賢い消費者

賢い消費者

 設計研第3回にて、東浩紀村上敬亮の「可視化」をめぐる議論の前提として指摘し、消費社会論の文脈から批判的に検討することになる。「コンシューマー・エンパワーメント」が起こる、という発想とほぼ同義。(isedキーワード「可視化」/「コンシューマー・エンパワーメント」参照のこと。)

東浩紀

 これは素人ながら経営学の本を読むたびに感じるのですが、日本の消費者は目が肥えているというのはとてもよく言われますね。実際にそうなんでしょうが、IT化によってすべての情報をオープンにし、消費者の選択を支援すれば市場もうまくいくはずだという発想、いわゆる「コンシューマー・エンパワーメント」*2の発想というのは、日本独特の商慣行や信頼関係を前提としているような気もするんです。ほかの国の消費者も、IT化によってどんどん賢くなるんでしょうかね。

(中略)

 たしかに消費者はさまざまな商品を買っている。ネットでは無数の情報が公開され、たとえばkakaku.comのようなサイトもある。結果として、プラズマテレビなり液晶テレビなりへの消費者のリテラシーが高まり、みな高水準の商品を低価格で買えるようになる。それはたいへんけっこうなんだけれど、そもそもそんな新商品が必要なのかどうかが、僕には疑問なんですよ。

 消費社会論の前提ですが、欲望は簡単に必要性から切り離される。一般には「ニーズ」とかいう言葉で意図的に混同されていますが。したがって、適度な一撃さえあれば、ひとはなんでも欲望できる。そしていちど欲望が与えられれば、その欲望に対して最適なシステムはいくらでも開発できる。「可視化」のお話はそこに関わるわけですが、では最初の一撃はどうなっているのか。そこはぜんぜん可視的じゃない感じがするんです。

 そして、この最初の一撃の謎はどんどん高まっている感じがします。一昔前はもう少し簡単な話でした。たとえば1980年代の消費社会論においては、「差異」の欲望、平たく言えば一種の階級上昇志向が消費のドライブになっているという話だった。いい服を着て他人よりも尊敬されたい、いい車に乗って他人に威張りたい、そういった欲望が新商品へのドライブになっていたというわけです。これはシンプルですよね。

 しかしいまはどうか。たとえば、いま消費者はブログやSNSを必要としているということになっている。そこで「繋がりの社会性」という論理も構築される。しかし、それは本当に現実なのか。みな本当にそんなに繋がりたいのか。もともとひとはネットで日記を公開したいなんて思っていたのか。少なくとも、つい10年前まで、インターネットや携帯でたえず繋がっていたいという欲望は存在しなかったはずです。そもそもその可能性がなかったのだから。じゃあ、どうしてそんな欲望が生み出されたのか。その部分を棚上げしたまま、ネットの充実が語られて、コンシューマー・エンパワーメントが語られても、正直同意できないものがあるんです。