール)に代理的承認の場を提供しようとしたことであると分析される。すなわち、「なぜこのようなカルトに!?」と世間を驚かせた高学歴な信者たちはなぜオウムに帰依したのか。それは普通の大学や企業におけるエリートであれば決して満たされることがなかった、究極的な「世直し」願望という純的な理想を――こうした中枢にいた高学歴信者の「さまよえる良心」こそが問題だと指摘したうえで――、既存の社会秩序を転覆する「ハルマゲドン」という形で昇華せんとしたからである。結果として彼らは、「反社会的」な行為に手を染めるに至ったからなのである、と。

 ただしこのような代理承認のメカニズムは、結果として通常社会の秩序に敵対したとはいえ、ある種もうひとつの社会秩序を構築する方向性にあった。つまり、広義の意味では「社会的」であるともいえる。

 しかし、その後生じた酒鬼薔薇聖斗事件はそうではなかった。(少年Aの犯行声明文にはもちろん義務教育への敵対心などの反社会的性格も見られるものの、)それは広義の社会的な承認の外側に突き抜けようとするもの、すなわち「脱」社会的なものであった。つまりそれは、もはや社会的コミュニケーションのただなかで承認を得ずとも、自らの暴力行為によってバモイドオキと呼ばれる個人神さえ自分を承認してくれればよい、とする極めて不条理的な自尊心の獲得形式であったといえる。

 そして宮台は、当時の酒鬼薔薇聖斗に対する若者たちの「共感」が、「学校がイヤだ」というようなそれ以前の若者に典型的に見られた「反」社会的なものではなく、「不条理な暴力を通じた脱社会的な感覚」という「脱」社会性に対して向けられていることに危惧。酒鬼薔薇聖斗事件以後、メディアに頻発することになった「キレる少年」たちの犯罪についても、これらは「教師が気に食わない」などの反社会的な動機やメディアの影響などは単なる「引き金」に過ぎず、もはや常に脱社会的暴力に訴え出ようとスタンバイしている状態であると分析。そして彼らを「反社会的存在」としてみなす反応を批判。むしろこの脱社会性に対する手当ての必要を説いた。

 そして脱社会的という概念は、こうした少年犯罪などに関与するネガティブなラベルとして使用されていたが、「自由な新世紀・不自由なあなた」などでは、より両義的な概念として捉え直されていく。すなわち、生きる意味を追求するがゆえのオウム的なハルマゲドン幻想に依るのでもなく、脱社会的な暴力という極限形態に陥るのでもない、ポジティブな「脱社会的」の方向性である。また近年の宮台氏は『援交から天皇へ』という言説戦略の転向を行ったとされているが、「脱社会化が進むこの国で『天皇のモード』が輝くとき――『天皇ごっこ』(見沢知廉)あとがきより」がもっとも早い段階の文章である。

  • 宮台真司「終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル」(筑摩書房、1995年)
  • 宮台真司「透明な存在の不透明な悪意」(春秋社、1997年)
  • 宮台真司「自由な新世紀、不自由なあなた」(メディアファクトリー、2000年)
  • 宮台真司「援交から天皇へ―COMMENTARIES:1995‐2002」(朝日文庫、2002年)

脱社会的」存在としてのウィニート

 この「脱社会的」存在の情報社会でのあり方として、東浩紀Winnyを例に用いて表現している。

 というのも、いまの僕たちの社会は、とにかくみながフリーライダーになりたい、つまり脱社会的存在でありたいが、しかし社会全体はまわってもらいたい、という都合のいい欲望を抱えているわけです。そのご都合主義が露骨に表面化したのが2ちゃんねるなわけですが、Winnyは、まさにそういう精神でまわる箱庭をつくってしまったわけですね。だとすれば、おそらく、いま多くの人々がひそかに期待しているのは、リアル・ワールドまでもがWinny化していくことだと思うんです。「自分は何もリスクは冒したくない、働きたくもない、でもなんとなくコンビニに行けばメシは手に入る、あとは家で寝ていれば何とかなる」というような(笑)。

 こうした脱社会的存在の台頭を前にして、さらにさきほどの話に繋げれば、白田さんがおっしゃったように「社会的になれ」という立場がある。せめて社会的にならずとも反社会的になれと。しかし人々の欲望は確実にWinnyアーキテクチャに向かっている。WinMXとWinnyの利用形態を、それぞれ「交換型」と「共有型」と呼び比較する見方がありますが、ここでの文脈で言えば、WinMXは「反社会的」だけど、Winnyの方はむしろ「脱社会的」だということになるでしょう。そして、今後はその差が非常に重要になってくると思います。

 さらにこの脱社会的存在は、「ポストモダンの二層構造」におけるインフラの層を脅かす「フリーライダー、テロリスト」的な存在と重ねあわされて説明されている。

→isedキーワード「ポストモダンの二層構造」参照のこと。

アリーナの他者

 倫理研第3回で北田暁大が提唱する「情報社会におけるリベラリズム」において、そこから零れ落ちようとする存在として考察される。北田によれば情報社会CMC空間)とは「コンテクスト」調整をめぐる闘争が激化し、動物的な応答能力がそのまま責任制に転化する空間である。そこで台頭するコミュニケーション戦略のひとつとして、コンテクスト闘争から<降りる>「多元主義的コミュニタリアニズム」が析出されているのだが、この存在がCMCという言論空間のアリーナから降りてしまう「脱社会的存在」として捉えられている。

 北田の提唱するリベラリズムは、この「アリーナの他者」の存在を容認しつつも、それがはたしてよいものかどうか、問題提起をしている。